第8 回目 中国雲南省騰越 2015 年12 月

大歓声で迎え入れる日本兵たち

1:依頼と修正



    1:依頼と修正

2015年10月より新たな日本の兵隊の連絡が始まり、11月9日に正式な帰還依頼が来た。彼らの思念の存在の位置を推測し、タイ王国メーチャームだと思ったが、その勘違いに目に見えない世界から修正が入った。 


     中国 騰越


     頭の中に地図と地名が出てきました。 


     11月9日に日本の兵隊が話した情報。


     ① 佐賀県出身 

    ② 山の裏にいる 

    ③ 妻が知っている


     という3つのキーワードを元に中国・騰越で第二次世界大戦中に玉砕した日本軍の情報との符合点を確認し始めました。


     ① 騰越で戦っていた兵団は、第56師団148連隊龍兵団でその兵隊方の出身に佐
賀県を含んだ北九州全般が含まれていました。 

    ② 騰越は、町の周囲4面に山を構えていて、来凰山が戦局を左右する主な山でありました。 

    ③ 2015年夏、九州の久留米に日本の兵隊からの依頼(菊兵団)により、彼らを送り届けた際、兄弟部隊の写真を久留米駐屯地広報資料館で嫁が撮影。それが龍兵団でした。 


     これが、妻が知っていると言った理由のようでした。これにて日本の兵隊の言葉と史実に基づいた情報との符号点を通して、現実的にも、11月9日に彼らが伝えてきた情報が合致した。が、具体的な情報の一致よりも、不思議な出来事が私を確信に導いてくれていました。 


     その不思議な出来事の一つは、前回の日本の兵隊からの帰還依頼ミャンマー・ミートキーナへの訪問の際、情報収集の為、靖国神社にて、その伏線が見えていたことです。私がミートキーナについての情報を集めに行っていたにも関わらず、偕行文庫室長より、中国での戦闘について記された本を頂いていたことでした。私は、これからミャンマーへ行くのに、何故、中国における戦闘に関わる本を下さったのか理解が出来ないでいました。ですので、中国での戦闘についての史実には全く興味が湧かず、むしろ、我々夫婦が関わっている日本の兵隊方とは全く関係の無いものであると位置づけさえしていたので、正直、頭を傾げ乍ら、自宅に持ち帰っていました。 


     さらにもう一つ上げるとすれば、タイ王国が次の依頼先かと思い、飛行ルートを検索していくと、何故か、中国・昆明ルートばかりが目に留まり、意識が引っ張られ、中国・昆明経由でタイ王国チェンマイへ移動し、メーチャームまで車で移動しようかと考えて始めていた私の意識が、中国・昆明から、見たことも無い道が頭の中に現れ、そのまま、中国・騰越方面を進んで行ったことが原因でした。そして、騰越という文字が意識の中に浮かび上がってきました。 


     そんなことから、導かれた騰越が現実的な情報をあいまって、理屈の無い見えない導きの力が確信をさせました。 


     まずは、妻に伝える。過去7回、我々はタイ王国・ミャンマーと日本の兵隊からの帰還依頼を受けてきていたが、中国からの依頼が今まで無かった為、嫁が疑心暗鬼のようでした。それに、嫁の情報網が薄い場所ということも大きなネックになりました。中国の昆明ぐらいなら、嫁の情報網がまだ発揮する場所でありましたが、それ以上に中国の、しかも、田舎である為、まず、怖いというイメージが払拭されませんでした。 


     そこで覚悟を決めました。『いざとなれば一人で行くか』聞いたことも無い土地で情報が少ない中、ネットの検索ワードを考えながら、必死になって私なりに渡航する為の現実的な情報を集めていきました。 


     数少ない日本人の慰霊ルートを辿るとネットを通して僅かながら情報が入ってくることがわかりました。騰越までの国内線飛行ルートは無く、その手前の保山という街まで飛行機で行き、そこからタクシー等を拾って,時間をかけて騰越に向かっているようでした。が、日本語はもちろん、英語を話せるガイド・タクシー運転手が見つかりませんでした。騰越は外国人の観光客が多く訪れるような場所ではない。語学に優れたガイドは観光地のある大きな都市で仕事をするに決まっている。よって、言葉の問題は解消されないものと覚悟をきめました。 


     途中、チェンマイ在住のFacebookの友人を通して、ガイドとなれるような方がいないか当たって頂いたが、当然のことながら、厳しく、お手伝い出来ない旨を伝えられてきた。追い打ちをかけるかのように、万が一の望みもここで断たれました。 


     情報を調べていく内に、2009年2月17日に騰越市外に騰沖驼峰空港が開港したと目が覚めるような情報が入ってきました。ネットを調べる限り、過去の慰霊ルートを見ても、この飛行ルートを利用した方がいないようでした。さっそく、調べて行くと、中国東方航空なる飛行機会社が運航していることがわかりました。正規料金は1人20,000円前後。保山空港まで利用した旅行者の日記を拝見していると、現地旅行社にて、半額近い値段で国内線の航空券を購入できることが書かれていました。 


     これで飛行ルートにおける確認作業は完了。あとは本当に妻が行くか行かないか。子供に聞くと、彼は日本に残りたいと自分の意思を明確に表明しました。そこでいつも英語の家庭教師をして頂いているT先生のアパートで預かって下さる話が出てきました。子供に聞いても、T先生と一緒にお留守番する方が勉強でわからない所も聞けるので良いと息子は選択しました。ちょうどT先生のご友人が来日するようでT先生とその方が任せて下さいと言ってくださり、子供の年末の身の振り方が決まりました。 


     後は妻の最終的判断ですが、妻も『どうせ、貴方だけだったら、何も出来ないでしょ。私も当然行きます』と共に中国雲南省騰越に行くことを決めました。条件は一番高い保険入って下さいでした。当然のことながら、私もそれに了承しました。 


     旅行サイトで取りあえず、中国雲南省、昆明長水空港までの飛行機チケットを購入しました。国内線は中国の旅行会社を介して、昆明長水空港から騰沖驼峰空港までの航空券を購入しました。意外に簡単に購入できたのと中国の旅行会社の担当の方が丁寧な応対をして下さるので驚きました。 


     次はホテルですが、中国ホテル予約サイトCtripでホテルを探し始めました。贅沢な旅行をすると気がそがれるので、貧乏旅行と決め込んでいましたが、妻の顰蹙(ひんしゅく)をかい、『ホテルは良い所に宿泊して』と言われ、それには承諾をすることにしました。 


     初日の中継地である昆明空港近くで、1軒目のホテルを見つけ予約しました。2つ星ホテル。乗り換え地になるので、ベッドの上で寝ることができれば問題ないと思いました。


     あとは騰越でしたが、嫁が3つ星もしくは4つ星ホテルを希望し始めた。現地滞在中は重要なので良いホテルに滞在したいと言い出す。貧乏旅行を考えていた私は、妻が選び出したホテルを見て、あまりの高級さに違和感を感じながらも、妻の言い分に理解を示し、良いホテルを予約しようかと観念し始めていた。が、奇妙な情報が耳に入ってきた。どうもホテルに外国人宿泊許可が出ているホテルと出ていないホテルがあるということでした。最近、騰越に立ち寄った旅行者のブログを読んでいると、どうもその方は外国人が宿泊できる安価なホテルを見つけることが出来ず、その街を脱出しましたと書かれていました。この時点で不安が最高潮まで高まりました。どうしたら、外国人が宿泊出来るホテルが見つかるのか考え始めました。そして、昆明で予約したホテルはどうなるのかと予約サイトに確認すると、《お客様がおっしゃられるように、予約されたホテルは外国人宿泊の許可を取得されていないホテルですので、予約キャンセルと返金を致します》といったメールが送られてきました。ここで予約したホテルが全て駄目になり、予約を取り直す必要性が出てきました。 


