第4回目 タイ王国 ターク県秘境へ 2013年 8月

帰国を願う日本兵たちを救う為に協力するタイ人たち


1:秘境の地 ゲンソーイ寺院


    2013年6月、再び日本の兵隊方から日本への帰還依頼の連絡を取ってきました。場所がタイ王国であることはわかりましたが、正確な位置まではわかりませんでした。妻は即座に2011年にミャンマーからタイ王国チェンマイ空港に戻ってきた後に出会った背の低いタイ人霊媒者Sさんに何故か連絡を取りました。すると、そちらにも日本の兵隊方が現れ、『場所がわかります』と伝えてきました。ミャンマーへ2年連続、足を運んでいた我々は、精神的にきつい合流場所の捜索が必要ないのでは?と思い、楽な展開に内心ホッとしました。しかし国際電話で場所を聞き始めると、これまでにない秘境であるという事がわかってきました。一番近い村は洪水で村自体が消滅し、日本の兵隊方の待つ場所に行くにはボートで川を下りながら、片道3時間から4時間ほど移動するようでした。理由は道路が無いという事でした。『そんな場所に行くの?』と思いながら、話を聞き進めると、川の下流にあるダムでは洪水対策として、水量(水位)調整のための放水がなされ、目的地周辺では水位が下がり、船着き場から目的地の場所に到着するまでには、ある程度の徒歩移動を余儀なくされるという事でした。水底が干上がった状態なので足場がしっかりしておらず、歩くのにも難儀するかもしれないので覚悟しておいて下さいとの連絡を受け、雲行きが怪しくなってきました。   


     まず初めに持ち上がった問題は1日では現地に辿り着くことが出来ないという事でした。チェンマイから出発すると4時間程は車を走らせないと、川の船着き場に辿り着く事が出来ず、更にその船着き場から目的地までは、川をボートで3~4時間の移動を余儀なくされるという事でした。一日かけて移動し、首尾よく移動出来ても現地に到着するのがやっとの事でしたので、一日で日本の兵隊方の待つ場所に行って帰って来るまでの位置で宿泊場所を見つけることが必要となりました。ところが、その付近はローカルエリアでホテルどころかゲストハウスといった宿泊施設も無い場所でした。 


     妻が諦めず調べていたのですが、ホテルがあっても、妻の実家よりは近いが結局、一日で目的地に行って帰ることの出来ない場所でしたので、途方に暮れていました。すると今回連絡を取り合っている霊媒者Sさんの御実家が船着き場から30分ほどの場所にあり、そこを宿代わりに提供して頂けるという事で問題が一つ解決していきました。御実家の方は、『我が家は田舎の家ですので、ホテルのような部屋が無い事をご理解願いたい』と連絡がありました。妻から、有難い話を聞かされ、お世話になることにしました。これで、一つ問題が解決し、徐々に道が開けてきました。 


    次に問題となったのは目的地までの交通手段。嘘みたいな話ですが、その場所に行くまでには道路が無く、本当にボートで川を移動して行くことしか出来ないという事でした。日本に居る間は半信半疑で聞いていましたが、現地に行くと本当だという事がよくわかりました。その目的地にはお寺があり、俗世間とは全く閉ざされた生活を送っているお坊様が数名おられるという事でした。それで現地までの道案内を名乗り出てくれたのが、今回連絡を密にしている霊媒者Sさんでした。彼女が道案内をしてくれるという事で私の中ではとても心強い存在となりました。他にも彼女の実家の村の女性が荷物持ちとして同行してくれる事になりました。その女性はアフリカ系の人のような風貌で何となく男らしいタフさを感じさせてくれる女性でした。そして、今回、この霊媒者Sさんを尊敬し慕っておられる2名の霊感のあるお坊様がお供をする事になり、妻を含め総勢6名での英霊の依頼と名付けた日本の兵隊方の帰還依頼活動を完遂するためのチームが出来上がりました。気が付けば大所帯になり、ずいぶんと頼もしいチーム編成となりました。しかも、お坊様2名・霊媒者Sさんは霊感が強いので、私のように霊感に長けていない人間にとっては有り難い存在でした。  


