第11回目 インド 前編 サンシャーク 2017年12月


1:「まだ終わっていない」

 香川県善通寺にあるビルマ戦没者慰霊塔パゴダの前で伝わってきた思念が、「まだ終わってない」だった。私は、思考が一瞬止まった。が、すぐに『どういうことなんだろう?』という思いでいっぱいになった。

 『そういえば、サガインヒルで声をかけてきた男がいたな』

 英霊からの帰還依頼10回目(2017年3月)にミャンマーで立ち寄った最後の場所がサガインヒルだった。見晴らしの良い場所に立つ慰霊碑を私共夫婦と北海道のF氏は訪れた。慰霊碑に手を合わすF氏に対し、「そこにはいないよ。早く帰ろう。」と声をかけてきた慰霊碑の兵団の名前は鯨でした。鯨兵団は、中国へ赴いていた部隊でしたが、中国での任期を終え、帰国した彼らは、人手不足のためか、再び招集がかかり、ビルマ・インドで繰り広げられたインパール作戦に従事することとなった。配属先は、31師団、烈であったそうだ。思念の声をかけられた私は、早く日本へ帰りたいのかと思っていたのですが、後にそうでないことを香川県善通寺で知ることになった。 

2:2017年5月25日 帰還依頼

 前回の帰還依頼完了後、1か月が過ぎた頃であろうか、11回目の英霊の依頼がやってきた。「やはり、そうだったか。」場所は、インパールから近い場所であるとのことだった。それを妻と北海道のF氏に伝えると、インパール方面だと彼らは言い始めた。各々も感じるところがあったらしい。が、私の中では若干、違和感を持っていた。確かにインパールの近くだと言われたが、意識がホマリンよりも下方に向いていた。で、ミャンマーでお世話になっているガイドのウェインさんに聞いてみることにした。すると、チンドウィン川下流にあるトンヘの話をし始めた。どうも、彼がお手伝いしている遺骨収集団の日本人グループと同行した最近の場所がトンヘでした。そして、私の意識が、すぐにトンヘ方面に向いた。すると、兵隊さんの同意するような思念が伝わってきたので、そこかもしれないと思った。が、それはあくまで私の意識をあるルートへ導くための誘導であったようでした。


あるルートとは、患者の通った道をさす。地図の右下のトンヘを意識させる。

:2017年6月1日 コヒマからの退却路 ウクルル道

 トンヘが次の英霊の依頼の元だと思った私は、その場所に関する資料をあさり、知識を得ていくようになった。すると、時折、見える風景が道であり、その道を意識すると、今度は、その先へと意識が伸びていった。『あかん、意識がインド側へ伸びていく・・・。」そして、意識の止まった場所が、インパール手前のサンシャークだった。5月25日に兵隊さんが伝えられたインパールから近いという言葉通りの場所であった。

 

 サンシャークと思われる場所の風景と多くの兵隊が頂きに向かって多く倒れているイメージが頭の中へ流れてきた。 しかしながら、まだインパール作戦の戦地であったインド側には訪れたこともなく、本当に行けるのかと疑い始めていた。そして、その迷いは、ミャンマー側のトンヘだけでいいんじゃないかとも思うようになっていった。


4:7月12日 靖国神社 楷行文庫にて資料を頂く

 東京で北海道のF氏とお会いすることになった。元々、会う理由は別の理由だったのですが、過去3回、同行した際の英霊の依頼についての思い出を、ざっくばらんに共感できる方と話し、有意義な時間を過ごすことがしたかった。お会いしたその晩、7月11日は夜遅くまで話をし、次の日に靖國神社 楷行文庫へ共に伺うこととなった。

 私は事前に靖国神社楷行文庫のK室長に、次回の英霊からの依頼の場所サンシャークについて、資料がないかといったご相談をさせて頂いていた。いつも、このK室長には資料提供でお世話になっていた。現地に伺った際、K室長から頂いた資料は、現地で非常に参考になり、インパール作戦に無知な私に様々な知識やヒントを与えて下さる貴重なものとなった。

 飲み会をした次の日の朝、7月12日の朝、F氏と共に靖國神社 楷行文庫へ立ち寄らせて頂くことになった。お伝えしていた時間を少し過ぎてはいたが、無事、K室長とお会いすることが出来、インパール周辺、特に、31師団 烈兵団の左翼ルート、祭兵団の右翼ルートをベースにおいた資料のご提供を受けることとなった。私は事前に、英霊からサンシャークへ呼ばれている旨をお伝えしていたので、その時、ピンと来ない地図も、後々、たいへん参考になる資料となっていった。

 靖国神社 楷行文庫で頂いた貴重な資料を、各々、北海道のF氏と共に自宅へ持ち帰ることとなった。あとは、どうやって、どのようなルートで英霊の依頼11回目を遂行するかになった。私は、ミャンマー訪問時にいつもお世話になっているミャンマー在住のN氏経営の会社スタッフと連絡を取りながら、ミャンマーのトンヘよりスタートし、インドへ入国、サンシャークへ向かう2国間を跨ぐルートを模索し始めた。しかしながら、ミャンマーからインドへ向かうルートは、ミャンマー政府的にはNGであり、N氏スタッフやミャンマー人ガイドのウェインさんも、あまり反応が良くなかった。正直、私も徐々にどうしたらいいのかわからなくなり、ほとほと困り始めることとなった。


5:インドへのアプローチ

 そんな折、北海道のF氏から旅行ガイドをしているというインド人の紹介を得た。そのインド人の方は、英霊の依頼8回目、中国 雲南省騰越でお世話になったK氏の知り合いの方でした。K氏と連絡を取りながら、8月27日、大阪のとある料理屋でインド人R氏をご紹介頂くことになった。R氏と話を進めていく中で、少し違和感を感じる部分もあり、手詰まり感が顕在化していった。結局、我々の求める目的を第一とした内容とは違う部分も出てきたので、申し訳なかったがお断りすることとなった。が、R氏とのやりとりを通して、注意すべき点を学び、F氏と私はインドへ向け、実行における集中力を高めることが出来た。


6:銃弾に倒れる

 2017年9月14日、私の意識はサンシャークにあった。サンシャークの頂上付近へ左回りへ移動している最中に頭部に銃弾を受け、背後に倒れた。その時に見た映像は頂上付近の風景と青い空。「あそこからやられたのか…」痛いというよりも、あーという感じだった。見える風景を見ながら、倒れる瞬間はスローモーションのようでした。すると、右側からも頂上へ登るルートがあることを知った。意識が自分に戻るとどっと疲れた。

 「そうか」


7:「道は開かれる」

 2017年9月24日 「道は開かれる」とメッセージが頭の中に届いた。その2週間前にもサンシャーク周辺の山々が見え、羽の生えた鳥のような人の姿をした土地神様のようなものが山々の上空を旋回し、目に見えないエネルギーのようなものをその土地へ振りまいているのが見えた。何かを落ち着かせるような行為をしているように感じた。「兵隊さん達が帰還できるように準備してくれているのか。」現地の土地神様に、兵隊さん達の帰還許可を頂いたと感じた。こういうのは初めてでしたので、茫然とした。とにかく、良い方向に向いていくように祈念した。

 すると、北海道のF氏が、お世話になる現地旅行会社が見つからない状況を打破されるがごとく、ミャンマーでお世話になっているN氏に相談し、インドで秘境系の旅に強そうな旅行会社の存在をご紹介して頂きました。この時が、11月6-8日頃でした。北海道のF氏は、その情報を元にその会社と連絡を取り、あれよあれよという間に旅の手配を整えていきました。まさに電光石火のごとく、話が進んでいったという印象でした。

 その旅行会社の名前はH2Travelsで、我々のしている活動に見事に沿うような旅のプランを立てて下さり、また、インパール作戦戦史に精通した適任ガイドをつけてくれるように手配して下さいました。

 F氏とその会社とのメールのやり取りを見る限り、よくここまで我々の意向を汲んで下さり、旅のプランを組んで下さったなと感心するばかりでした。最終的に出来上がった旅のプランは非の打ちどころの無いものとなりました。本当に天を仰ぐような気分になりました。ただただ、この旅に携わるすべての人と事象に感謝するほかなかった。