     にっちもさっちもいかず煮詰まっている私を見かねて、妻が友人ルートを伝って外国人が宿泊できるホテルを探し出してきました。しかしながら、昆明にしても、騰越にしても、ホテルの位置が気に食わなかった。特に騰越が・・・。 


     そんな頃、騰越に10年前に慰霊に行った方とメールをし始めました。偶然、関西圏に在住の方でした。彼は夜だったら電話かけてきていいよと気さくにメールを下さいましたので、さっそく、電話をしてみました。年齢はおそらく60代ぐらいのようで、アジア圏の戦跡を辿って、いろいろ足を運んでいるようでした。最近ではロシアに行かれたとか。慰霊談話に花が咲いたが、私がしている帰還依頼のことについては一切話さないように心掛けました。貴重な情報人物であるし、過去、そういった話をすると機嫌を悪くする人や奇妙に思い、距離を置く人がおられたからでした。彼は騰越に訪れた際、悔やまれたことを教えて下さいました。 


     ① ホテルは騰越城があった街の中心地に取りなさい。

     ② 文星街という歩行者天国をゆっくりと歩くと良い。

     ③ 戦争博物館に行って、日本軍の遺品を見てきた方が良い。


     これで私の中で騰越という場所がうっすらと近い存在になっていきました。 


 2:中国での帰還依頼遂行の為、人が集まる


     ここでふと面識のない北海道在住のF氏のことが頭に浮かんできました。時間的余裕が無く、余計なことをしなくても良かったのですが、以前、ご縁を持ったH放送のG氏の紹介で知りあった方に中国雲南省へ日本の兵隊方からの帰還依頼を遂行することと、今回は夫婦2人で行くことを伝えることにしました。2015年の夏に機会あれば、この我々の旅にご同行したいと言った旨を聞いていましたが、半分、冗談じゃないかなと思っていましたし、我々夫婦が行くミャンマーの僻地についてくるような奇特な方はいないと決めつけていました。

何故、基本的に夫婦だけで行きたいかは以下の理由です。 


    ① 霊感の弱い私は日本の兵隊の幽霊の声や連絡方法に意識が集中していて、気遣いが出来ない。もしくは気遣いをして、完全にアンテナが役に立たなくなる。 

    ② 現地で頭の中の映像を頼りに場所を見つけ出すことが多く、プランの無い旅に人を同行させられない。2014年夏はホテルの予約は一切せず、行きました。

     ③失礼ですが、日本の兵隊の幽霊と私が会い、日本へ連れて帰る様を見たいと思うミーハーな人は仲間として行きたくない。活動の場や空気が乱れます。(それだけ真剣なので、怒らないで理由を読んで下さいませ) 


     すると、F氏から『慰霊地に持って頂きたいものがあるので、ご住所を教えて下さいませんか?』とメッセージが届きました。私は『なんだろ?重いものだったら嫌だな・・・』と思いながらも、密かに構えていました。住所をお伝えすると、しばらくして、郵便ポストにレターパックが入っていました。その時点で《ラッキー。般若心経の類かもしれない(過去頂いた経験有り)》と思って開封すると中国元でした。F氏の戦地で亡くなった日本の兵隊への思いを感じさせられました。彼らの帰還の為に大切に使わせて頂こうと預からせて頂きました。お会いしたことのないF氏とはいったいどんな方なのだろうとSNSにのっている彼の顔を時折、拝見させて頂いていました。 


     11月下旬某日。再びF氏から連絡がありました。滞在先の海外からのメッセージでした。内容は、今回の中国雲南省騰越の旅に同行可能かどうかの打診でした。よく読んでみると、一人だけではなく、ご友人も同行を願い出ていました。ご友人は中国で会社を経営されていて、中国国内であれば、お手伝い可能だとのことでした。 


     瞬間的に悩みましたので、ご返事は週末にさせてほしい旨をF氏にお伝えしました。安易に返答することが出来なかったからです。同行者がいれば、気遣って、日本の兵隊の声・コンタクトに気持ちが集中出来ないし、嫁の意見も聞かなければならなかったからだ。私は妻に事の次第を話し、『北海道のG氏の友人であるので大丈夫じゃないかな?』と説明しました。いつもなら妻はすぐにNOの返事をするのですが、何故かすぐにOKでした。週末まで返答を待って下さいとF氏に言ったものの、即答に近い形ですぐに返事をしました。F氏も呆気にとられたかもしれません。私自身の中ではF氏の同行について、先ほどの理由で通常ならお断りしたい気持ちが強いのですが、彼がメンバーであるような気が致しました。ですので、妻に話す時は好意的に話していたと思います。が、妻もそんな私の態度に関係なく判断する人間なので、おそらく共に同じ感覚を持ったのだなと思いました。 


     そうと決まれば、F氏に我々夫婦間の旅の日程や行動を共有するために作ったPDFファイルをすぐにメッセージに添付して送りました。数日後、F氏のご友人で中国在住のKさんからメールが届き、『なんでもおっしゃってください』と我々の日本の兵隊の帰還依頼完遂のための旅のサポートを申し出て下さいました。 


     余談ですが、日程・行動が描かれたPDFファイルは、妻に計画の透明化と安全性をアピールする為に夫婦間で作成したものでした。今回は、それだけ、妻の不安が大きいと感じたからでした。


 


     決め兼ねていたホテルのことを中国在住のK氏に相談すると、すぐに外国人観光客が宿泊できるホテルを探し出してくださり、予約をして頂きました。目的地騰越でも私が望んでいた街の中心に構えるホテルを予約して下さいました。旅の問題点が解消されていき、心強い存在になっていきました。 


     そして、現地、騰越では中国在住のK氏がレンタカーをお借りし、中国での車の免許を持っておられるK氏が運転して下さる旨を伝えられてきました。これも現地でタクシー移動を考えていた私にとっては渡りに船で現地での日本の兵隊の捜索の容易化を期待出来ることとなりました。さらに中国人の奥様もご同行することで言葉の問題も解消され、現地でのサポート体制が築かれていきました。


     全て、現地での用意を整えて下さったK氏より、ホテル予約証明書をメールにて送って頂き、外国国籍である妻のビザの発給も中国大使館指定の旅行会社に手配し、スムーズに入手することが出来ました。これによって、夫婦で中国国内への旅が可能となり、無事、騰越への準備が整いました。 


     それからは出発まで仕事をとにかくこなしていました。仕事中心で空いた時間に現地騰越でのより詳しいピンポイントの場所の捜索に力を注ぎました。 


     捜索し始めた地点で山の特定はあらかた済んでいました。初めに言った山の裏というのが来鳳山のどこを指すのかがポイントになっていました。これはとにかく現地に行ってからというのを決めて行くことにしました。そして、もう一つの場所が私の中では待ち合わせ場所となりました。それは倭塚でした。しかしながら、現地に行けば、場所が変わることがある。過去に経験済だったので、気持ちをニュートラルにして行くことに決めていました。 


     12月24日までに確定していたことは、中国雲南省昆明で皆さんと合流し、さらに雲南省騰越へ国内線にて向かうということでした。 


 3:兵隊方の待つ中国雲南省騰越へ出発


     12月25日朝5時半に家族3人揃って関西空港へ向かいました。子供はT先生のご友人が12月24日の深夜にタイ王国から関西空港に到着し、そのまま朝まで関空で待ち、朝7時にAir Chinaのチェックインカウンター近くで合流し、息子を預けるという話でまとまっていました。 


