第6回目 タイ王国フェイトンヌン 2014年 12月

合流場所:ミャンマー(ビルマ)との国境に近い日本軍の宿営地だったと思われる場所


 1:10月 寝床で待つ2名の兵隊  


    2014年8月 日本へ帰国し、普段と変わらぬ生活が始まりました。夏の一連の出来事が終われば、次の夏までは、奇妙な体験は記憶の彼方へ置き、現実的な生活を送るだけでした。そのように感じさせる出来事の一つが、妻の日本での仕事でした。妻に日本の大学で講師を依頼する打診がありました。妻にとっては凄く良い話で『是非、チャンスを活かして、やってみてはどうか』と夫婦で話し合いました。妻も私の後押しの言葉もあり、安心して『やってみよう』と決意しました。秋から、某大学の一つの授業を受け持つ事になり、その講義を受講する生徒は日本人の他に外国人留学生もいるようで、タイ人も数名受講する事になっていました。  


    10月になり、日本で初めての講師業を始める事になりました。そんなある日、郊外学習という事で、屋外に生徒を連れ出し、日本の文化に直接触れる機会を持って貰う事になりました。清水寺に向かう坂道で、妻の講義を受けているタイ人留学生が突然、口を開いたかと思うと、奇妙な事を言い出しました。『先生、私、靖国神社に行きたいです...』妻は彼女とはまだ挨拶程度しかした事がなく、特に深い会話もした事が無かった。そして、日本の兵隊方の帰還活動について何一つ話をしていませんでした。それにも関らず、彼女からそのような言葉を聞かされ、大変な衝撃を受けたようでした。妻は帰宅後、私に一生懸命その話をしました。『何故、彼女がそのような話を私に突然したのだろう。鳥肌が立ったわ。何も日本兵の事を話していないのに』その時の私は、それほど、その話に興味が湧きませんでした。『そうなんだ』と軽く返事をするくらいでした。  


    私は仕事を終え、寝床に就こうと寝室に行くと、2名の男性が寝室の引き戸の両側に一名ずつ立っているのがわかりました。『ん?』と思いながらも、『相手にしない、相手にしない』と心で念じながら寝床に就きました。すると、その2名は私の頭の両隣に膝を突いて座り込んだようでした。言葉はありませんが、何かを伝えようとしている。そして、『無理!来年の夏に行くから!夏行ったばかりで無理!』と独り言を声に出して、叫んでいました。その瞬間、観念したかのように『兵隊か。依頼だな』と口に出していました。翌日、取り敢えずタイ国際航空のサイトを検索し、空席状況を確認しました。すると、既に12月26日まで予約は埋まっていて、値段も高かった。12月25日はまだ座席はあったが、夏の帰還依頼を完遂したばかりなので『無理。悪い。来年の夏にしてね』と言ってそのままにしていました。  


     ある日、タイ人大学生が十数名、スタディーツアーで妻の勤める大学にやってきました。パーティーをする事になり、30名程の学生が一同に大学の寮の大広間に集まりました。そこに妻も呼ばれ、私も送迎を兼ねて付いて行く事になりました。そこで妻から一人のタイ人女性を紹介されたのですが、彼女が靖国神社へ参拝したいと妻に話していた女性でした。妻と彼女は随分と打ち解けているように見えました。彼女が何故靖国神社へ行きたいと言ったのかを、その経緯を彼女が妻に話し始めていたようでした。  


     いきさつは以下のようでした。彼女はタイ王国チェンマイの某大学で英語を教えていました。そんな折、田舎の小学校で英語を教える先生がおらず、誰か行ってくれる先生はいないか?ということで候補者を募っていたのですが、誰も行きたくなかったようでした。理由はチェンマイから遠く、通勤にとても不便であったからでした。そのタイ人留学生を、ここではTさんとしますが、Tさんはその仕事を私が引き受けますと自分から申し出たようでした。その場所がタイ王国とミャンマーとの国境に近いメラノーイという小さな田舎町でした。片道に車で半日近く掛かるという事もあり、現地で宿泊を余儀なくされたのですが、ある夜、部屋の窓の外から朝でもないのに明るい光が差し込んできました。彼女は非常に驚き、ひょっとしたらもう朝なのかと勘違いする程に明るかったようです。しかし、それが日本の兵隊と関係のある出来事であると彼女は理由もなしに直感的に感じたようでした。それからというもの、彼女は日本の兵隊と彼女の滞在している町との関わり・歴史について徐々に知る事となりました。そして彼女はそんな経緯から日本に興味を持ち始め、日本への留学制度を偶然勤め先の大学で見つけ、妻が務める日本の大学に来日して、妻の講義の生徒として偶然出会ったという流れであった事を妻に伝えたようでした。その際にTさんに、『日本の兵隊の幽霊をタイやミャンマーにお迎えするようになった時から、主人の所によく彼らからの帰還依頼があるので主人に話してみると良いかもしれない』と話したそうです。私とはそのパーティーでは少ししか話せませんでしたが、その時から彼女と我が家の縁が深くなっていき、徐々に我が家にごはんを食べに来るようになりました。子供もTさんに懐き、すぐに仲よくなりました。  


     彼女が我が家に来る度に何とも言えぬ感情が私の中に湧いてきました。妻も何かを感じ始めていたようです。10月に現れた日本の兵隊の事を少し意識していましたが、夏に行ったばかりであるし、年末は過去に依頼された事がないので『絶対に行かない、もうお金が続かないよ』と思うのでした。  


     2014年12月に入った頃、今年の年末は可能であれば、近畿圏でどこかに旅行に行こうと予定を立て始めていました。熊野大社か四国を車で周遊しながら、お正月は除夜の鐘を聞きながら家でゆっくり過ごそうかと決め込んでいました。


 2:12月8日 日本の兵隊方からの懇願  


    12月8日、仕事から帰宅し、自宅で夕食を摂っていました。食事を終え、立ち上がろうとした瞬間、突然、日本の兵隊方が連絡を取ってきました。『我々は日本に帰りたいです。何とかお願いします。どうかこちらまで来てもらえませんか?』と懇願してきました。  


    私は『言っておくけど、こんな時期から飛行機の座席なんて確保出来ないよ。どちらにしても、お風呂入って、それから航空券を買えるか見てみるから、買えなかったら、迎えに行けないから来年(2015年の夏)にしてな』と言って、お風呂に逃げるように掛け込みました。そして浴槽の中でじっくり考え始めました。2014年の夏はミャンマー中央部のモンユアまでドライバーを雇い、日本の兵隊方を迎えに行ったばかりだし、タイ王国からミャンマーまでの飛行機代は寄付で行く事が出来たけど、それ以外にもたくさんお金使ってるし、もうお金無いよ。いい加減にしてくれよ』と思い悩んでいました。しかしながら、きっと、妻は私の決断をじっと待っていたに違いありません。  