 旅のプランが、おおよそでも決まれば、次はビザの申請。国内線の航空券などがメールで届いたのは12月初めでした。ビザを取得する期間としては短く、かなり厳しい状況でしたので、そのまま、ビザを申請してくださる代行業者にお任せし、12月13日に無事E-visaを取得した。これにて、英霊からの帰還依頼11回目の手筈は全て整った。

 まさに道は開かれたようでした。


8:2017年12月23日 本丸 インド・インパールへ向けて出発

 我々夫婦が利用する日本国内の空港は北海道のF氏とは違う空港であった。ですので、今回の我々チームの合流場所をタイ王国バンコクにあるスワナプーン空港になった。お互いに到着時間はほとんど誤差がなく、無事、合流を果たした。タイ王国バンコクからは3人(私共夫婦、北海道のF氏)揃って同じ飛行機に乗り、一路、インドのカルカッタへ向かった。機内で、Nという名前を何度も伝えられた。何を言われていたのか、既に記憶がない。やはり、メモは必要だと反省したが、きっと今回インドで待つ兵隊さんの一人であろうと思った。

 カルカッタに着いたのは深夜。H2travelsのSさんのアドバイス通りに、空港内にあるプリペイドタクシーを利用して、予約していたホテルへ移動することなった。ホテルに到着した際、私の妻が乗車料金を払おうとすると、タクシードライバーがお金を誤魔化そうとしたらしく、妻がその巧みな嘘を見落とさず、指摘した。初っ端から油断ならぬ始まりとなった。が、我々はきっと大丈夫であろうと思った。何故なら、今回の旅も、何が起こっても、道が開かれるからだ。


9:2017年12月24日 いざ、インパールへ

 

 国内移動のため、カルカッタのホテルから予約していたタクシーにて出発。国内線空港へ向かった。空港に到着すると、さっそく空港内へ。ここで1回目の荷物検査があった。ゲートには銃を持った警備員のような方が立っていた。少々おっかない気持ちになった。空港内へ入ると、チェックインカウンターへ。3人いれば、安心で荷物の重さも問題なくパス。誰かがラインに並び、何かあれば、荷物の見張りもする。良いコンビネーションだった。3人はさらに空港内部へと移動し、さらに2回目の手荷物の検査となった。なんという面倒な空港なんだと少々うんざりしてきたが、安全の確保を考えるならば、これも有り難いことなのだと感謝するようにした。ここで北海道のF氏はバッテリーで執拗な検査に引っかかっているようでした。なんでもとても強力なバッテリーだとか。息子さんがF氏のためにご用意して下さったもののようでした。合掌。私も何か息子にしてもらえないかな。

 無事、3人共に検査をパスし、搭乗する飛行機のゲートにて待つこととなった。思った以上にゲートに辿り着くまでに時間がかかり、空港内で朝食を取ろうという算段が崩れた。苦笑 搭乗時間が来て、機内へ乗り込む。すると、インパール空港にて霧が濃く、離陸を延期するとのアナウンスが流れた。正直、昨日の飛行機移動で疲れていたので、ちょうど休むのにいいかなと私はほくそ笑んだ。結局、1:45分遅れでインパール空港へ向けて出発となった。

カルカッタ空港からインパールへ向けて搭乗した飛行機

機内の様子。インパール空港は濃霧になり、飛行機が遅れることがよくあるそうです。1時間45分 機内で待機でした。


機内では朝食が出て、サンドウィッチとカップラーメンの2種類から選ぶことが出来た。ラーメンフリークな私は、当然、ラーメンを選んだ。F氏はサンドウィッチ。妻もラーメンを選んだ。味は日本のカップラーメンとは、かなり違っていた。この時、思ったことが一つあった。インドの食べ物は辛い? 以前、インドへ来た時は、そんな印象は無かった筈と記憶を辿った。最終的に味云々よりも、お腹を下すかどうかがポイントとなった。私のお腹は結構デリケートなので、トイレで皆さんに迷惑をかけられないなと心配していた。この時、今回の旅は大を減らすために食事は控えようと思った。

インパール空港に到着。空港内外に軍人が警備のため警備していた。銃が不安を煽る。


 無事、登録も終わり、スーツケースも見つけると、空港出口に向かって歩き出した。すると、一人の男性が我々の名前を書いた紙を持って立っていた。彼が、戦史ガイドのアランバム氏だった。胸に日章旗のバッチをつけていて、顔はどう見てもインド人に見えなかった。日本でもいそうな顔つきでした。年齢は44歳ということで一番油の乗り切った経験豊富なガイドだと思った。

 さっそく、空港内のソファに座り、その日の行動予定を話し始めた。食事を聞かれたが、機内で食べていたし、3人共にまったく空腹ではなかったので、昼食抜きでさっそくインパール南方面の33師団弓の戦跡レッドヒルやサドへ向かうこととなった。

 空港の外に出ると2台の4輪駆動車が止まっていた。なんだかキャラバン隊のような気分で空港を後にした。



我々を2台の車が迎えてくれた。左の車はパジェロ。アランバム氏所有の車。右は2台目の車で我々が乗る車。


ティデム道沿いにあるインド平和記念館。インドマニプール州に入り、初めて兵隊さんと接触した場所となった。

10:レッドヒル

 空港を出て、一つ目の訪問地であるレッドヒルと呼ばれる場所へ到着した。車を止めた目の前には小高い山があった。「土が赤い。」これがレッドヒルであるようだ。車から降りると、右側の方に意識が引っ張られた。「誰かが呼んでいる。」そう思ったが、ガイドのアランバム氏は、我々を逆方向のインド平和記念碑に先導してくれた。献花台には、線香・花・蝋燭・煙草と皆で用意。皆が順々に手を合わせ、英霊の成仏を祈念した。しかしながら、私は、違う方へ意識を向けさせて頂いていた。何名だろうか。兵隊さんたちが集まってきているのを感じていた。あちこちに点在していた方たちのようで我々が来たことを知り、集まってきたのだとわかった。木の少ない、隠れ場所の少ない平原のビジョンが飛び込んできた。そんな場所をウロウロと彷徨していた方たちのように見えた。我々の訪問を、非常に喜んでおられ、私もそれに対して、非常に嬉しく思った。私は「日本へ帰国しましょう。もう大丈夫ですよ。」と声をかけた。いつもながら、歓喜に満ちた気持ちにさせられた。

 綺麗に整備された慰霊碑を後にして、次は車を止めた場所の右側へ向かい始めた。兵隊さんに呼ばれた方向だ。そこはロトバチンとカタカナで書かれた慰霊碑があり、右側に機関銃が置かれていた。どうも大阪の工場で作られたものであったようだ。「なるほど。これを私に見せたかったのか。」私は、こちらに引っ張られた理由を知って、納得をした。なんとなく、この銃を見せたかった兵隊さんの必死さが伝わってきて、心情を察した。改めて、私は、この度のインド訪問の大切さを噛み締めた。数は問題ではないが、我々が来たことで帰国できる兵隊さんがおられることの事実。この点を非常に大切にしたいと思った。

ロトバチン慰霊碑前にて


戦史ガイドのアランバム氏と47mm砲 大阪製造と刻印。大阪城三の丸にあった工場で作られたもの。


レッドヒル 赤土の丘

日本の桜だろうか

ロトバチンを後にすると、このような風景が車窓から見える。平原、山。身の隠しようが無さそうな風景が広がる。


この後は、現地の古老宅を訪問。日本の兵隊がやってきた話をして下さいました。が、既にレッドヒルで合流した安心感からか、それほど古老の話が耳に入って来ることがなかった。私の優先順位は、日本へ帰国したい兵隊さんに一人でも多く会い、日本へ帰国するお手伝いをしたいということなんだろうと再確認した。この後は、野戦病院があったとされるサドへ行ったが、何故だか何も感じることがなかった。珍しいケースだったが、これが特に重要視される必要はない。帰国を願う魂が存在しなければ、それはそれで良しと考えるだけで良かった。