     リムジンバスにて国際線のフロアに着くと、すぐにT先生のご友人を見つけることができました。子供を預け、我々夫婦はチェックインし荷物を預けてきました。ゲートに向かう前に、子供のところに行くと、涙を浮かべ始めていました。最後に妻が子供に何か話しかけ、T先生のご友人と子供が空港から電車乗り場に向かうのを見送りました。『すぐに慣れるさ』と私が言うと、そうだねと言って、振り切るようにゲートの方へ顔を向けました。 


     予定通り、飛行機は関西空港を飛び立ち、一路、上海へ向かい始めた。機内では3席並んでいて、我々夫婦は通路側と真ん中の席に座りました。窓側に座ったのは日本語堪能な中国人女性でした。何がきっかけで話し始めたのかわかりませんが、いつのまにか私と話をし始め、嫁曰く、中国人よりも話し声が大きく上海までの時間、おおよそ話していたと言っていました。確かに、話が弾み、話している時間が多かった。空港に着く前には名刺を頂いたり、手相をみてもらったり、困ったことがあればwechatを登録して私があなたの通訳をしてあげると中国人女性が言い始めた。とはいうものの、彼女は上海で東京から来る友人と合流し、フランスへ旅行に出かける予定だと言うのでお気持ちだけ有難く受け止めました。そんなわけで、上海まではあっという間に到着しました。夫婦二人で荷物を拾い上げ、次の便昆明行きの飛行機の情報を確認することとなりました。 


     チェックインカウンターはわかったので、早めに荷物を預けようと行くが、少し早かったせいか2時に来てくれと言われました。2時に行くと、2時半に来てくれと言われました。なんだか様子がおかしいと感じながらも、2時半に行くと、飛行機がキャンセルになったから、Air Chinaの別のカウンターで話をしてきてくれと言われました。嫌な空気に包まれながら、別のカウンターへ行くと、多くの中国人が集まっていました。『こりゃ、どうしようか・・』悩みながらも中国人に混ざり並んでいると、横入りがすごく、負けっぱなしでした。が、急に中国人スタッフが手招きしてくれて、来るように言われました。ラッキーな私はさっそく、『どうしたらいいんだ?』と話をし始めました。『26日の朝には昆明に着いて、朝の国内線で騰沖へ行くんだ。なんとか他の飛行機に振り替え、今夜中に行けるようにしてくれ』と頼むと、険しい顔を見せながらも、四川航空で振替便を見つけてくれました。が、その日の目的地である昆明空港には、予定の19:55着ではなく、次の日の0:35に到着するとのことでした。間に合うならそれでいいと判断した私は妻にそれを伝え、気長に行こうかと気持ちを切り替えました。結局は上海空港で9時間待ちになりました。 


     お腹も減ったことだし、空港内でwifiがありそうなレストランを見つけ、寛ぐことにしました。そこで他のメンバーにメールをして機体トラブルで遅れる旨を伝えると、北海道在住のF氏も杭州で同じようなトラブルに会い、遅れるとメールが入ってきました。しかしながら、振替便でF氏が我々よりも3時間早く昆明に到着するようでした。なんだか皆さんに申し訳ない気持ちでしたが、これも不可抗力。諦めてどんと構えることにしました。 


 4:不思議な感覚 騰越戦の本を持たされる 


     上海で出来た時間を利用して、奇妙な出来事の続きをここですることにしました。実は、自宅を出発する前に、「雲南正面の作戦」という本が気になり始めました。私は荷物になるので持って行くのは止めておこうと思い、その本にある地図だけをコピーしてかばんの中に忍ばせていました。玄関に立った瞬間、やはり、強引にあの本を持っていかなきゃという思いになりました。こういう時は理屈ではない直感からくるものに従った方が良いと思い、私の手持ちリュックの中に入れ、いつでも取り出せるようにしていました。そういう経緯もあって、「雲南正面の作戦」の騰越での戦闘について上海での空き時間で読み始めました。あっという間に読み終わり、頭の中で騰越での日本軍の動きがイメージ出来るようになりました。そして、今回の旅は騰越のみで龍稜や拉孟といった場所に行かないんだということが感覚的にわかりました。 




     中国から合流をするK氏は16時過ぎには昆明に問題なく到着していたようでした。我々がメールを送っている時、K氏は移動中でしたので、F氏とだけメールやりとりをしていました。 


     18時過ぎになってやっと中国在住のK氏が昆明空港に到着し、連絡が取れ始めました。我々夫婦は遅れる旨を連絡し、0:35に昆明空港へ到着する旨を伝えると、電話連絡頂けますでしょうか?とメールが届きました。が、中国で電話が使えなかったのでメール連絡だけするようにして、再度、カウンターで確認して本当に振替便が飛ぶのかどうか確認してから連絡しますとお伝えしました。カウンターに行くと、飛ぶことが確認でき、そのまま荷物を預けることが出来ました。が、wifiが使用できなくなった私は再びK氏に連絡出来ないまま、ゲートへ向かうことになりました。音信不通であることが、K氏に我々が無事、昆明に向かったと予測してくれればと願うばかりでした。


     四川航空の飛行機に乗り込むと、先ほどのキャンセルになった便で振り替えられた中国人がたくさん搭乗してきて満席になっていました。4時間ほどの飛行移動。他国の人たちとは言え、なんだか同胞のような気持ちになって、少し嬉しい気分になりました。しかしながら、騒ぎ出すと煩いので、少しの辛抱だと自分に言い聞かせました。 


     予定到着時間であった0:35を過ぎてもまだ飛行機が下りない。理由がわからないまま、じっとしていると、中国語で機内アナウンスが流れました。1という数字が聞こえたような気がしました。しばらくして、飛行機の高度が下がっていくのがわかりました。窓の外を覗くと霧が濃く、かろうじて飛行場の地面に並ぶ誘導灯が見えました。そして、無事、着陸成功。機内は拍手に包まれました。よくあの濃霧の中、着陸出来たなと思っていると、結局、到着時間は30分遅れの1時過ぎでした。ここで、先ほどの機内アナウンスは昆明空港上空で霧の状態をギリギリまで見極めて、出来たら1時にランディングするというアナウンスだったのかなと推測しました。これで本来の予定時刻よりも6時間遅れで、今回のチームメイトの待つ昆明に到着しました。

  




 5:F氏 試されるが如く荒れる道のり 


     12月26日 昆明空港に到着して外に出た時は、夜中の1時半でした。私の中では既に北海道在住のF氏は到着していて、中国在住のK氏と合流し、こんな時間でもひょっとしたら昆明空港で待ってくれているのではないかと淡い期待を寄せていました。荷物を取り出し、空港から出ると多くの待ち人でごったがえしていました。空港の外はタクシーの勧誘が多く、本当に断るのにたいへんでした。周囲を見回すが、日本を発つ前にメールにて送って頂いた写真の方は見つからなかった。御二人とも、さすがに遅いからホテルで休んでいるかなと思い、タクシーを捕まえてホテルに向かうことにしました。が、空港屋外に出る前にもう一度、見回ってみました。やはり、今回同行するはずのお二人の姿を確認することが出来ませんでした。致し方なく、勧誘するタクシードライバーにホテルの住所を見せ、値段を聞いてみた。80元(1600円ぐらい)だった。少々高いとは思いましたが、先ほどのフライトで疲れていましたのでもういいかとそのドライバーにお願いしてホテルに向かうことにしました。無事、ホテルに到着はしたが、2人だから80元×2名だと言う。160元だと日本円で3,200円。たかが10分程度の移動時間で・・・。ぼられてるのではないかと思いましたが、早くホテルで休みたかったので素直に払うことにしました。 