     我々がタイ王国入りする前のある日、その霊媒者Sさんは日本の兵隊方にまつわる話を村のお坊様から聞く事が出来たようでした。なんでもそのお坊様が子供の時に多くの日本の兵隊方がこの村にやって来たそうだ。以前、今は洪水で無くなった村にも日本の兵隊方が来て、筏で多くの物資を運んでいたようでした。そして、そのお坊様の兄弟・父親が物資を運ぶお手伝いをする事でお金を稼いでいたようでした。当時としては、現地の人にとっても日本の兵隊方にとっても、お互いに利がある関係だったようでした。そんなある日、物資を運んでいる筏がひっくり返り、日本の兵隊方が数名亡くなったようでした。村にとっては、ちょっとした事件でしたので、お坊様がまだ子供の時に耳にしていたようでした。そのお坊様の兄が日本の兵隊方の落としていった手榴弾を見つけ、蹴りながら遊んでいたら、突然爆発し、片足を失くしたそうです。その話を聞かされた時はなんとも申し訳ない気持ちになりましたが、そのお坊様は気にもしていないという事でした。     


 

2:2011年に出会ったタイの霊媒者Sさんと合流


    例年と同じく盆前に日本を発ち、タイ王国チェンマイ入りを果たしました。その年はミャンマーに行かなかったので、飛行機移動による時間的制約が無い分だけ気持ちに余裕がありました。チェンマイでは今回協力をしてくださる霊媒者Sさんと密に連絡を取る事が多く、あまり私自身が神経を尖らせる事はありませんでした。私が直接お話する事はなく、私はその打合せ等の内容を、妻を通して知ることになりました。正直、途中から妻の通訳が追いつかず、何が起こっているのかわからなかったので、お任せすることにしました。 タイ王国の妻の実家から、まずは霊媒者Sさんの御実家がある村へ車で移動を始めました。嫁の実家があるチェンマイ郊外から車で3時間程移動するのですが、妻は私がタイ王国に来るまでの間に何度か足を運んでいるようでしたので、道に迷いもせず霊媒者Sさんの御実家のある村に難なく到着することが出来ました。住宅街は主要道路に沿うように平行に裏道があり、その裏道に沿っていくつも家が立ち並んでいました。村にはお寺・食料品店があるくらいで何か特別目立つお店も無く、素朴で他には何もない所でした。到着が早かったので村にあるお寺のお坊様に日本の兵隊方が来ていた時の様子を直接聞くことが出来きました。そのお坊様の表情は、優しいお顔をされていて、常に笑顔が絶えない方でした。失礼ではありますが、年の頃は80代であるのに、少年のようで柔らかい表情をしておられました。     


     霊媒者Sさんのお姉さんが御実家には住んでおられ、家の敷地には神様を祀る本堂のような建物がありました。そちらの建物内に案内され入ると2名のお坊様がおられました。彼らの様子を見ていると、霊媒者Sさんを尊敬していることがよくわかりました。そして、そのお二人のお坊様同士、話すことを拒んでいるかのように見えるぐらい、性格が違って見えましたが、二人は実務的な仕事を分担してこなしていて共に同じ仏道を歩んでいるかのように見えました。この霊媒者Sさんは若く見えるが、年齢は30歳以上のようでご主人とお子さんもおられるようでした。なんでも高校生の時に市場で倒れ、頭をきつく打って気絶しているところを周囲の人に発見され、病院に運ばれた事があったと聞いていました。しかし、直接の彼女の話によると、何かに滑ってこけたわけでもなく、急に意識を失い、倒れた際に頭部を強打したということでした。そして、病院で目が覚めたたら、タイ語ではなく中国語を話し始め、彼女を知る親や周囲の人たちがたいへん驚いたという話を聞かせて頂きました。日にちが経つにつれて変化が現れ、彼女が人の素性や未来、問題がわかるようになり、親はたくさんの精神病院に連れて行ったようでした。が最終的に問題がわからず、ただ彼女の話す内容はいつも当たっていて、多くの人が自然と相談に来るようになったらしい。その噂を聞いたあるお寺が彼女を引き取らせて面倒を見させてほしいということで、お寺で若い頃は生活をしていたようでした。その当時、彼女に相談に来ていた人たちのお布施が多くなり、家を建て替えたり、お寺の再興の為、多くの資金を費やしたと話していました。携帯電話なども全て彼女を慕う人から差し入れられたということでした。それほど裕福で無かった彼女の家は生活に不自由なく、周囲の人が心配するような生活状況ではなかったらしい。とにかく、今でも多くの人が彼女の元に相談しに来るそうですが、私はタイ語がわからず、嫁を通してしか話をすることが出来なかったので正直、あまり興味も湧きませんでした。日本の兵隊方と合流することに成功し、日本への帰還だけを考えていたので、その為にはいつも気がつけば、こういった人たちが集まってくるんだと感心させられるばかりでした。  