古老宅へ訪問。33師団弓兵団の当時のお話をしてくださった。

お世話になった古老の御主人に御礼を渡す。手袋です。


車はインパール市内へ向かって走り出し、途中、チャンドラボース博物館なる場所へ訪れることになった。その頃だったか、その前だったか既に記憶があやふやだが、「早くこちらに来て欲しい」と何度も強い思念を私にぶつけてくる存在が現れ始めていた。「おそらく、サンシャーク方面であろうな。」と思いつつも、今すぐそちらへ向かうことは出来ないし、私自身もインパールのホテルへ行き、休みたい気持ちでいっぱいだった。日本からインパールまでの道程が結構こたえていたに違いなかった。



チャンドラボース博物館

ロクタク湖を見ながら、アフタヌーンティーを頂く。現地の野菜の天ぷらを食した。若干、胡椒が効いている。美味しいが日本の天ぷらとは違う。


博物館見学後、途中、ロクタク湖の見える高台にある場所でコーヒーと現地の野菜の天ぷらを頂きながら、休憩をさせて頂いた。景色も良かったが、ゆっくりと出来る時間を持ちたかったので、ちょうど息を抜くことが出来た。インパールへ到着し、南方面へ来ただけで、いくつかのビジョンが私の中に飛び込んできた。燃え盛る炎を見たりもした。戦争当時なら当然のごとく見られる映像であって、きっと特に珍しいものではないのだろう。ただ、そういったビジョンは私に兵隊さんと出来る限り落合い、帰国させてあげたいという思いに集中させる材料となる他はなかった。

ティーを飲みながら、こちらの本に、今回お世話になっている戦史ガイドのアランバム氏が出ていると紹介して頂く。


美味しいコーヒーで一服した後、インパール市内のホテルへ移動した。立派なホテルで、私が想像していたホテルよりも良かった。正直、インパールには良いホテルは無いという覚悟で来ていましたので、嬉しい限りであった。

非常に清潔でインパールで宿泊するホテルとしてお勧め。クラッシックグランデホテル


ディナーはホテルに取る。マニプール州料理。私は残念ながら、白米のみ。辛いので、お腹が弱い人は無理をしない方がいいが、妻と北海道のF氏は非常に美味しそうに食事を愉しんでいた。個人差がありますので、ご自身で確かめてください。

美味しそうではある。


ホテルにチェックイン後は、ホテルで夕食。ご当地グルメと言いましょうか、マニプール料理を食べることになった。正直、私の口には合わず、私の妻と北海道のF氏が、マニプール料理を楽しむ姿を見て、羨ましくも感じた。「どこでもタフだな・・・。」とジッと見つめるのであった。この2名はインドのどこでも生きていけそうだった。。。苦笑。

 この後は、部屋に戻り、ゆっくりさせて頂いた。部屋のシャワーはとても熱いお湯が出るので、背中の中心にずっと熱いお湯をあてていた。「インパールで打たせ湯だ。フフフ。」これだけで、 体調の良くない私は元気を充電した。


ホテル内水回り 右側にシャワー室が隠れている。湯量・温度 言うことなし。

インパールで2泊したホテル。


次の日は、センマイ・カングラトンビ、ミッションへ。ここは妻が行きたいと行っていた場所でした。私は、既に意識がサンシャークへ強く向き始めていたため、とばしたい気持ちがあったが、妻の意向を汲まないといけないという気持ちから、北海道のF氏がサンシャーク方面へ先に行きましょうかという提案をお断り致しました。が、この時、私の優先順位と、F氏の優先順位が同じであると思える一瞬であった。きっと、F氏も兵隊さんたちに帰還して頂き、成仏する手助けをしたい気持ちでいっぱいなんだなと思った。些細なことかもしれませんが、嬉しく、胸が熱くなった。

10:12月25日 クリスマス

 妻が日本を発つ前に行きたいと言っていた場所がカングラトンビ・ミッション方面でした。正直、私の意識はサンシャーク方面へ向いていたので、ここは妻の意識の向かう処という感覚で尊重した。過去ずっと、英霊の依頼を受けてきた妻の実績を考えると、きっと、妻側に強く現れる見えない縁・繋がりなんだと理解するように務めた。

 初めに訪れた場所は、セグマイと呼ばれる場所でした。インパール市内から北方面で30分車で移動した場所でした。そこで、F氏は英霊供養のため、煙草に火をつけていた。この後は、点々と車を止め、カングラトンビで妻が反応していた。きっと、彼女には兵隊さんを見えていたのだろう。ここは妻に任せ、私は体力温存と言う意味で休ませてもらうことにした。今回は何故か疲労感がひどい。妻も情緒不安定になっていた感が否めなかった。

 私は、前回の英霊の依頼から、朝の散歩が旅の日課になり、とても重要になっていた。心身をリセットし朝の陽エネルギーを充電することを心掛けるようにしていた。これだけでも、疲労感を回復するために、今回、ずいぶん助けられたような気がしていた。

  セグマイ 中央右側に小川が見える。この川を挟んで左側に連合軍陣地があり、小川右側より日本軍が攻め入ってきたようです。

インパール作戦時、この橋を日本軍が渡ったようです。


当時の写真と並べて教えてくれるアランバム氏


セクマイと書かれた看板。発電所のようですね。


次に訪れたのは、ミッション。ここでも清々しく何も感じなかった。しかしながら、当時は重要な戦地周辺。ここで英霊供養のため、食事を用意することとなった。味噌汁・柿・煙草・線香・花・蝋燭。味噌汁を作ると、兵隊さんたちが寄ってきた。何も感じなかった場所に味噌汁の匂いで呼び寄せられたことに気が付いた。嘘みたいな話だが、こういう方法もあるということを知った。あちら側の山から兵隊さんの存在を無数感じた。全ては無理だなと正直思ったが、この英霊からの帰還依頼を続けてほしいという思念を受け取った。兵隊さんの誰かが、私の心を見透かしているのだろうか。実は、私は、11回目の英霊の依頼の実行を決意するのに、少し迷ったというか、辞めることを一時、決めていた。きっと、そのことを言いたかったのだろう。どちらにしても、今回もしっかりと最後までやり通すことを誓った。


味噌汁・柿・水・日本菓子・煙草・献花

当時、日本軍が奪い使用していたらしい。上記地図の一軒家かな?

ミッション 当時の橋の一部分がまだ残っている。

烈 宮崎支隊がコヒマ・インパール道の遮断を図った場所?


ミッションからインパール市内へ再び帰ってきた。ここでインドのスパイスティーを頂き、その後は、アランバム氏自宅にあるインパール作戦戦争博物館へ伺った。連合軍側が使用していたと思われるバイクの残骸が1階に置いてあった。戦争博物館は建物の2階にあり、階段を上がった。部屋に入ると、ムワッと見えない存在の圧のようなものを感じた。

 「誰かいるな。」

 しばらくすると、アランバム氏は、新聞紙に包まれた靴のソールを見せてくれた。妻はそれに反応し、この靴のソールについた土を日本へ持って帰って欲しいというメッセージを受け取ったらしい。すると、F氏がそのソールに着いた土を頂いていいかとアランバム氏に確認し、紙の上に落とし集め始めた。それをくるみ、私が持参していたジップロックに丁寧に入れ、持ち帰ることにした。

 「これ、F氏に預かって持って帰ってもらって。」妻が私に手渡した。

 一瞬、F氏を見るが、そのまま、私のリュックの中にしまうことにした。

 後程、F氏にこの話をすると、なんとも言えない表情をして、「私が持って帰っても、何もできませんし。」と困った顔で答えていた。

 この後、アランバム氏の自宅でティーを頂いた。奥様もインド人っぽくなく、とてもお綺麗な方でした。そして、一番驚いたことは、今回、予定しているカムジョン出身の方であった。私は、訪問地をどこにしますか?とインド人R氏に聞かれた時にこのカムジョンを付け加えていた。ですので、サンシャーク・ウクルル・コヒマの訪問予定地にカムジョンもお願いしますと言っていました。このような展開は前回のカロウでも同じで、我々が行く必要のある場所の方を目印として示し、御縁を結んで頂いているような気がした。気のせいだとは思うが。