     ホテルフロントへ行くと、スタッフが少し待つように話かけてくれました。そして電話の受話器を取る様に促されました。どうも、中国在住のK氏のようでした。K氏は空港出口のロビーで我々を待ち受けていたようでした。K氏の気持ちを思うと悪い気がして、恐縮してしまいました。とりあえず、K氏からはホテルの部屋で待っているように支持をうけました。しばらくすると、部屋の電話にK氏が到着したのでロビーまで来てもらえないかと中国人の奥様から連絡が入りました。ホテルロビー1階まで行くと、K氏とその奥様が待っていました。これが初対面。メールでしかお話したことがなく、なんの縁も無かった我々が初めて顔を合わす瞬間でした。 


     話を聞いていると、北海道在住のF氏は現在、貴州空港にいるようで、まだ昆明に来られていないようでした。詳しく聞いてみると、霧が濃く、昆明空港に向かわず、別の空港で様子を見ながら待機していたようでした。最終的に飛行機から降ろされ、荷物を拾い上げたF氏は空港の外に出て、昆明の予約していたホテルに移動する為、住所をタクシー運転手に見せると、おかしな顔をされ、これはおかしいと思い、改めて、空港を調べてみると、昆明空港でないことがわかったそうです。それから、飛行機会社のカウンターで確認したところ、濃霧のため、別の空港へ降りたった旨を知らされ、25日の内に昆明空港に到着不可能であること、そして、当初予定していた騰越への移動日である26日もいつ昆明空港に向かって飛び立つかわからないということを伝えられたようでした。 


     とりあえず、K氏より、『今日は遅いので部屋でゆっくり休んでください』と言われました。そして、26日の国内線移動について、改めて、メッセージを部屋のドア下から入れておきますのでということで初めての顔合わせ・ご挨拶が終わりました。 


     部屋に戻り、シャワーを浴びるとお湯が出ず、滝行に近いような感じでした。 K氏のお部屋も同様でどうもこのホテルは2つ星ホテルであまり部屋のコンディションが良くないようでした。空港から近く便利が良いのですが便利が良いだけと諦める他無かった。これも私が貧乏旅行で行きますのでとK氏にお願いしていたせいでした。大変、申し訳ない気持ちになりました。 


     朝早く起きて、ホテルのwifiを使ってメール確認すると、北海道在住のF氏からメールが来ていました。なんでも、本日、はっきりと確約の取れる飛行スケジュールが確認できない旨が伝えられ、一緒に昆明空港より騰沖空港へ行くことが出来ないので先に行ってくれとメールが送られていました。とにかく、我々夫婦とK氏夫婦4名で朝から昆明空港へ向かい、フライトタイムテーブルを確認するのでした。 


     空港で電光掲示板を見ると、DELAYの赤い文字が・・・。我々の国内線移動にも暗雲が立ち込めてきました。午前中に、最終目的地の騰越に到着予定が、12時半出発に延長されたとのこと。中国国内ってこんなに移動がたいへんなんだと、ここで初めて知りました。 


     どんと構えるしか選択肢はなかったので、ゆっくりと空港内で歩いていると、日本の
兵隊から、焦燥感が背後から伝わってきました。『あのさ、今、状況見て、無理でしょ?早く来て欲しいなら、これ以上延長されないように、飛行機をなんとかしてよ』と心の中で念じるのでした。 


     K氏は初めてお会いし、今まで何の縁も無かった方でしたので緊張するかなと思っていましたが、人柄が良く、とても安心感を持ちました。長い待ち時間でしたが、F氏の飛行機の段取りなどで忙しくされていました。私のような身体だけ現地に赴くようなお気楽な身分でなく、K氏の徹底したサポートにただただ敬服致しました。 


     そろそろ搭乗時間に近づいてきたのでゲートのある建物内へ移動しました。K氏夫妻がいるだけで不安な気持ちは解消され、安心して行動を始めました。持ち物検査を通り抜け、我々の搭乗するゲートへ向かう。ゲート前に着くと、何やら様子がおかしかった。お弁当が用意されていました。この場合、K氏のご経験によると、飛行機の出発が延長される可能性が高いらしく、理由は出発延長で落ち着かなくなった中国人の乗客に食べ物を提供し、大人しくして頂くという狙いからのようでした。お腹が満腹になれば、あらかたの中国人は少し我慢ができるようだ。なかなか発想が面白い。確かに私も弁当を頂き、お腹が満たされれば、多少の我慢が出来るようになる。日本では延長があっても弁当を提供するというのはあまり聞いたことが無い。日本もこのシステムどうかな。 



     飛行機の搭乗券をゲートスタッフに見せると、弁当を頂けました。4人で椅子に座り、弁当を食べ始めた。この弁当がとても美味しくて驚きました。好き嫌いの多い私が何も残さず、食べ尽くしました。正直、おかわりをしたいぐらいでした。妻も残さず食べているのを見ると、美味しかったのでしょう。

  


    食事が終わると、延長がどのくらいになるのか気になってきました。上海から昆明への移動も機体トラブルで6時間のロス。そして、ここ昆明から騰沖空港(騰越)までの移動も半日の遅れが確実になりました。現地に着くまでこれほど困難な道のりになるとは予想外でした。中国国内の移動ってこんなにたいへんなんだということを身に染みましたが、なによりもこれから先の動きがスムーズに進むのかが気になりました。そして北海道在住のF氏。何時、追いついて来られるのかが気になりました。ひょっとしたら、26日、合流も厳しいかもしれないと思い始めていました。本来のプランでは朝の飛行機に乗って、騰沖空港には午前11時頃には到着しているはずでした。午後からは来鳳山と国殤墓園に訪問予定でしたが、大幅に予定が狂っていました。これも意味のあることなのだと思うしかなかった。




 6:騰越の空港での兵隊の歓声


     結局、朝9:30に出発のはずが、昆明から騰沖空港までの国内線が出たのは13時過ぎでした。しかしながら、このおかげで中国在住のK氏とお話が出来、親交を深められることが出来たのが私には満足でした。 


     機内では座席がバラバラになりました。一人だけ若干離れることに。しかしながら、列が同じでした。K氏奥様・妻・K氏と横並びに席を取り、通路を挟んで反対側座席の窓側が私の座席でした。飛行機はとても綺麗で古びたさを全く感じなかった。1時間ほどのフライトで、窓の外を見ると、非常に天気がよく、今回の旅の行方を考え、想像を膨らませながら、景色を眺めていました。なんともリラックスした時間を過ごしていたが、あっという間に飛行機が下降体制に入っていきました。空港に近づくにつれ、機体の高度が下がり、緑の山々が視界に入ってきました。 


     すると、突然、多くの日本の兵隊方の声が機内に聞こえてきた。『〇〇さん(著者)
が来てくださったぁ』という大歓声でした。『数がすごい・・・。ひょっとして、ほとんどの兵隊さんがまだ成仏していないのか?』と怖気づいてしまいました。こういう飛行機が空港に着く段階でこれほどの数の日本の兵隊方が迎えに来てくれているのは初めての経験でした。思わず、『神様、頼みますね』とお願いをしました。 


     飛行機が無事、空港に到着し、下りてくると、妻が興奮して、話しかけてきた。『すごかったね。すごいたくさんの兵隊さんが大喜びで○○さん来てくれてありがとうって言ってた。貴方を見たら、手を合わせていたのが見えたよ。わかったねー。空港で多くの兵隊が並んで敬礼してたよー。すごいたくさんだったぁ』と聞いて、なんだ、、、妻もわかっていたんだ・・・と思いました。しかし、あれだけの数の日本の兵隊方がまだ成仏来ていない状態でいるなんて。あんなに歓迎されるなんてすごいなと思うのでした。K氏が近づいてきて、『奥さんが着陸前に突然泣かれて。大丈夫ですか?』と話しかけてきたので、『いや、ものすごい数の日本の兵隊が着陸前に近づいてきて焦っていました。妻もおそらく同じものに気付いたんだと思います』と話すと、困惑の表情を見せておられました。説明がうまく出来ませんが、今回もこんな遠い場所に来た甲斐があるなと思うのでした。