     御実家の神様を奉る小さな部屋ではお坊様2名が明日の準備をされているようでした。私はタイ語がわからないものでどうしても後手に回り、何も出来ないのですが、できる限り、指示があれば、お手伝いをするように心掛けていました。が、結局、何一つできないむず痒さを感じるのでした。やはり、言葉が出来ないと細かいコミュニケーションがとれず、仕事を増やすだけなのかもしれないと思うようになっていきました。  


     夜食は田舎料理をイメージしていましたが、予想に反して良かった。声をかけられ、テーブルに着くと、新鮮な卵で作った卵焼きやごはんが並んでいました。これは非常に美味しく頂けました。他にもタイ料理が並んでいましたが、私には何の料理かさっぱりわからないものばかりで箸を延ばすことがどうしても出来ませんでした。タイの田舎料理はやっぱり苦手でした。嫁、霊媒者Sさん、家の人たちは楽しそうに食事を楽しんでいました。正直、食べ物ひとつとっても、こういう活動で知らない場所へ行くのはたいへんなことでした。  


    全てが終わり、明日を迎えるために早めの就寝となりました。どちらにしても、このような田舎ではお店なんてものは何一つ夜遅くまで開いているわけもなく、村の誰もが早い就寝についているようでした。我々も部屋に入り、とても大きなスペースにお布団を2つ並べてあるだけの殺風景な場所で寝ることとなりました。が、蚊も多く、蚊帳の中に入り、扇風機を回し快適さを心ばかり演出して頂きました。ただただ感謝するのみでした。    


    眠りに就く前に日本の兵隊の気配を感じました。兵隊さんかな?と思い、声をかけてみると、やはりそうでした。私は『明日いよいよそちらに向かいます』との旨を伝えると、『よろしくお願いします』と返事をしてくれました。明日の事はあまり深く考えず、船に乗って、霊媒者Sさん、お坊様2名、そしてお手伝いをして下さるタイ人女性とともに現地に無事到着出来る事だけを祈りながら、眠りに就きました。


お会いする前は緊張していましたが、お話して下さる姿を見て、ホッと致しました。兄弟が足を失ったが、日本人を恨んではいないと言っておられました。




村人の家で寝床を確保。お心遣いに感謝。きっと荷物も整理して綺麗に清掃して下さったに違いない。



3:目的地へ出発


    朝早く起床。部屋のドアの外から声が聞こえました。部屋のドアの外がそのまま建物の外になっていて、食卓の上に朝食が用意されていました。昨夜の夕食の料理ほどではありませんが、朝から用意するのは手間がかかっただろうと思われる朝食がずらりと並んでいました。心を尽くした接待に朝から感動致しました。ホテルでは味わえない違う種類の心遣いを感じる事が出来ました。思い起こすと、我々が寝ていた部屋の片隅に置かれたテーブルの上にはコーヒーを作るためのお湯入りのポットが用意されていたのを思い出した。私が知らない所でどれだけ気を使って頂いていたのかと思うと改めて感謝するのでした。  


     霊媒者Sさんと共にテーブルにつきました。お坊様は2階で居るようで、我々とは共に食事を摂りませんでした。昨晩も同じ食卓に座っていなかったので、きっとお坊様の食事は我々とは違うのかもしれないと思いました。 