博物館内の様子

インパール戦争博物館。 アランバム氏とご友人で作った博物館。

12月25日 本日伺った場所が、インパール市内より北上する道(インパール・コヒマ道)沿いにあるセグマイ、カングラトンビ。地図には出ていないが、カングラトンビよりさらに北上した場所がミッション。


日本国とマニプール州 友好親善のために貢献しているアランバム氏に駐インド日本大使より表彰状を授与されたらしい。

サンシャークで見つかった靴底。


靴底と共に見つかったボタンや腕章(星)


アランバム氏の自宅からホテルに戻る際に、ホテルの中にある中華レストランに立ち寄ることになった。途中、北海道のF氏がATMに寄った際にクレジットカードを紛失し、かなり焦りましたが、既に移動した場所から、再び、ATMに寄った場所に車で戻ると、道路にF氏のクレジットカードを発見。F氏の読み通りで、やはり、車に乗る際に落としたようでした。落としたことは不運だが、見つかったことは、最高のラッキーだったと言える。

この後は、レストランで美味しい中華を頂き、お腹を満たし、ホテルに戻ることとなった。次の日は、いよいよサンシャーク。早めに就寝し、英気を養うことにした。


焼き飯とその左の肉団子のようなものを食べた。特に肉団子のようなものが、非常に美味しかった。


12:いざ、サンシャークへ

 この日の予定は、サンシャークで宿泊だが、カムジョンまで足を運ぶことになっていた。しかしながら、3人共に、お寺で現地の土地神様にご挨拶をしてから向かおうかと意見が一致し、アランバム氏へ今日の目的地に行く途中で立ち寄れるお寺に寄って頂くことにした。すると、境内には鳥の姿をした神様が祭ってあり、私を非常に驚かせた。「日本で見た鳥の神様だ・・・。サンシャーク周辺の山々の上空を旋回していたあのガルーダのような鳥の神様。奇遇だろうが何かそうでないような気もするな。」と思った。この鳥の神様がサンシャーク周辺の山々を旋回した後、荒くれた未浄化な霊魂が落ち着きを取り戻し、我々が迎えに行く準備を整えられたように感じた。そのことを、日本を発つまでの間、仕事が多忙で、忘れがちになっていたことを、改めてこのお寺で思い出させてくれた。そして、お寺の儀式のようなものを受けた後、我々の周囲が清められたかのようにピーンと整えられたような空気が存在していた。やはり、現地の土地神様にご挨拶をするという習慣は、単なるルーティーンだけではなく、とても重要なことではないのかと改めて認識することとなった。心の中で、そっと手を合わせた。


日本で見た鳥の神様が左側にいた。びっくりだ。

偶然にしても、ここにも鳥の神様が。


現地の神様にご挨拶及び拝礼をして、この先を向かう。

お寺の従者?このロープを引き、寺のベルを鳴らす。鐘の音と共に、改めて、この地に未だに残る魂を日本へ帰る許可を頂いたような気がしました。


左の建物の上にベルがある。右下の男性が紐を引き、ベルを鳴らす。

現地の神様に旅の安全と目的の成功を祈願する。


お寺を後にして、サンシャークへ向かい始めた。風景がどんどん田舎っぽくなっていった。「山間部は危険ではないだろうか。」不安がよぎりながらも、昼食で訪れた村を見る限り、人々の人柄の良さを肌で感じ始めていた。ちなみに昼食はとても辛く、白いご飯しか食べれなかった。「これで良い。無理は禁物だ。」と思った。

右へ行けばウクルル。左に行けばサンシャーク。正面の道を行けばインパール。インパール作戦当時、多くの日本の兵隊がこの道を徒歩で通った。


しばらく、荒くれた道を走った後、ウクルルとサンシャークとインパールへ別れる三又路へ到着した。「ここが、本で読んだあの三又路か。」と感慨深い気持ちになりながらも、すっかり車酔いしていて、頭痛で頭が割れそうになっていた。


カムジョンまで59kmと表示されている。目的地の一つ。


この後、それほど時間がかからずして、サンシャークへ到着した。

インド インパールへ入ってからの動き

  1日目:インパール空港→レッドヒル→ライナマイ→サド→インパール ホテル宿泊

  2日目:インパール→セグマイ→カングラトンビ→ミッション→戦争博物館→インパール

  3日目:インパール市内お寺→サンシャーク 宿泊

  4日目:サンシャーク→カムジョン→ウクルル

  5日目:ウクルル→コヒマ

  6日目:コヒマ周辺

  7日目:コヒマ→ディマプール空港→カルカッタ空港

  8日目:カルカッタ→タイ王国バンコク→日本


12:サンシャーク

 我々の乗った2台の4輪駆動車はサンシャーク村に沿った道路のある一角のカーブで止まった。その前には食料品店が並んでいた。

車を下りると、兵隊さんの存在を村のどこかに感じることになった。こっちに思念を送っている。すると、ある場所に意識が向いた。「あそこで待っている」とわかった。が、アランバム氏や村人は、反対方向である村の家に招待された。 一服をさせるためだとわかった。数名の村人がそこに現れ、皆さん、ご家族のようでした。その中に英語とコミュニケーションが達者な女性がいて、間断なく我々に話しかけてきた。椅子を用意され、コーヒーを差し出される。

陽射しの良い場所でコーヒーを差し出された。アランバム氏の知り合いか。村人がずらりと座り、1人の女性がホスピタリティ溢れる会話を続けた。


そんな中、我々が反対方向の家に向かったので、一人の兵隊が我々を迎えに来てくれた。彼は眼鏡をかけていて、賢そうな顔だちであった。我々が村人の女性と長々と話し始めると、その兵隊さんがイライラとした感情で私に早く来て欲しいと思念を送ってきた。しかしながら、我々の前に座り、懸命にもてなしてくれているこの村人を無視して、私はどうしても立ち去ることが出来なかった。そんな状態が、数分続いた後、先ほどまで私に 「早く来てください。皆が待っています。」と思念を送り続けていた若い兵隊さんの姿がどこかに消えてしまった。

 「しまった。どこかへ消えてしまった。」

私は後悔したが、どうすることも出来なかった。

 この後、道路へ戻り、村人がサンシャーク頂上付近の戦跡付近を案内してくれることになった。が、私は申し訳なかったが、そんな説明はどうでも良かった。あくまでここに来た目的は、兵隊さんたちと合流して、日本へ共に帰国することだったからだ。私は自責の念に苛まれた。

 村人が案内して下さった場所で、いろいろと説明をし始めた。私は、その説明が全く耳に入らず、ただただ兵隊の姿を探した。が、そこに先ほど来た若い兵隊の姿は無かった。

 「どうした。どこにいるんだ。」と何度も私なりにこのサンシャークのどこかにいるであろう兵隊さんにメッセージを送った。

 結局、村人に連れてこられた場所では、見つけることができず、サンシャークで車を止めた場所から見ていた高台へ向かって頂くようにアランバム氏に話した。すると、アランバム氏は、我々をそこの場所へ連れて行ってくれた。村人からは、あの高台にある教会は比較的新しいもので、あそこは違うと話しかけてきた。が、そんなことは問題ではなかった。兵隊さんがそこにいるかいないかが重要であって、何々がそこにあったから、そこ以外は関係ないというのは、過去の経験上、どうでもいいことであった。ただ、こういう状況でつらいのは、それを説明するだけの時間を取れないということで、失礼に当たる可能性が非常に高いということだけだった。気分を悪くされた村の古老には、本当に悪いことをしたと今でも思っている。


サンジャックの頂きの一角から下を眺める我々。


左下の道でカーブになっているところで到着時、駐車した。


いなくなった兵隊さんを探す我々。ガイド・ドライバー・村人が付いて下さったり、道案内してくださっている。すごくたいそうな大名行列みたいで、改めて見ると恥ずかしい。


当時の戦車の甲板らしいが、よくわからない。


この部分が見分けるポイントらしい。


サンシャーク高地をくまなく北海道のF氏と歩いていると、ある場所に兵隊さんの思念を強く感じた場所があり、それをF氏にお話した。が、何故だか、そこに兵隊さんの姿は無かった。F氏に「この周囲で兵隊さんの思念を感じるんですが。。。」と言うに留まり、その場所を過ぎ、歩き続けることになった。しかし、その時、私はある場所で「あれっ」と思う場所に気が付いていた。「この場所って、日本で見ていた風景に似ているな」と瞬間的に思ったのだが、私はやはり立ち止まることはなく、兵隊の姿のみに意識を向けることとなった。多分、そのせいで、風景に注意が留まらなかったのだと、今は思う。