     騰沖空港に着くと、新しい建物が目に入りました。スーツケースを取り出し、空港内に目をやると、全てがまだ新しくとても感じの良い空気に包まれていました。昆明空港のような節操のないタクシーの勧誘が無い。あっても、親身に接してくれているのがよくわかるので、好感が持てました。K氏も同様の印象を受けていたようで、空港を出た時点で既に雰囲気が好きだと好印象を受けていたようでした。

  



    空港の外に出ると、K氏は既に市内への交通手段を確保しているようで、少しここで待ちましょうと空港前で待つこととなりました。空は晴天に恵まれ、気温も暖かい。これほどの天候に恵まれるとは思いもよらなかった。天気予報では雨だと言っていたそうです。しばらくすると、駐車場に大型の車が止まりました。それに荷物を載せ、さっそく、街の中心地へ向かいました。空港からの道はまだまだ未開発で街の郊外であることが容易にわかりました。しかしながら、町中に近づくにつれ、大きな現代風の立派な建物がいくつも見えてきました。道幅は広く、壁材は花崗岩でできたタイルで施され、高級そうな建物ばかり
が目に飛び込んできました。そんな建物の一つに我々の車は入って行き、ある場所の前で止まりました。運転手はこなれた様子で建物の一角のシャッターを開けると、事務所になっていました。空港で同行した他の2名もそこで下り、どうやら何か説明をうけているようでした。そこでやっと、迎えに来た車そのものが、騰越での4日間お借りするレンタカーであることがわかりました。日本ではしないようなピックアップの仕方になんだか苦笑してしました。 


     K氏が運転し、さっそく今日からお世話になるホテルに向かうことになりました。奥さんがiphoneのナビを見ながら、ご主人が運転をしていました。ホテルまではすごく近かったようで15分程度で到着しました。ホテルに着いた頃はおおよそ夕方。12月26日はとりあえずホテルでゆっくりし、とにかく到着したことで良しと思う他なかった。 



     ホテルは4つ星ホテルで、昆明で初めに予約しているホテルとは雲泥の差がありました。ホテルスタッフもすごく誠実で好感が持てました。廊下の窓からなんと来鳳山が正面に見えるので少し驚きました。まさしくここしかないという場所にホテルがありました。部屋は9階にあり、3部屋全て同じ階に用意されました。とりあえず、少し休みましょうということで、ホテルの部屋に入り、シャワーを浴びて、遅れているF氏の動向を気にかけていました。しばらくすると、部屋のドアをノックする音が聞こえた。外に出ると、K氏が立っていて、北海道在住のF氏の動向についての話でした。現在、昆明空港まで来ていて、今夜遅くに騰沖空港(騰越)に到着できるという話でした。思わず嬉しくて手を合わせていました。まだお会いしたことのないF氏とはどんな方なのだろうかと思う部分はありましたが、F氏の友人のK氏がこんなに良い人柄であれば、きっとF氏も良い人に違いない。しかし、そんなことよりも、まだ面識の無い人をこれほど心配し、会うことを待ちわびたことが無かった。とりあえず、K氏の提案でお腹も減ってきましたので、少し街中を散策して、軽くご飯を食べましょうということになりました。腹ごしらえをしてから、夜はF氏の到着を祝って飲み会をしましょうということになりました。


     しばらくして、K氏夫妻と我々夫婦で騰越市内を歩き始めた。新しいお店が立ち並び、とても田舎だとは思えないような街並みに見えましたが、路地の裏に入れば、はやり昔の様子を残す田舎街であることは間違いなかった。が、街は着実に発展しているようでした。K氏夫妻の先導で、歩行者天国で出店や屋台のある通りにやってきました。そこで具材(野菜、餃子、麺、他20種類前後)を用意された籠に入れて、それをスタッフに茹でてもらい、赤いスープの中に入れて大きな器で食べるというレストランで食事をすることになりました。スープの色を見ると、とても赤く、火鍋を彷彿とさせるものでした。K氏に『辛いものは大丈夫ですか?』と聞かれ、『大丈夫です』と答えたものの、食べ慣れた韓国料理やタイ料理ではなかったので少し心配でした。運ばれてきた器の大きさと量を見て、少々多い気がしましたが、口に運ぶと意外に日本人の味覚に合っており、箸が進みました。が油断せず、スープには手を出さないことにしました。明日からの日本の兵隊方の帰還依頼遂行において、腹をこわしては良くないとの判断からでした。案の定、朝までお腹を下していましたが・・・。深夜、4回以上はトイレに行きました。 



    食事を終え、出店でいろいろと現地の食べ物を見てまわりました。とても楽しいひと時でした。こういう観光気分を味わえるのもこの瞬間だけかもしれないと思いました。ホテルに戻り、F氏が騰沖空港に着いたら迎えに行きましょうということになり、しばしの間、ホテルで休憩することになりました。このホテルの好きな所は熱いお湯が出るところでした。背中にシャワーのお湯を当て、身体を温めました。これがあるだけで身体の休息具合が大きく左右されるのでとても重要なポイントでした。 


 7:騰越で遂行必要なメンバーが揃う 


     ホテルで休んでいると、K氏からそろそろ『F氏がこちらの空港に到着するころですが、迎えに行きましょうか』と4人揃って空港に向かって出発をしました。夜で初めての場所にも関わらず、K氏はすいすいと空港へ向かい、到着しました。K氏は一度通った道はほとんど覚えているんですと話していました。 


     空港へは15分程度で到着しました。すると、背の高い男性が一人立っていました。K氏は嬉しそうにF氏と言葉を交わし、私も初対面であったので、ご挨拶をさせてもらいました。F氏は私が想像していた人物像とは違って、とてもはっきりてきぱきとお話しする方で、とてもスマートな印象を持ちました。メールで連絡を取らせて頂いている時は言葉少な気で読めない方でしたので、これでF氏の人物像が私の中でやっと出来上がりました。F氏、K氏となら帰還依頼遂行は可能であると判断した瞬間でした。 


     さっそく車に乗り込み、話をスタートし始める。F氏の話しやすい人柄のせいか、初めてとは思えないくらいに話が弾みました。結局、騰越のホテルに着くまでの移動時間は40時間ほどでした。本当に長い道のりでした。その労を労い、ここで5人全員が揃ったことを祝う飲み会をしませんかということでK氏の部屋に集まることになりました。K氏夫妻とF氏3人はご友人同士、そして我々夫婦とは初対面。しかしながら、とてもいい雰囲気で夜の飲み会が始まりました。 


     話の内容は今回の日本の兵隊の幽霊との出会いと日本への帰還依頼でした。どういう動きをするかで役割分担について話が始まりました。私が全て行先を決め、K氏はドライバーとして運転をすると真剣な眼差しで決意を話していました。そして、K氏奥様は中国語通訳として、私のサポートをしてくれるという話でした。F氏は、その時、はっきりとした役割は明言されませんでしたが、結果、私の足りない論理的思考、観察・分析力、行動力をサポートして下さったと思います。役割分担の話以外には、今回の旅について簡単な質問がF氏よりされていきました。その答えを私の経験したこと、知るかぎりのこと、現在の状況について説明させてもらいました。気持ち・知識をシェアしてチームワークを計ることにしました。しかしながら、この飲み会でK氏のドライバーに徹する心構えがこの後、私にすごく自分の役割に徹するような気持にさせられたように思いました。通常なら、私の性格上、人に気遣う部分が強く出てしまい、日本の兵隊からの帰還依頼遂行に支障をきたしてしまうことを心配していたのですが、そういった私の弱点が表に出ないようにするためのK氏から鬼気迫る迫力を感じることになりました。 