     居ても立っても居られない気持ちになってきて、お風呂を出て、自分の部屋に行き、インターネットで航空券の検索を始めました。すると、大韓航空で座席が簡単に見つかりました。その瞬間、『やっぱり、こういう時って嘘みたいにあるのだよな』と苦笑いしました。3人で25万7480円 なんとか行こうかと思える金額でした。妻に飛行機の空席状況を説明し、『韓国経由でタイに行くか?』と聞きました。妻は嬉しそうに頷いたので『1日韓国で遊んでいく?』と聞くと、さらに嬉しそうに『そうしましょ!』と返事をしてくれました。夫婦ともに行こうという気持ちにならないと決断しにくいもので、妻の快諾が手配の速度を速めたと思いました。結局、日本の兵隊方が現れて3時間以内には航空券を予約完了。妻も航空券購入までの速さに驚いていました。 


     『じゃ、行くよ!場所をしっかり誘導してや!』と日本の兵隊方に告げる事となりました。 


     場所についてはおそらくTさんが謎の光と遭遇した場所だから、メーラノイ付近だろうと思っていました。私にも少しずつ映像が見えてきて、そこがおそらくメーラノイなのだろうと地図を広げ始めていました。しかし、妻は違う方面に意識が向いていました。今回は妻の方に詳しい場所を伝えているような気がしていました。すると、妻はある場所に目星をつけ、あそこに迎えに行くはずだと言い始めました。そのあそことはフェイトンヌンというミャンマー国との国境手前10km付近のタイ王国側の村でした。  


    そうなると、めっぽう力を発揮するのは妻。日本から妻の友人を通してクンユアム警察の方に連絡をし、フェイトンヌンという村へ連れて行ってもらう事になりました。『国境近くになると、手伝いをしてくれる警察官の方も道がわからなくなるので、国境付近の山岳民族が住んでいるフェイトンヌンという村に、日本の兵隊が第二次世界大戦時に常駐していた場所に詳しい人が居るから彼に村から先(ミャンマーとの国境方向の場所)を案内するように頼んでおくよ』ということで話がまとまりました。だが、警察としては私たちの詳しい目的もわからず、何故そのような場所に行きたがるのだろう?と何度も妻に質問していたようです。慰霊と戦跡を訪ねたいという言葉だけでは納得出来ない何かを感じたのかもしれません。  


    結局、年末の国内旅行計画は諦め、タイ王国のクンユアム周辺(ミャンマーとの国境近く)に行く事になりましたが、その時に思い出された事が、数年前のテレビのニュースでした。インパール作戦について特集を組んでいて、まだ日本軍の戦車や飛行機の残骸があり、それを放映していました。私は『まだそんな物があるのか!』と見ていました。そしてそれを見た時から、クンユアムの奥に行きたいと考えていました。とは言いながらも過去に行くチャンスは何度もあったとは思うのですが、ミャンマーに足を運んでいた私はタイ王国チェンマイへ戻る度に気力を使い果たし、動けなくなり、行く事が出来ませんでした。 


 3: 12月26日 韓国経由でタイ王国へ移動


     初めての韓国入りということで私は結構浮かれていました。以前は韓国人の友人もたくさんいて、アメリカに語学留学していた時は韓国人と部屋をシェアしていたこともあり、その当時は韓国料理を堪能させて頂きました。その料理の本場へ行けるという事で思わず生唾を飲みました。今回の航路は関西空港より大韓航空機で金浦空港入りするというものでした。初めての韓国でミャンマーよりもおっかない気持ちになっていました。と言うのも、金浦空港から仁川空港へバス移動が必要だったからでした。時間の心配する私でしたが、妻は全く平気な様子で余裕すら感じられました。金浦空港を出て、仁川空港へバスで移動し、あっという間に到着。仁川空港で韓国料理を食べる事にしました。私は大好きだったキムチチゲを頂き、お腹が満たされました。懐かしい郷土料理を食べたような気持ちになり、元気になりました。その後、チェンマイ行きの大韓航空機へ乗り込み、その日の22:40にタイ王国チェンマイ国際空港へ降り立ちました。空港では親類が待ち受けており、車に乗って妻の実家へとあっという間に移動しました。 


 4:タイ王国チェンマイにて準備 


     12月27日(土曜日)慣れない韓国経由でタイ王国入りした私は朝遅めの起床でした。隣人宅の庭からはいつもと変わらぬタイガーヘッドマウンテンが姿を見せていました。本当に虎の横顔がシルエットになったような山々で、珍しい山の形だなといつも感心しています。そんな山々を見ながら、隣人宅のwifiをいつも拝借していました。この隣人はその年の夏に一緒にミャンマー、ヤンゴン市まで旅行を共にした妻の友人で、妻の実家で私が心を許すことが出来る唯一の存在でした。教えて頂いたパスワードはずっと変わらず彼女の家に行くと、自動でwifiに繋がり、インターネットを使用できるというわけでした。インターネットをチェックしていると、妻が『朝食を食べよう』と言うので、実家に戻り、半年振りの妻の母親の手料理を頂きました。しばらくすると、家の表が賑やかになっていて、食事が終わると表に呼び出され、親類、隣人そして見知らぬ人たちと挨拶を交わしました。妻はスーツケースを開け、お土産・頼まれ物を配ったり、たわいも無い会話で笑ったり、気難しい顔をしたりとあっという間に時が過ぎていきました。そして次の日から行く日本の兵隊方と合流する為の小旅行の荷物準備でアレコレしているとあっという間に一日が過ぎていきました。今回は正直、子供にはお留守番をして欲しいと思っていました。タイ王国内での移動ではありましたが、国境に近いという事で危険なのではないかと感じていたからでした。改めて子供には『お化けと会うから行くの止めるか?』と話しましたが、親が心配で付いて行くと言い出し、説得しても無駄なような気がしました。今年の夏、ミャンマーに行った際に、子供も日本の兵隊の幽霊の存在を知り、このような世界がある事を知っていても良いかなと思い始めていました。おそらく今回で子供はその存在を確信する事になるであろうし、それは子供にとってどのような影響を及ぼすかと心配をしていましたが、やはり我々は親子であり、隠し事は良くないのではないかと考え、最終的には彼がどのように思うかの判断に任せようと思いました。  


    ここで少し溯ります。今回、タイ王国に行く事になった我々の話を妻が『靖国神社へ行きたい』と話したTさんに連絡したところ、彼女もその頃、タイ王国に戻っているので、是非、ご一緒したいとの事でした。我々も彼女もあたかも一緒に行く事が決まっていたかのように、直ぐに話がまとまり、皆揃ってタイ王国の奥地メーラノイ・フェイトンヌン方面へ行く事になりました。 


 5:タイ人女性と共に向かう 


     12月28日(日曜日)の朝、妻の実家近くのガソリンスタンドの敷地内にある喫茶店が待ち合わせ場所となりました。さっそくTさんが車で現れ、タイ王国での再会を喜び合いました。揃って朝食を摂り、一気にメーラノイへ向かう事になりました。Tさんは29日の夜にタイ王国を出発し、先に日本に戻る事になっていましたので2台に分乗する事になりました。我々の旅は31日迄だったので最後まで一緒に行けない事が残念そうでした。  