 この後、再び、高台の場所へ向かって歩いていると、村の人が「奥さんが兵隊さんの待つ場所を見つけましたよ。」と声をかけてくれました。そこへF氏と向かうと、私が兵隊さんの思念を感じると先ほど話していた場所でした。妻と合流し、彼女の話を聞くと、「ここだ」と指さしてくれました。私は、その場所に立ち、上を見上げると、「あー、そうだ。ここだ。日本で頭部を撃たれた時の映像と同じ風景だ。」と場所確認が出来た。左側から上がれるし、でも、右側にも高台に上がれる道があって、その時、頭部を撃ち抜かれ倒れた兵隊さんが右側からあがるかどうかを一瞬考えていたという死ぬ直前の思い出?を知ることとなった。今回は、妻が見つけた。これも良しと私は心から思った。目的は、合流し、日本へ帰還することだから。本当に良かったと思った。


日本で見ていた風景そのものだった。ここで撃たれ、亡くなった兵隊さんが、日本への帰還依頼をお願いしに来た。相変わらず、すごいと思う。ほんとにあるんだから。


この木の辺りで背後に倒れたはずです。

さっそく、F氏はアランバム氏に、今回の旅に持参していた日本の各々の故郷の食べ物をここで供物として捧げたい旨を話した。すると、アランバム氏他、皆でガスコンロ・水・机を持ってきて、用意して頂き、その場所で大きな木の前の平らな場所を見つけ、お湯を沸かし始めた。味噌汁、緑茶、御菓子、どら焼きなど、様々な食べ物がF氏の手で用意されていった。私は何も手伝うことが出来なかったが、F氏の誠心誠意・愛情のこもった行為でより一層、兵隊さん達の魂に英気を取り戻し、日本へ帰るための力を十分取り戻して欲しいと祈念するばかりであった。

 そこに集まった我々、アランバム氏と若いドライバー、そして、村の人々が兵隊さんたちの成仏を願い、その場に立ち会ってくれました。これにて、日本で見た場所へ到着し、我々に合流、共に日本へ帰還することとなった。

 F氏がどのくらいの人数ですか?と聞いていましたが、私の感覚では何百というよりは数十人以上という印象でした。嫁はたくさん見えたと言っていましたが、具体的な数字を聞くことはなかった。おそらく、霊能者と呼ばれる人たちに聞いても同じ答えだろうと思う。ちなみに私は普通の人だと思っているので、特別な能力を持った人間で無い事を改めてここに述べておきたいと思う。ただ、未浄化な霊魂の間では噂になっている男の一人ではあるということだけは、兵隊の幽霊に聞いた話なのでそうなのだろうと思う。今となっては、F氏も噂になっているかもしれませんが。

お酒、お水、日本菓子、味噌汁、緑茶、納豆汁

兵隊さんへ精一杯の我々の気持ちです。日本の僅かばかりのお供えもの。F氏が用意した。


 F氏がどのくらいの人数ですか?と聞いていましたが、私の感覚では何百というよりは数十人以上という印象でした。嫁はたくさん見えたと言っていましたが、具体的な数字を聞くことはなかった。おそらく、霊能者と呼ばれる人たちに聞いても同じ答えだろうと思う。ちなみに私は普通の人だと思っているので、特別な能力を持った人間で無い事を改めてここに述べておきたいと思う。ただ、未浄化な霊魂の間では噂になっている男の一人ではあるということだけは、兵隊の幽霊に聞いた話なのでそうなのだろうと思う。今となっては、F氏も噂になっているかもしれませんが。

 この後、サンシャークで宿泊することになるのだが、どこで宿泊するのかさっぱりわからなかった。ひょっとしたら、サンシャークに到着した時にコーヒーを呼ばれたあの建物付近なのかとあれこれ想像していた。夕方、サンシャーク村はバレーボール大会で賑わっていた。アランバム氏は、スポーツ観戦を愉しんでくれと言って、気が付けば、どこかに消えていった。何でも、今晩宿泊する宿を確認するのだとか。しばらくすると、宿に移動しようということで徒歩で行くことになった。向かった先はサンシャークの高台の方向だった。


サンシャークの村人達はバレーボール大会に興じていた。喉かで昔懐かしい風景でした。


14:教会の宿泊所

 徒歩ですぐに辿りついた場所は、なんと教会の施設だった。しかも、3人部屋ということだった。そんなことはどうでも良いのだが、私はこの宿泊所の位置が気になった。トイレだという場所を紹介される。その先はサンシャークの山際になっていて、確か、左下の方で兵隊さんが亡くなった場所のはず・・・。しかも、兵隊さんの思念を一帯に感じた場所。距離にして、30メートルくらいかな?思わず、息を呑んだ。

この道を上がり切った場所に立つ木造平屋が我々の寝所。目と鼻の先であった。

左の建物が寝所。奥の平屋に囲炉裏・台所・ダイニングテーブル。右奥にトイレ。

教会で用意してくださった寝床。とても綺麗な部屋でした。


囲炉裏の周囲で暖を取る。朝番は冷え込む。

右が調理場


ダイニングテーブルがあり、座席も多い。

黒豆入り餅の匂いがしてきた。

干し魚

兵隊さんの為、影膳が用意される。焼き魚と御餅に海苔を巻いたもの。緑茶も用意された。北海道のF氏が全てご用意された。


「こんなことになるとは・・・。彼ら英霊の近くで、今夜は睡眠なのか。」とその奇遇さに驚いた。というか、「今晩、大丈夫かな?」と冗談に近いようなこの宿泊所の位置に私は唖然とした。これは仕組まれたのか?と何度も自問自答した。

 しかしながら、その山際の横の建物は食堂であり、囲炉裏があった。ここで炊事をし、暖を取る場所であった。今日、会った村人たちも来て、話が弾んでいた。私はお疲れさまで、何でもいいから早く寝たい気分でもあった。

 そんな中、F氏はお餅を用意して、その囲炉裏で焼餅を作り、海苔を巻き始めた。なんというおいしそうな香り。しかも、醤油で味付け。さらに魚まで焼き始め、私の口の中は、生唾でいっぱいになってしまった。

 「F氏、まさか寝床に兵隊さんの幽霊をたくさん招待したいわけではないですよね?」と聞きたくなった。が、そんな冗談が言えないくらい、ご本人は一生懸命、兵隊さんのために手を尽くし、真心のこもった磯辺焼きをこしらえ、焼き魚も皿にご用意されていた。英霊の依頼を受け始めて一番のご馳走だったに違いない。

 この後、ダイニングテーブルの上に磯辺焼きと魚を置き、影膳として、用意した。F氏の英霊に対する思いがヒシヒシと伝わってきた。

 この後、部屋に戻り、寛げる服装に着替え、話をした。F氏が英霊の依頼に携わることで起きた事象の一つを丁寧に話した。

 この後は、私の妻も加わり、3人で寝る。兵隊さんと合流した場所から30m強先の部屋で。

15:2017年12月27日 サンシャークの朝

 朝、現地時間の6時前に起床した。日本との時差は3時間半。日本時間でいうと、朝の9時半前。目が覚めているのも当然だった。部屋の外に出て、辺りを見渡す。村の人たちは、朝から水をどこかで汲み、自分たちの住まいへ黙々と運んでいた。天気の良い日で陽射しが目に差し込んできた。その日も、快晴である。サンシャークよりも、さらに奥にあるカムジョンへ向かい、その後は、再び、サンシャークへ戻り、そのまま、元来た三又路をウクルル方面へ向かう。そこで宿を取ることになっていた。