     次に話し合ったプランは、まず雲南省の土地神様、中国の神様にこの地で未浄化な状態になっている日本の兵隊の御霊を引き上げ、日本へ帰還させる許可をお願いすることから始めようということになりました。この地で有名な由緒あるお寺を次の朝、ホテルスタッフに聞くことから始めましょうということで決まりました。そして、私は気になっていた来鳳山、そして墓国殤墓園の場所も確認し、伺いたい旨を伝えました。飲み会はF氏の疲れもあるし、次の日からのスタートに備えて、早めに切り上げることにしました。こうして2日目が終わることとなりました。 


 8:中国の土地神様に御挨拶 雲峰山 


     12月27日 私主導で全てが動き始めました。朝食は7:30。皆さん、小食で朝はあまりとらない方たちばかりでした。うちの妻も朝は取らず、F氏もほとんど軽いものばかりでした。8:30にフロントに集まり、ホテルスタッフに行きたい場所の情報をK氏奥様に聞いてもらいました。 


     騰越での第一歩は車で1時間以上離れた山頂にある雲峰寺への訪問でした。山の裾野にある駐車場に車を止め、山の上を見上げると、山頂に建物が見えました。『ひょっとしてあのお寺・・・』よく見ると、山の手前にケーブルカーがあって、頂上近くまで伸びているのが見えました。『しかし、あんな高い山の頂きによくお寺を建てたな』と感心していました。標高は2000m級だったと思います。ケーブルカーでかなりの高さまで移動すると本殿らしい建物がありました。のどかな空気が流れていて、気温もちょうど良かった。本殿の前で妻がお寺のお坊様に声をかけられ、そのまま、5人揃って中へ誘われました。お寺の作法・拝礼の仕方をご教授してもらいながら、5人全員が神妙な面持ちで土地神様にご挨拶をさせて頂くことになりました。年長であるF氏が代表で我々4人の前に立ち、拝礼。これからの旅の目的の許可を頂けるように祈願致しました。



    この後は山頂にある奥の宮のような場所へ登りました。それでも30分近くはかかったような気が致します。道は石の階段でしたが、場所によっては壁をよじ登るような急こう配でかなり厳しい道のりとなりました。しかしながら、全員無事山の頂きにある奥の宮でご挨拶をすることが出来、山を下りることが出来ました。これでやっと中国国内での日本の兵隊の帰還依頼活動に移ることが出来ました。

この後、騰越市内に戻ったのは夕方4時過ぎ。来鳳山へ向かいましたが、山頂までの道路が5時までで閉鎖されていましたので、山の中腹あたりにある来鳳寺を訪問することに致しました。この後は時間的なこと、体力的なことも考えて無理はせず、ホテルに戻ることにしました。その晩はまだ揃って食事をしていなかったのでホテルの近くで夕食会をしようということになりました。ホテルから徒歩5分くらいの場所にフードコートがあり、好きな食べ物を買い揃えて好きなテーブルで飲食が出来ました。昼食が3時頃だったこともあり、それほど空腹ではなかった為、皆でつつくような形でいろいろなものを注文しました。あとはビール。中国のビールはタイ王国のシンハーのように濃くなく、とても飲みやすかった。和やかな空気の下、ひと時の楽しい時間を味わうこととなりました。食事の後は、ホテルに戻り、早めの睡眠をとることになりました。K氏が運転をしてくれていたのですが、山登りに近いような参拝と運転でかなりの疲労があると思い、大事を取って頂くことを考えました。 


 9:合流 あなたの魂に刻み付けて欲しい 


     三日目の朝、私は日本の兵隊に憑依され、突如、話を始めました。隣で寝ていた妻が起きてくれ、すぐに対応してくれました。憑依した兵隊は随分、興奮している様子で、日本へ帰還出来る時がすぐそばまで来ているという心境からかもしれません。戦時中に彼らは亡くなっておりますので。ですので、妻がしっかりと話を聞き、安心させるような言葉をかけ続けていると、徐々に落ち着きを取り戻していき、来鳳山へ向かって欲しい旨を語り始めました。 


     さっそく、昨晩決めた時間にホテルフロントにメンバーが集まりました。恐らくは今日、動きがある。事前に皆さんに私の霊媒体質を伝えておかなければいけないと思い、まずはF氏一人お呼びして事情を説明することに決めました。一度、クッションを置くことでK氏夫妻に落ち着いて、状況を把握して頂けるのではないかと感じたからです。F氏には、今回の役割はなんとなく、私にとっては頼りになる相談役的な存在でした。私の話す言葉がF氏の中を一旦通り抜けることによって、皆のところへより冷静に届くようなそんなイメージです。集団行動する際、F氏には人に信用されるお人柄がありますので、とても重要な役割を担って頂きました。 


    F氏に今朝、日本の兵隊からのコンタクトがあったことをお伝えし、私に日本の兵隊の霊体が入って話をする状態を見て驚かず、落ち着いて受け止めてほしい旨をお伝え致しました。そして、何かあれば、力づくで抑えつけてほしい旨もお話しました。憑依状態に身を任せてしまうと、目を閉じていても、てくてくと歩き始めることもあります。時には急に動き出すことも。屋外ではとても危険なことでありましたし、運転中の車内でも同様でした。F氏は話す内容を全て受け止めてくれ、皆さんにも伝えることになりました。 


     次に順を追って、K氏に今の私の状態について知って頂きました。そして、今日の第一の目的地は来鳳山であることを告げました。車に皆が乗り込むと、日本の兵隊が、『すぐにでも待っている場所に来てほしい』と伝えてきました。私自身も彼にとにかく落ち着くようになだめました。車がホテルから出て、大通りに出ると、来鳳山に向かって指を指しました。『向こうにいます』と彼の言葉が伝わってきて、声も出してきました。事前にお話していたせいか、K氏も落ち着いて運転をされているようでホッと致しました。来鳳山に行くと、入山する道路に柵がしてあり、朝10時からと書いていました。到着したのは9時半でどうしようかと話していると、昨日、夕方に立ち寄った来鳳寺に行きましょうかと妻とF氏が提案し始めた。お寺に着くと、多くの中国人仏教徒とお坊様が、お経を上げながら本堂の周囲を歩いていました。私は引き込まれるかのように本堂の前に立ち、そのお経を聞く日本の兵隊方の存在に気が付きました。そして、彼らから『我々はここで亡くなりました。(ここというのがこのお寺なのか、山なのか、騰越そのものなのかわかりかねます)我々がここで亡くなった場所々に赴き、我々がここで戦った事実を記憶に留めて欲しい。あなたの魂に刻み付けて欲しい』と伝えてきました。そして、最後に私をここでサポートしてくださっているF氏とK氏夫妻にくれぐれもお礼を伝えて欲しい旨を伝えてきました。お経が終わる頃には何故かここで多くの日本の兵隊の御霊が安らいでいくのを感じました。そして、身が軽くなっていきました。これも土地神々様に許可を頂いた結果なのだろうかと一人思うのでした。F氏は日本からある書道家の先生からお預かりした龍の文字を書いた色紙、佐賀県のお酒・物産などを奉納して、慰霊の心を伴い、彼らの御霊の安寧を祈願していました。私に伝わってきた日本の兵隊の言葉をF氏・K氏に伝えました。御二方とも安堵の表情を浮かべておりました。この後、このお寺の檀家である年長者の方々にお話をお伺いすることが出来ました。来鳳寺は戦前から存在していて、現在まで、毎日、ここで亡くなった日本の兵隊方の供養をされているとのことでした。我々は非常に驚き、現地の中国人の方々の寛容な御心に大変驚き、尊敬と感謝を致しました。本堂左右にある黄色い垂布は、こちらで亡くなった日本の兵隊方の為に毎年1回変えているとのことでした。これだけ抗日戦争博物館に力を入れていながら、中国の中でこういった中国人の優しさに触れたことは我々5名にとってとても良い経験となりました。