    メーラノイには彼女が以前、英語教師として赴任していた時に懇意にしていたお寺があり、そこに毛布や僧衣などを寄付したいというので、まずはそちらを最初の目的地として向かいました。車での移動はスムーズに進み、メーラノイのお寺に立ち寄りました。そこは洞窟を利用してお寺が造られていました。Tさんは、お坊様達にこの町で体験した日本の兵隊にまつわる不思議な出来事を話し、無事成仏が出来ますようにお経を上げて頂きました。   



    次はメーサリアンという町へ移動し、先ほどのお寺と同様にTさんが、待っていた若者たちに寄付をしていました。ぬいぐるみなどありましたので、児童施設にいる子供達にお渡しするものであろうということは想像できましたが、あまり詳しくは詮索しないようにしました。だけど、素晴らしいことをしているんだなと暖かく見ておりました。昼食はメーサリアンにあるお気に入りのレストランを同行のTさんに紹介され、ご馳走になりました。この周辺でこのレストランが一番美味しいと言われ、パッカナーと呼ばれる野菜炒めや豆腐の入ったスープ、焼き飯など日本人好みのローカル料理に舌鼓を打ちました。お世辞なしに美味しく頂きました。 


     昼食も終わり、メーサリアンのお寺に立ち寄りました。ここでは我々家族もお布施をしてお寺のお坊様に日本の兵隊の安寧を祈願して、お経を上げて頂きました。すると、Tさんに対し、我が家に依頼をしてきた日本の兵隊の一人が、頭を下げ、Tさんに感謝の気持ちを伝えてきました。その方の思いをTさんに伝えました。それを伝えると、彼女は初めて日本の兵隊の存在を感じ、真夜中の光と遭遇した場所に連れていきたいと私たち家族を誘ってくれました。  



    場所は現在、リゾート地になっている場所でカフェやらレストランもありました。その周囲にある各々の独立した小さな建物がホテルの部屋となっていて、とてもお洒落な雰囲気を醸し出していました。彼女が奇妙な体験をした建物にやって来ましたが、日本の兵隊の気配は感じられませんでした。 


     カフェでコーヒーの飲み、寛ぎながら、Tさんを伝手に我々に辿り着いた日本の兵隊の苦労を考えていました。死んだ後の世界は、どのような感じなのだろうか。そして、何故、Tさんと我々は日本で出会い、この場所に導かれたのか。その仕組みと経緯についてはわかりかねます。ただ、我々がここに導かれる理由は、その土地からどうしても離れられない方々を日本へお連れすることが出来る何かがあるのだろうことはわかりました。それは、やはり、私が日本人だからなのかもしれません。  


    その場所の補足説明ですが、現地の人が怖れて、『近付いては行けない』と言われるポイントから近かったようです。Tさんが連れて行ってくれた場所から更に奥に進んだ場所に谷があるそうです。現地の人は冗談でピーマーケットと呼び、日本語に訳すと幽霊市場と言うそうです。村の多くの人が日本の兵隊の幽霊に遭遇したと多数の目撃情報が有り、現地に住む子供たちは親御さんに、『そこに近付いてはだめだ』と言われているらしい。その谷になぜ日本の兵隊の幽霊が現れるかという理由については、第二次世界大戦時、敗走していた日本の兵隊方がその谷で身を隠し、力尽き、多くが死んでいったようでした。   


    夜はクンユアム警察の前にあるホテルを予約していました。中々どうしてお洒落なホテルで、部屋もとても素敵な空間に演出されていました。ホテルに到着したがまだ明るい時分でしたので、翌日に国境に近いフェイトンヌンという村に行く為に、クンユアム警察と落ち合う予定のトーペー寺に行く事になりました。トーぺー寺は戦時中、インパール作戦で敗走してきた日本の兵隊方の野戦病院として使用されており、このお寺で手当てを受けていたようでした。お寺の中へ入ると、軍刀・軍服などの衣類等がガラスケースの中に展示されていて、こんなタイの辺境の地にも多くの日本の兵隊が来ていた痕跡が残されている事が不思議でならなかった。このような辺境のルートを使い、ミャンマーに進行しなければならない理由がどうしても理解できずにいました。  



    境内の片隅には当時の日本軍が使用していたトラックの一部がそのままの姿で置かれており、“タイ ビルマ方面戦病没者慰霊の碑”と書かれた大きな木が建てられていました。その横に鉄製のヘルメットがとても印象的に置かれており、錆びてボロボロになっていました。我々は、慰霊碑の前で手を合せ、言葉少なにその場所を離れることにしました。   


おそらく、戦時中の退却路のひとつ。ビルマ側からタイ王国へ逃げるルート。地図中央下寄りにあるフェイトヌンにて合流。その右のクンユアムでホテルを取って行動した。



    ホテルに戻ると、夕食は外食する事となり、ホテルのオーナーに紹介してもらったホテル近くのレストランで、Tさんが関わった日本の兵隊方が無事にこちらで我々と合流し、日本への帰途に就く準備が出来た事を祝いました。しかし、料理の味は今一つですし、料理が運ばれてくるのがとても遅く、お腹がグーグーを音を立てていました。店の人に理由を聞くと、都会ではないので、毎日お客さんがたくさん来るとは限らない。だから、働く人も1-2人で賄っているという事でした。妻が『お手伝いに調理場に行こうかな』と冗談で言い始める程でした。しかし、誰一人として我々の中には、料理が遅いことに責める人はおらず、それを意に介さず楽しんでいるように思いました。これがマイペンライ精神(気にしない)というのでしょうか。日本ならクレームでお客様が怒って帰ってしまうケースも珍しくないでしょうね。  


    食事を摂りながら、翌日の予定を話し合いました。Tさんは明日の夜の便でタイ王国チェンマイを発つので、午前中に少しだけなら時間が有るとの事でしたので、クンユアム警察と落ち合う予定をしているトーペー寺でお坊様にお布施をし、日本の兵隊方の為に慰霊をして頂きましょうという話になりました。それと朝早くにホテルに托鉢に来るお坊様にもお布施をし、日本の兵隊方の帰還の旅が無事滞りなく進みますよう祈願し、お坊様から良い言葉を頂くことにしましょうということで話がまとまりました。  


    この場は我々の行ってきた英霊の依頼と名付けた活動への敬意の意味も込めて、Tさんが食事をご馳走してくれる事になりました。申し訳無い気持ちになりましたが、Tさんの気持ちを受け入れることにしました。きっと、彼女も、自分の経験したこと、そして、日本へ来たことに対し、とても感慨深い気持ちになっているのだろうなと思いました。    