     霊媒者Sさんと妻が朝食を摂りながら、今日の予定について話をしていました。その後、朝からゆっくりしている時間は無いのでテキパキと食事を済ませ、出発をしなくてはいけないと妻に促されました。事前に聞いていた話では船着き場まではまだ車で30分位はかかるという事でしたし、船着き場よりボートをチャーターし、3~4時間は移動し、到着した場所から徒歩で少し歩くという事でしたので、1日の限られた時間・道のりを考えるとかなりシビアな動きになることが予想されました。道中には日本での日常生活で考えられるようなコンビニは無く、しっかりと朝食は食べ、トイレもなるべく行く必要が無いように済ませました。部屋の中から荷物を運び出し、4WDのトラックの荷台に積み込みました。このトラックに8人が乗り込みました。船着き場に送ってくれるのは、霊媒者Sさんの姉のご主人さんとそのお姉さんがして下さるとのことでした。運転席の後ろに3人乗れるスペースがあり、そこにお坊様2人と霊媒者Sさん。荷台には妻、お手伝いして下さるタイ人女性が一人といった様子でした。外は既に明るくなり始め、ヒンヤリとした空気が流れていました。とても清々しい気持ちになれました。忘れものが無いかチェックを終えると、車は静かな村の住宅街を走り始めました。すると1軒だけ生活雑貨店が開いており、そこで最後の買い物をしました。朝、6時過ぎ、車は再び走り出しました。美しい朝焼けを見ながら、荷台からの眺めを楽しんでいました。初めて見る村外れの様子や村から離れていく風景がのどかで興味深く感じられました。   


    結局、船着き場手前に30分程かけて到着しました。目の前には丸太が並べられた橋とその先には黒い泥と土が混ざり合ったぬかるみのような道路が伸びているのが見えました。いくら4WDのトラックでもタイヤが滑って走れないだろうという事は一目瞭然でわかることが出来ました。それにトラックの通行に耐えられる橋でもないように見えました。車の荷台から荷物を降ろし、ここから手分けをして荷物を運ぶという事でした。船着き場は丘陵になっている先にあるらしいが全く姿が見えなかった。先に見える道のりが容易に船着き場まで辿り着けない様子を覗わせました。時間的な事を考えると、ここで考えている暇もなかったので、先頭を歩き始めたお坊様にしっかりついて歩こうと思いました。車を止めた場所から数十メートル進むと丸太の橋に差し掛かかりました。目の前にある丸太の橋は思った以上にゴツゴツしていました。不揃いの丸太が組まれていてはいるが、歩く感触からは思った以上にしっかりしているように感じました。やはり、ここは4WDのトラックは通らない方が良いと渡りながら感じました。橋の長さはおおよそ30m以上あったように見えました。


     橋を渡りきると、目の前の地面は黒い泥土で、足が泥土の中に5cm程は沈むように見えました。先頭を歩くお坊様はその道を避け、足場がしっかりとした川岸を歩き始め、迂回路を選んで進んでいました。少し立ち止まるとあっという間に差が開き、10m程の遅れを取りました。後方を見ると、他の4名がまだ丸太の橋を渡っているのが見えました。しばらくすると、川岸なので地面は乾いているのですが、乾燥のため地割れが起こり、多数の裂け目に何度も足を取られました。油断していると、足首を痛めかねない。そんな状況でしたので、後方の女性陣が気になりました。先頭を行くお坊様1名はもう姿が見えない。彼はこういった場所を歩き慣れているように見えました。数分後、妻、霊媒者Sさん、お手伝いの女性、そしてもう1名のお坊様が追いつきました。すると、お坊様が足の指の付け根に問題を抱えていました。草履のようなスリッパを履いておられたので親指と人差し指の間が擦れていて少し赤くなっていました。どうも地面の裂け目で何度も足を取られ、強く擦り続けていたようでした。こちらのお坊様はあまりこういった辺境の地を歩き慣れていないようでした。おそらく、誰もが足元がこのような状態である事は予測していなかったので、我々の履物はそれに対し十分な対策が取れていませんでした。船着き場まではあと少しだという事でしたので、ゆっくりと気を付けながら歩き続ける他ありませんでした。


     数分後、視界は広がり、目の前に土色の水が流れる大きな川と断崖絶壁のような山々が見えました。なんとも豪快な風景でした。そして、右前方の川岸には洪水で消滅した村の痕跡を見る事が出来ました。村の一部分にはお寺があったと思われる石が転がっていました。船着き場に着き、お坊様の足の状態を見ると血が出るような擦り傷にはなっていなかったので少し安心しました。船着き場にはまだチャーターしていたボートは来ておらず、各々、足を休めることにしました。すると、先頭を歩いていたお坊様は洪水で流された廃寺まで歩いて行き、平な場所を見つけ、瞑想を始めました。




 