 夜は特に問題はなく、我々は熟睡していた。一度、トイレに起き、F氏と共に行ったぐらいでした。

 私は少し早めに起床し、先に部屋の外に出ていた。すると、程なく、F氏が、出てこられ、共に、サンシャーク高地をインパール方面に向かって歩き始めた。

宿泊した教会から朝の散策風景になります。


インド インパールに入ってから、毎朝6時から1時間ほど散歩を続けていた。この日もサンシャーク高地周辺を散策。

サンシャークの朝日 朝、空気はひんやりとしているが、朝日が暖かい。


目的地は、昨日、私がサンシャークで車から出て、指を差した方向でした。昨日のおさらいをしながら、南へ歩いていく。比較的新しい教会と言われる場所へ到着した。教会の前は開けていて、広場があった。カムジョン方面から良い朝日で我々を照らしてくれた。私は、まとまった兵隊さんの気配を感じ始めていた。やはり、ここに多くの兵隊さんが集まり、迎えに来てくれることを待っていたとわかった。日の光が一段と増す。いつもながら、私があれこれ、ジタバタする必要はなかった。時と場所は、私でない存在が用意していて、そして、それに従って、兵隊さんたちが現れ、合流し、そして、各々の選択の元、浄化していくのを肌で感じた。間違いはなかった。ただ、昨日は、私の処へ思念を送り続けてくれた方の亡くなった場所を教えて下さったに過ぎず、ご挨拶は、ここだったのだと思った。御礼ではなく、兵隊さん達の満足感が伝わってきた。私は素直に喜び、彼らの浄化を祈念した。「日本へ帰りましょう。」私が彼らに添えた言葉でした。

 この後は、改めて昨日、妻が見つけた場所であり、私が日本で見たビジョンの場所へ再び伺った。そこから、我々が寝ていた部屋に向かって、山際を道に沿って左側へ上がって行く。すると、部屋の背後にちょうど出てきた。やはり、銃で倒れた兵隊さんが、向かっていた方向で、命を落とさず、真っ直ぐサンシャーク高地で上がってこられれば、我々の部屋の背後に来ていた。そんな場所で寝ることが出来た私は、嬉しく感じるのでした。

朝のサンシャーク散策を終え、囲炉裏・台所のある建物へ移動し朝食を取った。卵を落としたラーメンでした。妙に美味しく、朝から3杯食べてしまった。あまり食べないようにして、トイレの回数を減らさなくては決めていたはずだったのですが、ついつい、食べてしまった。おそらく、昨日から、大した量の食事をしていなかったためだと思った。今日は、仕方ないかと思いながら、箸を止めることが出来なかった。


教会での朝食。アランバム氏がラーメンを用意して下さった。インドではラーメンもカレー味が基本のようです。

煮卵、バナナ、カレーラーメン卵入り

朝のダイニング。サンシャーク教会


それから、今日、慰霊で使うお米を炊いて頂く準備をし始めた。炊飯器も宿泊所の台所にあり、今日の為に用意されているような気にさせられた。お米はF氏が日本からご用意して下さった高知米。この教会の現在のオーナー夫婦のである奥様が、お米を炊いて下さった。水は少な目にすると、うまく柔らかいお米が出来上がった。F氏とダイニングテーブルの上におにぎりを作る準備を整える。和歌山産の梅干し、秋田産の干沢庵、静岡産鰹節、そして、佐賀県糸島産塩とテーブルに並び、さっそくおにぎりを握る用意が、炊けたご飯と共に出来た。すると、ここで、F氏が日の丸弁当にしましょうか?と急に提案をした。「誰が言っているんですか?」と頓珍漢な質問をF氏に聞いていた。が、サンシャークからカムジョン方面もしくは周辺で命を落とした兵隊さんたちが日章旗を弁当の中で表現したかったのかと、F氏の答えを聞く前に想像していた。これは、あくまで、私の勝手な想像に過ぎませんが・・・、とにかく、お互い、狐に包まれたような瞬間を体験した。

 名案はすぐに採され、まるで、そのいう手筈になっていたかのようなプラスティック製の小さな弁当箱が4つテーブルに並び、日の丸弁当が目の前に現れた。「おにぎりを握るといっていたのに、なんでまたこのような箱をF氏は用意していたんだろう。」とまた思った。弁当中央に梅干し。そして、沢庵・醤油入り鰹節をお米の上に乗せた。

 「このサンシャークでこれほど贅沢な日本のお弁当を用意できるとは。これほどの奇跡はないな。」と改めて思った。ただただ出来過ぎた流れに目に見えない意思・段取りの存在を朝から感じていた。おそらく、F氏も何かを感じたのではないだろうか。

 残ったご飯はおにぎりにした。ここでは、妻が持ってきていたおにぎりを作るための容器が役に立つ。誰が何を言わなくても、全てが抜け目なく、用意されていった。これ以上の日本食を、このサンシャークで準備出来ないと私は思った。出来上がった弁当、おにぎりを今日の訪問地であるカムジョンへ届けることになった。確か、インパール作戦に参加した烈兵団・祭兵団の退却路であるこのコヒマから、インパール手前からトンヘに抜ける道には、糧秣が用意されておらず、退却する兵隊さん達の期待をことごとく裏切っていた史実を思い起こしていた。となると、このF氏がご用意してくださった日本食はそれに応えられるものになりうるだろうと思った。本当に我々の真心がこもった最高の日本食をこのルートへ届けることが出来ると私共は確信していた。

カムジョンへ向けての準備は万端となった。日の丸弁当とおにぎり。米も高知県産の日本米。梅干しは和歌山産。鰹節は静岡県産。塩は佐賀県糸島産。沢庵は秋田県産。糧秣で苦しんだ兵隊さんへ届ける。


 準備の出来た我々は、各々のスーツケースを車に載せ、早めの出発をすることにした。サンシャークでお世話になった人々と記念撮影。中には、インパールのアランバム氏の博物館にあった兵隊さんの靴のソールを見つけた若い村人もいた。御礼をよく言って、村人たちとお別れをした。

サンシャーク村の人々。とても陽気で心の優しい方々でした。ありがとうございました。

彼がサンシャークで、靴底と襟章を見つけた男性です。職業はカメラマンだそうです。年末で皆さん村に戻られていた。村は陽気な雰囲気に包まれていて、笑顔が絶えない。我々にとっては、サンシャークは僻地ですき


さっそく、カムジョンへ向かうため、サンシャーク高地から下り、カムジョンへ向かう道に出た。村を背に我々は、ガイドのアランバム氏の奥様の出身地でもあるカムジョンへ奇遇の連続を辿りながら向かった。(現地時間9時出発)

16:2017年12月27日 カムジョン

 カムジョンまでの道のりは、道路の状態も思っていた以上に悪くなく、舗装はされていた。相変わらず、カーブも多く、すぐに頭が痛くなり、頭痛薬を妻にもらい、飲んだ。これだけでも、ずいぶん、車酔いに効果があった。そのおかげで助手席に座るF氏と会話を楽しんだ。

サンシャークからカムジョンへ行く途中、地図の場所付近で車を止める。サンシャーク方面を見ますが、2本の稜線の後ろ側の上にサンシャークの村が見える。

ビデオにて撮影。天気がよくサンシャークの村がよくみえている。


スマホ写真だとこのような感じになります。

カムジョンへの道は舗装が綺麗で意外と走りやすい。その分、カーブが多いので車酔いが激しくなる。サンシャークからカムジョンまで2時間ほどで着くが、かなり搭乗者・ドライバー共にきつい道のりになる。


おおよそ2時間ほどのドライブでカムジョンの村への入口へ到着。何故だかインド軍兵士が検問を設け、アランバム氏が入村許可を頂いているようでした。少々、おっかない気持ちになったが、F氏が若いインド軍兵士と楽しく話をし始め、兵士の笑顔が見れたので、私の心に安堵感をもたらした。

 ここからはフミネまでは49kmらしいが、やはり、そこまでは行けないらしかった。道が悪いと言っていたので、おそらく、行けないことは覚悟していた。カムジョンの村は思っていたよりもメイン通りが賑わっており、小さいながらも活気と陽気さに満ちていた。アランバム氏の親類宅前で少し車を止め、休憩。恐らく、食事の段取りを頼んでいたではないだろうかと後になって思った。


googlemapがキャリア無で正確に我々の位置を示している。不思議な現象でした。自国は10時前。2時間でサンシャークからカムジョンへ来れた。


ウクルルの中のカムジョン地域ということでしょうか? 