6:5人だけのトーペー寺での慰霊祭  


    12月29日(月曜日)朝5時に起床し、ホテル前で托鉢に来られたお坊様にお供えをしました。大きな入れ物を持ったお坊様が、霧の濃い早朝、一軒一軒丁寧に歩いている姿は幻想的でした。我々は、お供物をお坊様が持つ大きな器・籠のような物に入れると、膝をつき、お坊様の前で手を合わせて頂きました。するとお坊様がお経(妻曰く、良い言葉)を上げ始め、我々は粛々とその言葉を魂で受け取るように聞きました。  


     ホテル内に戻り、朝食を摂る為、ホテルの屋上へと上がりました。すると270度見渡せる景色がそこにはありました。朝霧に包まれた町を見ながら摂る朝食はとても気分が良く、マイナスイオンも同時に吸っているような感覚に包まれました。提供された食材もとても新鮮で、朝から良いスタートを切る事が出来ました。朝食後は時間に余裕があったので、クンユアム戦争博物館へ立ち寄る事にしました。現地に着くと、私が以前来た時の姿はなく、近代的な建物になっていました。見学していると以前とは異なる展示の様子に少々寂しさを感じましたが、新しい発見もありました。インパール作戦で使われていたトラックの展示写真を見て、“永遠の0”という映画で飛行場に停まっていたトラックと同じ物だという事がわかりました。型は少し違うかもしれませんが、素人の私が見る限りは全く同じように見えました。自分の目で歴史の事実確認をしていくと、当時の様子がよりリアルに感じ、嬉しくもありました。 最後はここの慰霊碑に花と線香、水をお供えして、トーペー寺に向かいました。   




     博物館からトーペー寺までは15分程で着きました。お寺に着き、本堂でお寺の方に事情を説明し、インパール作戦で亡くなった日本の兵隊の慰霊をして頂きたいとお坊さまにお願いを致しました。5名のお坊様が我々の前に現れて台座に座り、この地で亡くなった日本の兵隊方の慰霊の為、尊いお経を上げて下さいました。我々が発起人となった小さな慰霊祭はこれで終わり、お寺を後にしました。   


     Tさんは12月29日の夜の便で日本の留学先に戻るのでトーペー寺のあるクンユアム市からチェンマイ市に一足先に帰る事になりました。車だとここから3時間位で帰れるはずなので昼過ぎには戻れるという事でした。彼女としては我々と一緒にタイ王国とミャンマーの国境近くまで日本の兵隊方との合流地点について行きたかったようですが、変更不可能なチケットを購入していましたので、残念ながら彼女は諦め、ここで別れる事になりました。兎に角、ここから先は我々家族の進む道。別の日本の兵隊方からの帰還依頼を受けた以上、家族3人でやり遂げましょうという事で案内をしてくれる警察官をトーペー寺境内で待っていました。    


7:タイ王国とミャンマー国境の村フェイトンヌン  


    日本にいた時に紹介してもらったクンユアム警察の方とトーペー寺で落ち合う約束をしていました。我々が待ち始めてから数分経った頃に男性警察官がやってきました。妻がタイ語でなにやら話している。日本の兵隊方が待っている合流場所までは警察官の4輪トラックでしか行けず、我々の車はお寺で預かってもらう事にしました。子供と私が、警察官が乗ってきた4WDタイプのトラックの荷台に乗り、警察官が運転し、妻は助手席に座る事になりました。   


    初めは舗装された道路でしたが、国境方面に近づくにつれ、道は悪くなり、最後は舗装されていない道になりました。道路の表面は赤茶けてきて、道には大きな地割れがいくつもありました。時折、車体が大きく跳ねるので車体のどこかをぐっと掴んで飛ばされないようにしていました。普通の乗用車なら、車の底を何度も擦りながら進み、最終的には故障してしまうかもしれないと思うと、この4WDは頼もしく思えました。30分から1時間弱程度で国境の村フェイトンヌンに到着しました。 



    フェイトヌン村の手前で道路が二又に別れていて右に行けばミャンマーへ10kmほどで到達する旨の標識がありました。警察官はフェイトン村で車を止め、ガイド役になる人と会う為に、ある一軒家の村の人と話し始めましたが、何故か住人は不在でガイドが用意されていませんでした。警察官はこの村に住む友人に電話をして、日本軍が駐在していた場所を知っている者がいないか聞き始めると、1軒の家を紹介してもらったようでその家に立ち寄りました。大声で声をかけると、その家から一人の男性が出てきました。彼に日本軍が駐在していた場所を聞き始めると、『そんな場所は知らない』と言い始めました。『そんなことはないだろう。君がそこに詳しいと村人から聞いてきたんだ』と彼に詰め寄ると、知らないとしつこくしらを切りました。途中から妻も横から話しかけ始めました。妻と警察官が困っていると、日本の兵隊が『この人、知っています。我々の場所を』と私に教えてくれました。思わず、私はニヤリと顔の表情を変えてしまいました。『嘘を言ってもだめだよ。今、教えてもらったから。あなたは知っているはず。あんまり、しらを切りすぎると私が言ってやろう』と思った瞬間、急に彼は表情を変え、『現地までの道は危険ですので、私があなたの車を運転し連れて行きます』と協力的に態度を改めました。私はイザとなれば、私が交渉してやろうと彼の目に視線を送っていたので彼の態度の変化に非常に驚きました。彼は『村の若い人では戦跡について詳しいことまでは知りません。当時の村人はほとんど亡くなっていますし、若い人は興味が無いので知らない』とのことでした。そこから警察官・私・息子が4WDトラックの荷台に乗せられ、車止めまで道幅が狭い荒れた道を走り始めました。橋も木材で簡易に作られたものばかりで、車体を左右に激しく揺らしながら奥地まで進んでいきました。


   


    時間的に30分弱過ぎたであろうか。車を駐車し下りるように言われ、村の人は『ここからは徒歩です』と言い始めました。が、その時、日本の兵隊が急に話し掛けてきました。『〇〇さん、あちらです』と言い、その方向に向かって、村人も歩き始めました。私は妻・子供・警察官と共に村人の後をついて行きました。山道の奥には小川が流れており、簡易な細い木が川を跨いで倒れていました。子供は得意げに渡り切ったのですが、心配すべきは我々大人の方でした。なんとか橋を渡りきると、少し急な登り坂になり、その急勾配を上がった所はトウモロコシ畑で収穫した後の枯れた葉や茎が生い茂っていました。ここが日本の兵隊との合流場所でした。とうもろこし畑でなかったら相当広い平坦地で、戦時中、ここにトラックがあったり、宿営地のような場所だったのかなど、色々な想像を搔き立てました。  




    合流場所は間違いないのですが、疑問が湧いてきました。私の頭の中にある映像の場所とは風景が全く違いました。その事を、村のガイド役の人に話すと、村人は私に更に徒歩で奥地に行きましょうと言い始めました。表情・気持ちの変化が一段と強くなりました。すると、警察官がそこに割って入り、駄目だと言い出し、引き帰すように促されました。国境に近いという事でミャンマー側の国境警備兵に見つかれば、予期せぬ出来事が起こる可能性もあり、村人にとっては楽な徒歩かもしれませんが、子供を含んだ我々では十分な準備もしておらず、危険だと判断したからかもしれません。 