  



    お寺を去り、開門した来鳳山への道を車で上がっていきました。道幅は狭く、反対方向から車が来ないか冷や冷やしていましたが、無事、頂上まで対向車とは遭遇せず来ることが出来ました。車を止め、山頂にある塔へ向かう道は石畳になっていて、大きな門が入口にありました。その門をくぐり、塔へ向かう道を歩いていると、左右に交通壕がたくさん残っていました。【※交通壕とは、地面に人が移動できる溝のことで、敵の砲撃を避ける為の通路として、戦時中使われた。】中には砲弾の着弾地点に残る大きな穴がそのまま残っていて、今なお残る砲弾の威力を知るものを見れて、当時の戦闘の激しさを知りました。交通壕は時間の経過と共に浅くなってはいましたが、まだまだ私の目には深くはっきりと残っておりました。交通壕に身を投じ歩いてみましたが、その時、たとえこの交通壕がもっと今よりも深かったとしても、敵からの砲弾からどれだけ身を守れることが出来たかと思うと、ぞっとしました。そんなことを確認しながら、当時の日本の兵隊が戦って死んでいった足跡を彼らの生きていた証として、魂に刻むことにしました。頂上付近を散策した後、F氏と私共夫婦はこの山を歩いて下山することにし、もっと、当時の様子を感じるように致しました。K氏夫妻には車で山を下りて頂いて我々の下山を待って頂き、貴重な戦跡を辿らせて頂きました。



     先に車で降りて頂いたK氏と合流し、次は、抗日博物館へ向かいました。駐車場に車を止め、建物正面に行くと休館日で、その隣にある国殤墓園も閉館されていました。今日は休館日で明日は開いているということなので、戦時中、騰越城にあった文星街という南北に走る大きな通りを戦跡の一つとして辿るように散策することに致しました。この通りの北端で、腹ごしらえを済ませ、ゆっくりと当時の騰越城で戦っていた日本の兵隊方を想像しながら、彼らが玉砕した時の思いを噛み締めながら歩かせてもらいました。 


     車に戻ると、F氏とK氏が戦時中にあった英国領事館に行ってみましょうと押して下さいました。確かに、英国領事館でも日本軍と連合軍が戦っていたことは、書物から情報を得ていましたので、私も同意し、行くことにしました。しかし、昨日の高所にあったお寺参拝で足を痛めていたK氏のことを思うと、あまり、無理をして頂くのは恐縮でしたので、
見つけるのが困難そうであれば、ホテルに戻りましょうかと提案するつもりでいました。 


     得た情報を元に皆で話しながら、運転してもらっていると、どうも道端両側に屋台の並ぶ細い通りを入って行かなければならないという感じでした。私はすかさず『ホテルに戻りましょう』と声を出しましたが、K氏は車を細い路地に車の頭を突っ込んでいきました。内心、人混みの多い道でしたので、事故などのトラブルに合うかもしれないと冷や冷やとしておりました。が、何かがとりついたかのように奥へ奥へ車を走らせ、進んでいきました。すると道の先は行き止まり。工事中で行けないようでした。車をUターンさせるのも大変だったのですが、F氏が車から飛び降り、行き止まり左側にある壁の内側にある敷地の中でUターンさせてくれないかと敷地の関係者に声をかけていたら、門戸を開いて下さり、その敷地内に車を入らせて下さいました。すると、急にF氏の様子に異変を感じ確認すると、どうやら、車を入れた敷地内に英国領事館が保存されているようでした。偶然、入り込んだ敷地に英国領事館があるという結果に、K氏の強引な突っ込みがとても英断であるように思ったのと同時に不思議な導きを感じました。指さす方向を見ると、濃い灰色のタイルのような壁の建物が英国領事館ということでした。日本を発つ前、インターネットで探しても全く写真が無かっただけに大変な発見だと思うのでした。それを思うと、新たな戦跡の訪問に魂が震えて仕方なかった。中の様子や外観をじっくり拝見させて頂き、建物の残っていた無数の銃痕に触れてみるのでした。ここで玉砕した日本の兵隊方の痕跡を一段と感じ、彼らが最後までここで戦った証をまた一つ私の魂に記憶として刻ませて頂きました。 


イギリス領事館があった周囲の様子。きっと土地開発され、別の姿に変わるのだろう



     ホテルに戻った後、メンバーの疲れを取る為に、マッサージをホテル内で揃って受けることにしました。中国人の方たちが、我々日本人がマッサージを受けに来ていることに非常に驚いていました。日本人のお客様は恐らく初めてだったので、信じられないご様子で、我々の姿を見るまで信じられなかったようです。私もここ騰越でマッサージを受けるとは夢にも思わなかったですが、彼女たちの驚きの表情に笑みがこぼれ、とても光栄な気持ちにさせて頂きました。 


     この後は、良いレストランでこの地で亡くなった日本の兵隊方の為に影膳を持ちながら、食事を致しましょうということになりました。影膳と言っても人それぞれ解釈もあり、意味あいが違ってくるのかもしれませんが、我々の場合は、戦争中、ろくに食事が出来なかった兵隊の皆さんに食事をして頂いて、英気を養い、帰国して頂こうという考えで統一することにしました。佐賀県のお酒を持参し、出てきた料理を全てお皿にのせ、皆で乾杯をしました。ここ騰越で日本の兵隊の御霊のために立派な食事会をさせて頂いたことは非常に良い機会に恵まれたのではないでしょうか。 



 10:玉砕最後の場所 飲馬水陣地

  


    騰越での最終日。朝から日本の兵隊方が最後に追い詰められた騰越城東北角の飲馬水陣地の痕跡を探し始めました。K氏とF氏が戦跡を見つけるのに朝から尽力を注いでくれました。若干、遠慮がちになりつつある私の気持ちを鼓舞して下さっているかのように感じ、私も最後まで戦跡、特に騰越城壁の痕跡があることを祈りながら、最後まで全力を尽くすように心がけました。まずは、飲馬水陣地付近であったと思われる場所を散策。水が多い場所であることがわかりました。豊富な水量を活かして、人工の池が存在していました。場所によって雑木林モドキのような場所もあり、ひょっとしたら、ここら辺が飲馬水陣地だったのではないかなどと妄想にふけりながら、周囲をくまなく歩いたが、なかなか戦跡に繋がるような決定的な痕跡は見当たらず、残念ながら、この場の捜索を諦めました。車に戻るとK氏が市職員に聞いてみると何か情報が得られるかもしれないと提案してくれました。藁をも掴む思いで、皆で市の建物へ足を運んでみました。博物館で聞いてみるとわかるかもしれないと有力な情報を得た。それにいくつかの場所でまだ城壁が残っているかもしれないという微かな希望を持たせてもらえるような言葉も頂いたようでした。なにわともわれ、ここまで全力で気持ちを注げば、あるかないかだけでもはっきりするかもしれない。F氏とK氏夫妻の懸命な動きに触発されるのでした。 