カムジョン村のメイン道路。雑貨屋がいくつかある。


カムジョン過ぎての三又路。ここで車を止めた。


 車はカムジョンの村を抜け、走り出した。F氏と話をしていると、急に声が聞こえてきた。兵隊さんだった。「ワトソンさま、ここまで来て下さりありがとうございます。」という言葉だった。突然だったので、F氏に話しかけていた私は急に閉口してしまい、会話を止めた。

 

 「どうする?」と悩んでいると、車は三又路へ出て、すぐに車を止め、そこで慰霊をするようにアランバム氏が提案してくれた。なんというタイミングなんだろうかと思わず、笑みがこぼれた。

テーブルを用意し、お湯を沸かす。味噌汁を添えながら、サンシャークで準備した日の丸弁当、緑茶、おにぎり、日本の御菓子などが並べられた。線香に火をつけ、蝋燭を立てた。F氏は鯨兵団が口ずさんでいたと言われる「南国土佐を後にして」という音楽をこの場所で流し始めた。当時、塩も無かったということで、私は塩を退却路である道に供えた。そして、その塩で光という文字を作った。兵隊さんたちが一日も早く、光の世界へ戻って欲しいという願いを込めたかったからだ。兵隊さんが集まってこられ、私に心の内を伝えてきた。悔しい無念の気持ちが彼らの中には当時あった。自国に対する不信感に包まれた複雑な思い。言葉で十分、彼らの気持ちを表すことなど出来ようがなかった。どう説明したらいいものか。それほどの感情、そして無情さに、当時の兵隊さんたちはひどい状況にさらされたのだ。こんな時は彼らの言葉にならない悔しさ・無念さを受け止めることしか、私には出来なかった。どんな適格な言葉も彼らにかけることが出来ない。ただただ彼らの感情を知って、心の痛みを分かち合うことだけが重要だと思った。

 F氏がアランバム氏に聞いた処によると、ここの渓谷に狩りに行った際に日本の兵隊の叫び声を耳にすることがよくあるということだった。それも、複数の村人が聞いておられるということでした。ちょうど、私が兵隊さんの声を聞いた場所辺りにも多くの兵隊さんが村の人によって手厚く埋められということだった。村の人に対しても、感謝の念を持った。

再び、車はカムジョンの村を抜け、走り出した。F氏と話をしていると、急に声が聞こえてきた。兵隊さんだった。「Watsonさま、ここまで来て下さりありがとうございます。」という言葉だった。突然だったので、F氏に話しかけていた私は急に閉口してしまい、会話を止めた。

 「どうする?」と悩んでいると、車は三又路へ出て、すぐに車を止め、そこで慰霊をするようにアランバム氏が提案してくれた。なんというタイミングなんだろうかと思わず、笑みがこぼれた。

インパール作戦当時、イギリス軍・日本軍共に利用していた飲料水だそうです。雨季はこの場所は濁流となり、今ある小川は見る影も無くなるらしい。


大きな川もなく、こちらの小川で食べ物を流しました。容器は全て持ち帰りました。


我々の乗る車を運転するインド人ドライバー。手前の塹壕に連合軍側の兵隊が、身を隠し、日本兵の行軍を確認、警備に当たっていたらしい。(カムジョン)

サンシャークで作った日の丸弁当・水・日本酒、味噌汁・緑茶・日本の魚・煙草などなどとカムジョンへ届ける。烈部隊・祭部隊 共に糧秣が無かったが、何とか2017年12月27日、少なからず、届けることが出来た。

塹壕から見える景色


ズームイン。


我々は、カムジョンの村へ戻り、アランバム氏の親類宅(奥様のご実家)へ伺った。出来立てのお米の香りが鼻の中へ流れ込んできた。カレー・豚・豆煮など豪勢にテーブルに並んだが、どれも辛く私はお腹を壊しそうなものを回避した。しかしながら、頂けるものはしっかりと頂いた。お米は特に美味しかった。2杯食べたように思う。妻が横から無理をするなとつつかれた。確かにわかっていたが、せっかくもてなしてくださっているのに、そういうわけにもいかないだろうと、勢いに任せてたくさん食べてしまった。

カムジョンでの食事中、銃や刀剣を家長が見せてくれた。この辺では狩りが盛んに行われているようです。食べ物は見ての通りで、茹でキャベツをよく食べるようです。


この刀剣は家長の手作りとのこと。草木を切る鉈か動物をさばくためのものか。自然と共に生きる人々の貴重な生活道具と思われます。

我々が招かれた食事処には釜があり、薪をくべ、目の前で火を起こされていました。朝晩ならここで暖を取れるし、暖かい飲み物も頂けるだろう。釜の上には豚の燻製を干しているようでした。生活の知恵が詰まった空間がこの部屋にはありました。

白い米だけでも、香りからミネラルを感じれるような栄養満点の食事だったと思います。辛い物は、私は駄目でしたが、きっと、とても貴重な御食事をさせて頂いたのではないかと思います。これはF氏が皿に米とその上に乗せる料理をのせたものですが、辛いものが得意な方にとっては、至福の時間だったのではないでしょうか。私の妻も非常に喜んでいました。

ちなみに私のお皿は茹でキャベツと目玉焼き。そして、少しご飯にスープ等をのせましたが、やはり、辛さがきつかったです。水を何杯もおかわりしました。


辛さの元はこれでした。名前は忘れましたが、唐辛子より辛いです。大汗します。


左の家屋で食事を頂きました。その隣からは、良い景色を拝見することができます。とても天気の良い時期に来れたと思います。空気も澄んでいてとても美味しかった。


 この時点で午後2時前でした。来るのにかかった時間を考えると、今日の宿泊地ウクルルに到着するのは夜になるだろうと、現地を知らない私でも容易に予測できた。

 サンシャークへ向かって車が走り出す。相変わらず、カーブが多いのと、結構な速度で走るため、身体があちこちによじれる。私もそうだが、嫁もかなり疲労していた。

 2時間後サンシャークへ辿りついた。夕方であり、すぐに暗くなりそうな雰囲気でした。私は案の定、お腹を壊し、昨晩宿泊した教会へ行き、用を足した。再び、教会の神父ご夫妻に挨拶をした。奥様に「もう一晩泊まっていくかい?」と聞かれたが、ウクルルへ向かわなければいけないことを伝え、再び、神父ご夫妻と握手をして、その場を離れた。

 アランバム氏が、サンシャークを発つ前に個人建立の慰霊地を訪問してからウクルルへ行こうと提案してくださった。そこに行くと、87歳になる古老の男性が顔を出し、我々に近づいてきた。日本人と知るやいなや、我々を抱きしめた。なんでも、第15師団藤原岩一参謀から可愛がられていたらしい。当時、道案内や情報収集で重宝されていたのであろう。彼は、その参謀から頂いた何かを取りに家の中へ戻って行った。その間に慰霊碑に手を合わす。すると、再び、先ほどの古老が家の中から我々に向かってあるものを持って、姿を現した。

 「なんなんだ、このプレッシャーわ。」古老は軍刀を抜き、我々に向かって歩いてきた。まるで魂があるかのようなその軍刀が、私に目に見えない意思を感じさせ、私をたじろかせた。

「生きてる?わからんが、とてもつもく当時の勢いというか、本来の持ち主の魂がこもっている。」と思った。こういうものが存在しているんだなと腰を抜かした。この古老は家に来るように言われたが、時間もなく、残念ながら、この地を後にした。