     我々は車に戻り、来た道を引き返す事になりました。フェイトンヌン村までの帰りの道中、妻とガイドは車内で話し込んでいたようでした。『必ずまた来て下さい。私が奥まで案内いたしましょう。私は山岳民族で結婚するまではミャンマー側の村に住んでいました。今は結婚してタイ王国側の村に住んでいます。しかし、我々にとってはタイ王国もミャンマーも無いのです。だから、国境を越える事は造作の無い事です。タイ王国軍・ミャンマー軍共に顔見知りで私が国境を越えても何も咎められません。私の親戚という事で国境を超える事が出来ます。どうかまた来て下さい。私の父は日本軍の元で働いていました。だから、私はどこに何があるか良く知っています。私は子供の頃、父によくあちこち連れて行かれたので村の中では日本軍の戦跡については詳しい人間の一人です。来年お待ちしております』


     本当は他にも話していた事があったようです。戦後、数十年経ってから日本人が慰霊で来られたらしいです。その中には慰霊という事で来るのですが、現地で地図を広げ、位置・方向の確認だけを村人に聞き、案内を断る奇妙な日本人もおられたそうです。そんな奇妙な日本人の行動が発端となり、多くの村人から日本軍埋蔵金の噂が出てきたようでした。おそらく村人は私の話している場所の様子と彼の知る場所のイメージと似た所があり、若しやと思ったのかもしれません。いずれにしても日本の兵隊の帰還依頼が無い限り、私は行きませんが。  


    フェイトンヌン村に戻り、案内役を引き受けてくれた村人にお礼を言いました。タイのお菓子をいくつか渡しただけで、お金は受け取らないようでした。彼は埋蔵金などのお金目的ではなく、きっと知りたいだけだったのかもしれません。少し疑った自分が恥ずかしく思いました。しかし、他の人達は思惑が違うと思いますので、こういった事には関わらない方が良いのかもしれません。  


  


8:思い出のクンユアム餅 


     クンユアムにて最後の朝食を摂っていると、妻が現地の餅をコーヒー皿に載せて持ってきました。『これは戦時中、日本の兵隊さんの間でたいへん人気のあったお餅だったようですよ』と見せてくれました。よく見ると、白くないので、餅には見えませんでした。しかし、妻はその餅を美味しそうに口に運んでいました。私も知らなかったのですが、この餅はタイで昔からあったようで、それを食べた日本の兵隊方の間で日本の餅と同じだという事でたいへん人気があったそうです。しかし、お金の無い負傷した日本の兵隊方ばかりでしたので、軍から支給された物資と交換してクンユアム餅を手に入れていたようでした。ほとんどの兵隊はお金が全く無く、『食わせてくれ』と何度も懇願していたようでしたが、お金が無くて餅が食べれなくても決して盗みは働かなかったそうです。全員が全員そうではないにしろ、基本的にその当時の日本の兵隊方は、礼儀正しかったようです。私がこれまでの日本の兵隊方とコンタクトを取ってきた際も、良い印象しかなく、私たち家族を脅かすような行為は全く有りませんでした。むしろ、いまだ成仏していない霊魂の状態ではありますが、精神性の高さみたいなものを少し感じさせてくれました。ただ、彼らは日本に帰りたいという執着にとらわれ、各々の土地で縛られているのだろうと勝手に推測するのでした。    



9:日本人旅行者との出会い  


    12月29日の夜、ホテルの駐車場が満車でしたのでジョムトン警察の敷地に車を置かせてもらっていました。朝食を摂った後、私は荷物を車に運び、ホテルに徒歩で戻っていた時に目の前から日本人らしき2名の旅人が通り過ぎて行きました。耳を澄ますと日本語を話しておられたので、タイ王国の山々をトレッキングしておられるのかなと思いました。ホテルに戻り、『日本人がいたよ』と妻に話すと、『クンユアムの学校では日本語を教えていているクラスもあって、その日本人の先生では?』と言うので、『いや大きなリュックを背負っていたので、バックパッカーか山登りをしている人だと思うよ』と噂話をしていました。  


    ホテルの支払いを済ませ、クンユアム警察署まで行き、昨日の御礼を言いに妻だけ挨拶に行きました。彼は忙しそうにしていて、少しだけ挨拶が出来たようでした。   警察署の駐車場で我々はメーチャームに行くか、メーラノイの洞窟見学に行くかで妻と私で意見が分かれ、話し合いをしていましたが、今回も貢献度の高い妻に、私は選択権を譲りました。最終的に、妻が『メーチャームにしよう』と決めました。私は彼女の言う事に同意し、そのまま車を走らせていると、村の外れの場所で先程の日本人2名が立って、ヒッチハイクをしているのが目に入りました。妻に『ほら、日本人だよ。さっき、話していた人だ』と私が話すと、妻が『止めて、乗せてあげて』と叫びました。ただ、後方に車が来ていたので、止まり掛けたが危険回避のため、一度は通り過ぎました。通り過ぎた先にはお寺があり、そこの駐車場に一旦停め、後部座席の荷物をトランクに入れ、再びUターンしました。すると、まだ彼らが立っていました。  


    妻が車から降り、声を掛けている姿が車のルームミラー越しに見えていました。すると、2人の日本人は車に近づいてきたので、後部座席に狭いながらも乗って頂きました。私はヒッチハイクをした事がなければ、している人を乗せた事も無かったので、妻の行動と決断には参りました。しかし、我が家のリーダーはやはり妻でしたので、彼女の進む道に従い楽しむ事が、私の使命でした。車に乗り込んできた日本人の方たちと、さっそく自己紹介をしながら、どこに向かっているかを確認し、メーサリアンという街まで送り届ける事になりました。話を聞いていると、その日の朝、メーホンソンの宿泊所から我々が滞在していたクンユアムまで南下してきたようでした。そして、クンユアム戦争博物館に立ち寄り、それからまた徒歩で街の外れまで移動され、車を捕まえやすい場所で立っていたという事でした。   


    目的地のメーサリアンまで行く途中に気になっていた『メーラノイの洞窟を見に行きませんか?』と提案し、御賛同頂けたので、行ってみる事にしました。意外にも観光に来ている車と人が多く、タイ王国内では人気のあるスポットのようでした。そのような寄り道をしながら、あっと言う間に目的地のメーサリアンに到着。折角でしたので、昨日、Tさんに紹介してもらったレストランで昼食をご一緒する事になりました。出会った2名の方は北海道在住という事で今までにない繋がりを感じました。何故なら妻は数年、北海道に行きたいと何度も私に言っていましたので、憧れの北海道在住の方と出会える事は本当に嬉しい限りでした。しかし、こんなタイ王国の辺境地区でまさか北海道の方とお会いするとは夢にも思いませんでした。彼ら2名も私のような日本人とこんな場所で出会って驚いたのではないかと思います。  