     最終的にこの城壁があったであろう付近を予測しながら、騰越城の東北角付近だったであろう古い家屋の間にある細い路地をF氏、妻、私とで散策してみました。建物自体はとても古く見えるが、現地建物に精通していない我々ではなかなか戦争当時からあったものなのかどうかを結論づけることは出来ませんでした。しかし、場所だけで考えると、当時、この付近にて最後まで戦い抜いた日本の兵隊方が間違いなく追い詰められ、玉砕した場所であると認識することで、この周辺で迷いながらも散策することにも意味があるような気がしました。

  




    この後は、まだ車を走らせていない未確認地域を確認しながら、抗日博物館へ行くこととなりました。小さい街であるので、街の北から南への移動はあっという間で改めて騰越城のあった街の大きさを感覚的に知ることになりました。昨日、立ち寄った抗日博物館へ到着すると、昨日とはうって変わって、観光客の姿が容易に確認できました。
  


    抗日博物館は駐車料金が無料で、なんとも太っ腹で少々驚きました。大概、外国人価格が存在し、高いのが通常であるのですが、無料ということで、気持ちを軽くしながら入場させて頂きました。中は見事なまでに博物館の題名通り、抗日内容溢れる内容の展示物、映像が流れていました。日本人であるのに、日本人が嫌いになるような内容で、人体実験、拷問などなど、目を背けたくなるよう内容が多く展示されていました。 




 11:国殤墓園 倭塚にて涙がこぼれる 


     この後はその隣の敷地にある国殤墓園へ行くことになりました。ここには中国側が日本の兵隊の戦死者を弔う為の倭塚があり、日本軍兵士4名の墓とされているそうです。私は、そんなことは意識せず、とにかく、この地に踏み込み、倭塚の場所を探しました。標識の指す方向へ向かって歩き始めましたが、見つけることが出来ませんでした。日本からずっと思いが向けられていた場所。ここに来て、自分が日本でこれほど、この倭塚に固執していたんだということがわかりました。日本にいたとき、この倭塚の写真を見たとき、あ、私はここで連絡を始めに取ってきてくれた日本の兵隊の方々と落ち合う約束していたことを思い出していた。必死になって、皆を探し始めた。奥に行けば行くほど、彼らの気配・存在が離れていく。自分の平常心が徐々に消えていくのがわかりました。そして、ふと視界に日本で見ていた倭塚を見た瞬間、声を出してしまう。『あったぁ!』そのまま、駆け出し、辿り着くと、倭塚にしがみつていました。まるで大事な家族に会ったかのように。しばらくすると、中国人の警備員らしき人が私の背後で何やら注意を促していました。妻が花を買い、献花をしようとしていたからでした。結局、ここではそういうことをしてはいけないということを注意され、身を引くことに決めました。しかしながら、私にとっては十分な時間でした。この後、国殤墓園中央にある写真が飾られている献花台の前で中国人兵士に対しても、献花をし、手を合わせました。 



     手を合わせ、帰りに向かうと、数名の中国人が我々のことを遠くから監視しているように見えました。倭塚があるとはいえ、ここは中国人兵士の墓苑。しかも、抗日博物館の隣とくれば、私のしていることは好まれない行動であったと思います。しかしながら、私なりに中国人兵士に手を合わせ、成仏を念じました。共にこの地で亡くなった者に人として手を合わしたことが監視を続ける中国人にも受け入れらたのかもしれません。彼らは何も注意することなく、この戦争に巻き込まれた人々全員の安寧を祈念することを終えました。 


     この後は最後に歴史博物館へ移動した。ここで騰越城の模型を拝見することが出来ました。本物の城壁は最後まで見つけることはできませんでしたが、戦争当時の城壁の様子を確認できたことがとても大きく、この旅を締めくくるのには十分なものでした。これもF氏とK氏が最後までお付き合いして下さったおかげでした。 





     この後、ホテルに戻り、荷物を車に乗せた。車をレンタカーショップに返却し、その足で騰沖空港へ送って頂きました。短いようで長かった4日間。どの日も無駄は無く、意味のある毎日でした。騰沖空港から飛行機は飛び立ち、一路、昆明へ。その夜は、ホテルの日本食レストランで食事をしました。そして、皆が各々の部屋でゆっくりと休ませて頂きました。


12:F氏・K氏へ感謝 


     12月30日、ホテル一階のロビーにて、K氏夫妻とF氏に日本の兵隊方に代わって彼らのお礼を伝えさせて頂きました。K氏夫妻は、そのまま先に昆明空港から、我々より早い便で旅立って行かれました。我々はF氏の部屋に荷物を置かせて頂き、昆明市内の円通道寺を訪れることに。最後にもう一度、現地の土地神様に御礼を言って、F氏の部屋に戻り、3人で部屋を出て、昆明空港へバスで向かいました。F氏の飛行機は2時間遅れだと聞いて、急ぎ早に最後の挨拶をさせて頂き、搭乗口へ向かいました。飛行機の座席に着くと、F氏のことが気になりました。行きも40時間かけて騰沖空港まで辿り着きましたが、帰りも同じようなことにならないだろうかと思いながらも2回の乗り換えを経て、無事、関西空港へ到着。12月31日 大晦日でした。結局、自宅に着いたのは夕方で預けていた子供を駅で拾い上げ、年越しは家族3人で過ごすことになりました。1月1日、年が明け、近くの神社へ初詣。短いようで長かった中国での旅がこれでやっと終わりました。 


     F氏は、結局、昆明空港からの飛行機が飛ばず、そのまま、昆明でさらに宿泊。そして、次のフライトで上海に移動出来ましたが、そこでも遅れ、年を明けて、無事、帰宅されたそうです。行きも帰りも見えない試練というか、この活動をする為のテストを受けたようなそんな印象を受けました。当のご本人が一番、そう感じたと後日、述べておられました。我々人間は、このF氏に起きた出来事について何も立証出来ませんが、起こる現象・事象から何かを感じることがあると思われます。今回は、そんなものを感じる機会を得たように思いました。 


 13:『他の者たちも頼む』 


     年が明けた1月2日、日本の兵隊方が家の外に出るように話しかけてきました。彼らとのお別れです。妻と子供も家の外に出てきました。


     『ありがとうございました』 


     彼らの幸せに満たされた感情がたった一言の言葉の中に凝縮されているのが伝わってきました。彼らの周囲に、見えない光がありました。そして、彼らはその光と共に消えていきました。 


     彼らは最後に一言、言葉を残していきました。 


    『他の者たちも頼む』 


     一瞬、身体が熱くなり、力が入りました。 


     なんとか、そうしたいものだと冷静に心の中で返事をしました。安易に答えられない私もいました。まだまだ終わりはない。が、どうしたら続けられるのだろうか。いつもことだが、2016年の夏までにはまだ時間があります。きっと、次は夏だろう。が、しかし、ほんとうに次回もあるのだろうかという思いもあります。インパール作戦で亡くなった人たちはミャンマー全土を基本に、中国・タイ王国・インド、もしかしたら、もっと広範囲へと広がっていくかもしれません。今は、どこから、日本の兵隊方からの帰還依頼があるのか見当もつかない。だから、疑ったりせず、気持ちをニュートラルに保ち、普段は普通の生活を送っていればいいんだと思います。

英霊の依頼-インパール作戦に沿って-

「我々の処へ迎えに来てもらえませんか?日本に帰りたい」 我々家族の元に現れる日本兵とは第二次世界大戦インパール作戦で敗退し、亡くなった若い兵隊さんたちです ミャンマー、タイ王国、中国、インドと各々の呼ばれる場所へ訪問、合流し、帰国へ 2009年の秋 一人の兵隊から始まった日本への帰還依頼は、多くの帰国を願う兵隊たちに広がり 2025年12月 20回目の依頼を終えた。