第15師団 祭兵団の慰霊碑


立派な慰霊碑を建てられていた。あと何年で帰還兵は全てこの世を去ってしまうのだろう。その後は、どうなるのだろうと思ってしまう私がいた。


トップカバーって何だろう・・。日本軍のものらしい。

緊張しながら、持たせて頂きました。日本刀の重さを体感致しました。インパール作戦時、携行するだけでも、大変だったはず。

貴重な体験でした。

真ん中の赤い服を着た男性が藤原岩市参謀に可愛がられていた少年だったようです。道案内・諜報活動に寄与してくれた。日本刀を藤原参謀に頂いたという話を聞きました。


連合軍側のサンシャークの慰霊碑


慰霊碑の内容は英語です。


さらに1時間半後、無事ウクルルに闇夜の中到着し、ホテルにチェックイン。夕食はもう要らなかったので、そのまま部屋で休むこととなった。ここでもお湯にありつけ、暖かいシャワーを浴びることが出来た。が、妻が使う頃にはお湯が出ず、えらく睨まれた。そして、別の部屋のF氏もお湯が出ず、冷たい水でシャワーを浴びたそうだった。

 そう言えば、余談ですが、今回、山間部を移動している間、私のスマートフォンがずっと正確に場所を追跡していた。機内モードであることは確認していたが、アランバム氏の携帯でさえ、現地のキャリアを利用して、繋がらないことがあったようでした。私の使用しているキャリアをF氏を通して、聞いていたようでしたが、妻、F氏のWIFIに繋がっているわけでもないので、なんとも答えようが無かった。ただただ、機内モードで、GoogleMapだけが正確に我々の正確な位置と移動の様子を知らせてくれていました。F氏と冗談でキャリアは「英霊?」なんて話すぐらい、旅の終わりである12月31日までしっかりと働いていた。逆に山間部では妻やF氏のWIFIに繋ぐと曖昧な動きをし始め、やはり、キャリア無の方が、正確に我々の位置を教えてくれていた。


16:2017年12月28日 ウクルルからコヒマへ

 

 ウクルルの朝、F氏と共に毎日の日課である散歩から一日がスタートした。目に飛び込むウクルルの人々の姿が、とても健康的に見える。時折、我々に対する視線を感じながらも、それが、心地よく感じた。

 散歩から戻ると、宿の御主人が笑顔で挨拶をする。美味しいティーを用意して下さり、胃の中を優しく温めてくれる。我々はそのティーを持ち、テーブルにつき、談笑を楽しんだ。そのまま、朝食を用意して頂き、目玉焼きが各々3つお皿にのっていた。それを見て、子供のように嬉しくなった。F氏は醤油を部屋から持ってきて下さり、懐かしい日本の目玉焼きを味わっているようで、元気になった。


ウクルルの朝の散歩

左下の赤マルしたところが我々の滞在先でした。上空からのウクルル全景

朝からホテル前で作戦会議。ウクルルからインパールに戻って、インパール・コヒマ道を走ってコヒマへ向かうか、ウクルルから山道を走ってコヒマへショートカットで行くか。


ここ2日間、悪路が続いていた。そして、今日もかなりタフな移動となるだろう。妻の精神状態もそろそろ限界に近づいていたし、私自身も車酔いからくるひどい頭痛を避けるため、頭痛止めを用意した。車移動のことを考えると、少々気が滅入ったが、次の移動先のコヒマまでは、もう一日なんとしても、この悪路走行を耐え忍ぶしかない。条件は皆、同じ。このルートを取るしか、コヒマまで辿りつけないと覚悟を決めた。

 アランバム氏とドライバーがホテルに現れる。さすがにアランバム氏の表情から疲労は隠せないでいた。こういう時は、かける言葉は見つからないが、元気よく、相手が疲れないように普段通りを装うしかない。今日は、朝から、首狩り族の村を訪問し、その後、この村に置かれている日本軍がインパールに持ちこんだ47ミリ砲を見に行くことになっている。インド軍施設の門の前に置かれているとのことであった。



首狩り族の家に来ました。脳が解けると、頭蓋骨が小さくなるといった話をしていた。この写真はのせるべきか悩んだが、取りあえず・・・。悲しい民族間での争いだったと思います。今後、こういう争いが無くなりますように。


大阪製造の47mm砲をインド軍の門の前に大切に管理し、保管されていることにだけ感謝した。


一人のインド人兵士が一生懸命話してくれたが、インド英語が聞き取れなかった。あまり意味がわからなそうにしていたら、メモを書いて渡してくれました。彼の心根がすごく好きになりました。写真撮影は軍の規律のせいか、NGでした。が、彼の凛々しい顔は忘れません。


荷物を車に載せ、出発。程なく、首狩り族の村を訪問。建物の中を案内され、陳列棚に並ぶ頭蓋骨を拝見させて頂きました。この後は、インド軍施設の前に移動、到着し、許可を頂くためにアランバム氏が車を降り、ゲートを守る軍人と話をしている。が、少々、手こずっている様子がした。しばらくすると、軍施設の敷地内へ車が入り、インド軍人の姿を見ながら、車は奥へと進んでいった。どこかへ到着すると、車から降ろされ、何やら立派な建物内へ案内されることとなった。なんとなく、九州の久留米駐屯地に訪れた時の空気感を思い出した。軍施設の客間へ案内されると、なかなか凛々しいインド軍人からティーと御菓子を用意された。上品な飲み物・食べ物にインド軍人の美しい規律から出る雰囲気を感じる。その空気感を味わうことにした。すぐにこの軍施設のトップの方とみられる男性が現れた。服装は、軍人とは違い、ホワイトカラー感を存分に出していました。我々にも挨拶し、アランバム氏と何やら話をし始めた。アランバム氏の話術は、経験豊富で、トップと思われる軍関係者の方と巧みに笑顔を見せながら、彼に見合った物腰で会話を続けていた。我々3名は借りてきた猫状態。何のためにここにいるのかよくわからなかったが、この機会を活かして、インド軍人の気質を知ることにした。

 アランバム氏とそのトップの方との談笑が終わり、軍施設のゲートの前にある日本軍の47ミリ砲と拝見させて頂くことになった。良く見ると、刻印が彫られていて、北海道のF氏が、紙を当て、鉛筆でこすり始めた。どうも大阪で製造されたもののようでした。F氏によると、日本軍の砲をインド軍施設に置くのは、旧宗主国の英国に対するけん制の一つの可能性があるということでした。私は、「なるほど」と納得した。

 我々が砲の周囲にいた時、若いインド軍人がしかけてきた。何やら英語で、あれこれ立派な言葉を持ち出し、説明して下さっていましたが、私には頓珍漢でさっぱり理解できなかった。と言うか、インドの英語は癖があって、聞き取りが難しい。正直、昔から、インドの英語には苦手感があり、鼻から聞く気無しの態度が出てしまっていた。なんとかインド英語の聞き取りをレベルアップさせたいものだと思うのであった。

ここで、ウクルルでお世話になった観光関係の方と別れ、いよいよ、悪路を通り、コヒマへ向かうことになった。長時間の移動を考えると、頭痛がしてきた。F氏は悪路に強く、車酔いは全くないということでした。

 これからコヒマに向かう道は、アランバム氏も使用したことの無い道だという。他にあるルートと言えば、もう一度、来た道を戻り、インパール側からコヒマへ向かう主要道路を使うルートなのだが、それは、我々も含め、アランバム氏もその選択はしたくなかったようでした。地図を見れば、距離が短く、ショートカットをイメージさせる。が、実際に走り始めると、相当な悪路で、山際から道路に流れる水の影響で、道路が沼地のようになっていて、タイヤが滑り、左右に振り回されることが数度あった。その都度、我々3人は緊張感に包まれるのであった。 「本当に日本に帰れるのだろうか・・・。タイヤを取られて、がけ下に真っ逆さまということも可能性として十分過ぎるほどあるな・・・。」と運命をドライバーの腕に任せた。


ウクルルからショ―トカットして、コヒマへ向かう。その時の緊張の様子。


雨がふるとたいへんだろうとおもう。

英霊の依頼-インパール作戦に沿って-

「我々の処へ迎えに来てもらえませんか?日本に帰りたい」 我々家族の元に現れる日本兵とは第二次世界大戦インパール作戦で敗退し、亡くなった若い兵隊さんたちです ミャンマー、タイ王国、中国、インドと各々の呼ばれる場所へ訪問、合流し、帰国へ 2009年の秋 一人の兵隊から始まった日本への帰還依頼は、多くの帰国を願う兵隊たちに広がり 2025年12月 20回目の依頼を終えた。