    この後はさらに南下を続けるという彼らに少しでも力になりたいという気持ちでバスターミナルの場所や出発時間の確認を妻にしてもらいました。その後はホテルを探し、そこでお別れとなるのですが、その時に初めてお名刺を頂き、メディア関係のお仕事をされている事を知りました。何故か不思議な縁と目に見えない流れのようなものを感じざるを得ませんでした。来年で定年を迎えるという2名の内の1人は定年を迎えた後は語学留学を考えているという夢を語ってくれました。そんな姿がとても眩しく見え、私にとっては、とても為になる話を聞かせて頂きました。人生、最後まで活き活きと楽しむことの大切さを思い知らされ、現代病の一つである無気力病、未来に希望を見い出せない現代の精神病を吹き飛ばすような言葉が私の心に強く印象的に残りました。お二人に感謝しながら、最後は一緒に記念撮影をしました。いつか北海道でお会い出来たら、面白いだろうなと夫婦共々思いながら、短い時間でしたが、名残惜しくお別れをしました。こうして、初めてのヒッチハイカーとの出会いを終えました。    


10:御礼とカレーライス  


    ヒッチハイカーと別れて、ゆっくりと3時間程かけて、妻の実家に辿り着きました。年末ムードとあって、タイ王国の人達は旧正月を楽しむはずなのですが、この時期も何となく街は楽しい雰囲気に包まれていました。夜になると、自然と人が集まり、わいわいと賑やかになっていました。そんな宴の中、妻が日本の兵隊方の為にも食事をとり分けてテーブルの上に置いてあげれば嬉しいのではないかと言い始めました。我々が集まって食事をしていた場所近くにその料理を並べ、『ご苦労さまでした。どうぞ召し上がって下さい』と言って置かせてもらいました。  


    すると、その宴に来ていたタイ人女性が突然、何かに憑依されたかのように泣き出し、座っていた椅子から立ち上がり、私の前に土下座をして、感謝し始めました。この所作は今回の依頼をしてきた日本の兵隊の方だとすぐにわかりました。『気にしないで。今までご苦労されたのですから、食事を愉しんでください』と労を労いました。すると、何度も何度も額を地面につけ、御礼を述べていました。彼の嬉しさが強く伝わってきて、お役に立てたことが、嬉しくなりました。我々は人として自然に人助けをしたくなり、しただけだと心の中で念じました。日本の兵隊の御霊がそのタイ人女性から抜けると、彼女は『何があったかわからない。土下座をしたくなってああいう事をしてしまったの』と我に戻ったはいいが、自分のとった行動が信じられないような表情を浮かべていました。 



     日本に帰る日の夕方、妻、そして夏にミャンマーにご一緒した妻の友人、そして兄嫁の3人が日本のカレーライスを作り始めました。あまり期待していなかったのですが、これが最高に美味しく出来上がり、たらふく食べてしまいました。インパール作戦の時代には既にカレーライスというものが存在していたように思います。日本の兵隊の皆さんもカレーライスをご賞味頂ければと念じました。   


     こうして、我々は1月某日、日本へ帰国致しました。夏に続き、今回も素晴らしい日本の兵隊方との交流と引き上げが出来た事がたいへん嬉しかった。いつもお金もかかり苦しいですが、それだけの事が出来、彼らの喜ぶ思いが伝わって来る度に何とか皆を帰還させてあげなければと思いました。 


 11: インパール作戦に興味が湧く  


    我が家に着いてから、『あの世に行くようにね』とお話したが、彼らの一部は『貴方の家に暫く一緒に居ていいですか?』と言い出しました。一瞬、困ったがそんなに長くは居ないかなと思い、じっくり説得しようと思い、『いいよ』と気軽に言ってしまいました。本当は良くないのでしょうが。  


    1月某日だったと思いますが、結局、日本の兵隊方が暫く我が家に滞在するという許可を出してしまったがために、何とも微妙な心持で毎日を過ごしていました。『彼らのこの世に残る目的は何だろう?私が話して、彼らが納得してあの世に行くのであろうか?』など様々な思いが私の頭の中を駆け巡りました。  


     そんなある日、『あのフェイトンヌンという村ってどのような村だったのだろうか?日本軍が駐在していたらしいけど、本当にあんな場所にいたのだろうか』と少し疑い始めました。その瞬間、私の身体が勝手に自分の部屋に向かって歩き出し、本棚の一冊の本を取り出しました。そして、開いたページの項目が“ホイトンヌン村”でした。私は全身が総毛立ち、身震いがしました。そして、そのまま、その項目のページを食い入るように読み始めました。最終的には、他のページも読み、あっという間にホイトンヌン村の戦時中の出来事を知る事が出来ました。タイ王国側からミャンマー方面に抜ける北部ルートを利用した日本の兵隊の数は3万人で、内7000名の若い兵隊がその途中で亡くなっていったそうでした。ホイトンヌン村はそんな北部ルートの宿営地の一つだったようで、戦争当時、村人によると200-300台の日本軍のトラックが停まっていたようでした。戦争が終わると、置き去りにされたトラックは村人によって解体され、鉄屑屋さんに売られていったようです。  


    訪れた時はそのような過去があった村にも見えなかったので、歴史を知ると行った場所の見方が変わるものだなと感じました。それにしても、こういった事実を教えてくれたのが誰かはわかりませんが、本当に感謝すると同時に誰が教えてくれたのかしりたくて仕方がなかった。私はインパール作戦に興味が無かったのですが、この一冊を読破する事でボンヤリとこの戦争の経緯と全体像が見えてきました。  



    しかし、あの瞬間の出来事は今思い出しても不思議でなりません。何が私に働いたのか今でも考える事があります。ひょっとすると、暫く私の傍に残るといった日本の兵隊方が私に教えてくれたのではないかと思いました。事の真相は私を動かしたご本人様でしか分からないのかもしれませんが、この答えは、いつか分かった時の楽しみにしておければいいかと気に留めないことにしました。 


 12:日本の兵隊の幽霊との会話  


     一人の兵隊が私に話し掛けてきました。1月であったか2月であったか記憶が曖昧で覚えていないが、時間はお昼前だったような気がします。彼は私に名を名乗りました。何故このタイミングなのかが分かりかねますが、理由は定かではありません。所詮、凡人ですので。そして、これまでのクンユアムでの流れについて少し説明してくれました。内容は詳しく書きませんが、内容が突拍子も無さ過ぎて信じられませんでした。ですので、彼の話は忘れる事にしました。また、こんなお名前の方が、居られたのかどうかを確認しようがありませんし。名前の漢字が分かるわけでもないですし、出身が分かる訳でもない。生きている人間と会話するような感じで話しているわけでもないので。話し掛けてきた兵隊は〇〇 〇〇と名乗りました。若し、戦没者名簿の中にあるのなら、何時か確認してみたいと思いました。現れる日本の兵隊方が本当に存在していたならば、私は苦労してタイ王国やミャンマーに足を運ぶ甲斐が出てきます。何時か確認し、そのご親族の方の住む場所へ送り届ける事が出来ればと理想だなと考えています。 


 13:望みが叶う 桜咲く靖国神社へ  


    2015年4月3日(金曜日)の夜から家族揃って靖国神社へ行こうと計画を立てていました。今回は家族のみで気軽に行こうと決めました。あくまで出来る限りではありますが、我々家族の生活を守りながら、日本の兵隊方からの帰還依頼を受け、彼らのお手伝いをさせて頂く活動を続けようという考えが定着しつつありました。  


    そんな予定がある中、溯りますが4月1日にタイ人留学生が一人タイ王国に帰るという事で、我が家でお別れの焼肉パーティーをする事になりました。その時に、昨年(2014年)の年末にクンユアムまで一緒に行ったTさんも来る事になりました。皆で焼肉に舌鼓を打ちました。我が家は、焼肉のタレが自家製で、非常に美味しく作れますので、彼らにもふるまいました。元々は父親が友人のシェフから教えてもらったというタレなのですが、これがたいへん美味しく、アレンジすれば、様々な料理に使えるのではないかと思えるくらいのタレでした。妻もその作り方を私の父から伝授されていたのですが、父が作る焼肉のタレは絶品で食が進み過ぎて困る程です。そんな焼肉のタレにつけて食べる焼肉、野菜は最高ですので、外国のお客様が来られた際は、その焼肉のタレをお出しする事が多いです。そのタレをつけて食べるお客さんの反応を愉しみにしているのですが、今回は、少し反応が薄いのが気になりました。旨いと思っているのは私達家族だけなのかもしれません。   


   食事を終え、寛いでいる時に、妻が『明後日の夜から東京に行くのよ。靖国神社に参拝してくるの』と話し始めました。すると、Tさんが『ご一緒させてもらってもいいですか?』と尋ねられたので、断る理由も無く、我が家の家族旅行に参加する事になりました。   


    4月3日(金曜日)Tさんとは初めての日本でのお泊り旅行で、お互い気を遣わず上手くいくかなと思っていたら、妻と私の子供、そしてTさんは家族のようにワイワイと楽しそうにしていました。車内は喜楽な雰囲気に満ち、良かったなと思いました。4月4日(土曜日)の朝に東京に入り、無事、靖国神社へ到着する事が出来ました。 


     その日の靖国神社は桜の季節で、参道で《靖国神社の桜の花の下で「同期の桜」を歌う会》という催しに偶然出くわしました。妻とTさんがその会の傍で立っていると、『兵隊さんが来ました』と言い始めました。そのまま、鳥居をくぐり、本殿へご挨拶をさせて頂きました。その時、ふと思い出した事がありました。そういえば、Tさんが妻と初めて会話をした時に話した言葉が『靖国神社へ行きたいです』だったなと。そう思うと、今回は東京に発つ二日前にTさんが我が家に来たのは偶然では無いように思えてきました。昨年末も偶然、彼女がタイ王国から日本に戻る二日前にタイ王国クンユアムに帰還依頼の旅にご一緒しましたし、何とも不思議な流れに感じました。   



    4人で参拝を済ませ、参道を歩いていると、妻とTさんが戦時中の歌が聞こえる場所に行き、じっと佇んでいました。クンユアム周辺で最後を迎えた日本の兵隊方がTさんを通して言ったのかもしれない『靖国神社へ行きたい』という言葉は、我々全員で靖国神社へ来ることで日本への帰還も実現したのではないかなと思いました。そしてその橋渡しをお手伝いさせてもらったんだとしみじみと感慨深い思いにさせられました。   


 14:クンユアムでの出会いと北海道への帰還  


    項目9で書きましたが、昨年末、フェイトンヌン村から無事クンユアムに戻ってきた我々は北海道在住の2人の旅行者とお会いしました。お二人とも沢登りを趣味としていて、かなりの腕前のようでした。一人目の方をGさん、もう一人の方をYさんとここでは書かせて頂きます。Gさんは沢登りの本を4冊も出版される程の沢登りのベテランで、沢登りに限らず、冒険的要素が濃い旅行者としても精通しているようでした。若い頃から世界中を旅しておられたと聞いて、私が若い時に憧れていた世界旅行を実現された方なのだと羨望の眼差しで見ていました。  


    2015年1月に日本に帰ってから2か月後の2月27日にGさんから突然メールが届きました。そのメールには彼の旅の記録である備忘録が添付されており、我々の事が書かれていました。我々との出会いの部分を拝読した時は嬉しい気持ちになり、良い出会いだったなとその時の事を振り返っていました。  


    拝読させて頂いた備忘録に反応してしまったのか、私も今まで自分では書いた事の無かった備忘録のような物を書き記し、それを返信メールと共にGさんに送りました。『何だかスラスラとタイプしてしまい、送ってしまったけど、変な人だと思われるかな』と少し心配になりましたが、妙にそれで良いのだと思って納得している自分もいました。  


    すると、私が送った備忘録に、素直に感銘を受けた旨を伝えるメールをGさんより頂きました。正直、ほっとしながら、『何となく人に伝えた方が良いのかも』という気持ちにGさんの反応がさせてくれました。  


     そんなGさんから3月終わり頃に再度メールを頂きました。『是非、思い出せる範囲でもいいから、備忘録にしてまとめて下さい』という内容した。Gさんは若い時から世界中を旅しておられたのですが、備忘録のような記録を取っておられず、それを悔いておられるようでした。私もそんなGさんの経験から来る貴重なアドバイスを無駄にすると勿体無いと思い、その後から出来るだけメモを残すように心掛けました。これが、今、書き残している「英霊の依頼」と名打った備忘録を書く切っ掛けとなった原点です。Gさんとの出会いがなければ、きっと、まだ書いていなかったかもしれません。また、回数を重ねる毎に、記憶違いや思い違いがより酷くなっていったかもしれません。今でも、曖昧なところはございますが、過去の写真を見ながらおおよその事は思い出しましたので、細かい所は別にして、概ね、間違いないと思います。  


     Gさんとメールでのやり取りをするうちに『北海道の6月は良い季節ですので、是非いらして下さい』という話を頂きました。ここ数年、『北海道に行きたい』と妻が言っていたにも関わらず、仕事とか面倒だとかでそのまま行かずにいたのですが、急に『6月は北海道だ』と何も考えず行く事に決めました。タイ王国クンユアムで出会った縁が北海道への旅に繋がる。エキサイティングな流れが、我々家族を興奮させることになりました。北海道旅行は最終的にGさん、Yさんと共にGさんのお車で3日間一緒に旅をする事になりました。北海道では土地勘の無い我々でしたので、とても頼もしく安心感を持って北海道千歳空港に向かって飛び立ちました。  


    空港の外に出ると、Gさんが満面の笑みで迎えてくれました。私達も当たり前ですが、『タイ王国で会ったGさんだ!』と気分は最高潮に盛り上がりました。早速、車に移動すると、Yさんもおられて更に喜々として再会を喜びました。  


    今回の旅は道南を中心に観光地を巡りました。函館は誰でも知っている観光の名所。子供が道南の写真を見て、『こっちへ行きたい』という事で最終的に子供の意見を尊重する形で決めさせて頂きました。  


    千歳空港を出発し、走り始めると森の中を駆け抜けるかのようで、外の景色にうっとりしていました。空気も美味いし、我々家族が住む街とは違ってゆっくりとした時間が流れているように感じました。初日、一番印象に残った場所は、登別温泉の足湯でした。もうこれは最高に気持ちよく、身体を温泉の川床に沈めたい気分でした。私の疲労蓄積した身体には必要だったのか、温泉のお湯に癒されました。  



    初日の夜はGさんの沢登り仲間の別荘にお世話になる事になりました。オーナーさんはとても優しく穏やかな、とても素敵なお人柄の方でした。夜はジンギスカン料理を頂きながら、ビールを少し飲み、楽しい夜を過ごさせて頂きました。居心地・寝心地がとても良く、楽しくて何泊でもしたい気持ちになりました。  


    次の日の早朝、Gさん、Yさんは毎朝ジョグを日課とされていて、一走りされて戻って来られました。そして、そのまま、人里離れた秘湯に私を連れて行って下さいました。ここがまた最高に素晴らしく、手作り小屋が堪らなく良い雰囲気を醸し出し、最高でした。  


     旅行記になりそうなので端折らせて頂きますが、この後の2日間も様々な観光スポット、地元ならではの温泉(これがまた良い)、魚介類(寿司、毛蟹等々)を満喫させて頂きました。そのような中、突然にGさんが札幌のあるお寺に連れて行ければと考えていると話されました。インパール作戦で亡くなった日本の兵隊方を供養しているお寺だそうで、そこに我々を連れて行こうと考えておられるようでした。その話を聞いた時に、何となく気になりました。我々と出会う前にGさんとYさんはクンユアム戦争博物館にお立ちよりになられていたようで、その話を聞いた時に何か感じるものが有り、Gさんが札幌のお寺の話をされた時に出来たら立ち寄りましょうという話は、絶対立ち寄るのだろうなと思い聞いていました。  


    3日目、積丹半島をぐるりと回り、NHK朝の連続テレビ小説「マッサン」のドラマの舞台となった余市を過ぎると札幌市内へと移動を始めました。時間的にGさんがお話されていたお寺は無理かなと思い始めていると、Gさんはそのお寺に向かいますと私達に告げられました。  


    その後、あっという間にお寺に到着しました。目の前には観音様の像が建っており、何とも言えない空気が流れていました。何かあるのかなと思っていると、Gさんが呼び鈴を鳴らし、ご住職が出て来られ、そのまま本堂の中へ招いて下さいました。先ずはGさんが我々をご紹介して下さり、今までの経緯を説明して頂きました。私達にインパール作戦で亡くなった日本の兵隊方が日本への帰還の依頼に来る旨の内容でした。すると、その場にご住職の奥さんも現れ、必要な面々が揃ったかのような空気が流れていました。ご住職の奥さんによると、朝からご住職が落ち着かなく、また多くの霊魂が本堂の外にいて、本堂に入って来られないでいるように感じていたようでした。その日は朝からずっと、不安に駆り立てられておられたようでした。それは長い間お坊様として生きてきた中で特異な体験だったようです。ご住職のお話によると、このお寺に日本軍の帰還兵が来られ、その方は昔、ミャンマーの人々が独立出来るように働きかけをされた方のようでした。詳しい理由は知識不足で分かりかねますが、北海道出身の方でこちらのお寺にインパール作戦で亡くなった方を弔って欲しいという事がきっかけで、こちらのお寺で供養される事になったようでした。また、奥様には霊感がおありのようで、様々な体験をされており、心霊体験も豊富なようでした。私達夫婦と同じような感覚の持ち主で共感出来る部分が多々有り、話をスムーズに理解して頂けました。その流れで私がインパール作戦でお亡くなりになった日本の兵隊の帰還依頼を通して、直接に経験させて頂いている現在進行形のお話をご住職並びに奥様、そしてGさんにもお話する機会を持たせてもらいました。  


    途中、こちら帰還された日本の兵隊が私に話し掛けているのが分かりました。どうやらGさんにこのお寺に連れて来てもらえた事に感謝を述べているようでした。私はGさんの足や肩に触れたい衝動にかられ、そのまま、Gさんに御礼の言葉を伝えたい気持ちになりましたが、憑霊現象というものは、あまりお見せするものではないような気もして、なんとか踏み堪えました。本当は、身を任せれば良かったのかもしれません。  



    こうやって、あっという間に1時間程の時が過ぎていたかのように思います。このお寺には日本の兵隊の御霊が癒される「何か」があるように感じました。私は霊能者ではありませんので詳しい事は分かりません。ただ今回の北海道へのお導きはGさんがクンユアム戦争博物館へ行った事によって、若しくはGさんをお見送りに来たご友人のFさんを通して、行われた浄化活動の一つだったのかもしれません。ここに出てきたFさんとは、Gさんが今回のタイ王国への旅行に旅立つ前に空港までお見送りに来られた方でした。そして、Fさんこそ、このお寺をGさんに紹介し、お会いした事の無い私達をこのお寺に導いて下さった影の功労者のような方でした。誰が欠けても今回の北海道への日本の兵隊方の帰還は完遂出来ませんでした。これから先の事はこちらのご住職によって供養して頂ければ、無事に成仏出来るのではないかと思いました。本当に素晴らしい方々とご一緒に日本の兵隊の帰還への一助となる事を担わせて頂き幸せな時間を過ごす事が出来ました。もしあるならば、天の配剤とそれに無意識にでも順じた現代に生きる皆さまの動きに感謝したいと思います。本当に有り難うございました。これを以って、2014年12月に行った際の日本の兵隊の皆さんの帰還の全てが終わった事をご報告したいと思います。 この後は北海道のGさん、Yさん、我々家族で最後の晩餐をGさん行きつけの居酒屋にて締め括りました。ありがとうございました。 

英霊の依頼-インパール作戦に沿って-

「我々の処へ迎えに来てもらえませんか?日本に帰りたい」 我々家族の元に現れる日本兵とは第二次世界大戦インパール作戦で敗退し、亡くなった若い兵隊さんたちです ミャンマー、タイ王国、中国、インドと各々の呼ばれる場所へ訪問、合流し、帰国へ 2009年の秋 一人の兵隊から始まった日本への帰還依頼は、多くの帰国を願う兵隊たちに広がり 2025年12月 20回目の依頼を終えた。