総勢6名となった。人が増えると、緊張感が増す。しかしながら、安心感も出てくる。



船着場まで徒歩を余儀なくされた。タイ国内の旅だから安心感があったが、大間違いの始まりだった。


車道は泥でぬかるんでいて、とても歩ける状態ではなかったので、川岸を歩いたが、地面のヒビわれで足を何度も捻る。両手に荷物を持っていたので手がおかしくなった。



船着場に着いた頃にはお坊様も足が痛々しくみえた。誰もこのような地面のコンディションを想像していなかった。

船着場に到着。山肌に線が見えるが、通常、線の位置まで水があるそうだ。先のタイの大洪水のため、プミポンダムの貯水量を減らしたため、このように徒歩を余儀なくされたそうです。ということは船着場までの道のりは以前は川底だったということになります。泥でぬかるんでいた理由がこれでわかりました。


4:足止め 船が来ない

 

    待ち続けて1時間。タイ人霊媒者Sさんが少し不機嫌そうな表情を浮かべていました。瞑想を続けていたお坊様が帰ってきて、霊媒者Sさんと何やら険しい表情で話を始めました。その後、お坊様が携帯電話で船頭と話しているようでした。電話を切ると、また霊媒者Sさんと話を始め、その後、霊媒者Sさんは立腹しているようでした。今度は妻と話し始め、何故1時間も待たされているのかの事情を私にも教えてくれました。何でも前日に雨が降り、川の水量が増したようで、魚がよく獲れるとの事でした。魚を獲っている内に約束の時間を大きく超えてしまったと電話で遅れている理由を伝えてきたらしい。チャーターしたボートは川に住居を設けて漁業を営む人達の物でした。彼らは様々な仕事で生計を立てていて、我々を別の場所に送り届けるような仕事は片手間の仕事だったらしい。そして、魚が獲れるとなると、やはり、そちらの方が儲かるので我々の依頼を後回しにしてしまったようでした。悪気無く言ってのける船頭に皆、腹を立てたが、目的地に行くまでの選択肢は無く早く来てくれと電話で話していたようでした。岸辺を見ると、魚商の男たちが集まり、大きな計量器で麻袋に入った魚の重さを計っていました。暇を持て余していた我々もその様子を見ていました。魚はかなり大きく、日本の鮭とよく似たようなサイズでした。川の水が泥色(茶色)のわりに、魚の色が白く、意外でした。水の色からすると、もっと、茶色っぽい魚が泳いでいるイメージでしたので。    川の下流から一艘のボートがやって来るのが見えました。救命具を積んでいるのが見えたので、何となくあれがチャーターしていたボートかなと思っていると、やはりそのようでした。彼らは魚を降ろし、陸にいる男たちの元へ魚を運んでいきました。しばらくして、彼らはボートに戻り、我々が乗船出来そうな岸を探し、我々にそこからボートに乗るように促しました。当然の事のように遅れた事を謝罪する素振りも見せず、むしろ歯を見せながら満面の笑みで、今日の釣果について語っているような感じでした。皆は、能面のように表情を固くしていたが、手配したお坊様だけは軽い笑顔で何事もなかったように話していたように見受けられました。   私だけでなく、皆も同じ気持ちだったと思いますが、ボートに乗り込み動き出した事で先ほどまでの嫌な気分は吹き飛んで、気合いの入った表情に一変しました。目的地まで行き、またその日の内に帰って来るのだから、いつまでも嫌な感情に支配されているわけにもいかず、何よりもボートの速さに圧倒されました。油断すると、ボートの外に投げ出されそうな勢いで目が覚めるような速度で目的地へ進んでいきました。川は水量も多く、川幅も30m以上はあったので大きい川を移動しているように感じました。我々の乗ったボートの本体が細長く小さめのボートを用意されていたので余計に川が大きく感じたのかもしれません。水面に舟艇で叩くような勢いで進んでいるような感じでした。ボートの速度が速く、見る景色も次々に変わっていきました。初めは飽きる事のない風景の変化を楽しんでいましたが、次第にその景色とスピードにも慣れてきて、ただただ座っているだけの無感情状態になっていきました。小1時間程ボートが進んでいく過程で川の左右に道が無い事が確認出来ました。やはり、目的地まではボートで行くことしか出来ないのだなと思いました。時折、川岸に筏があり、その上に建物があるのが見えました。そこに住んでいる女性と子供の姿を確認することが出来、きっと水上生活をしている現地の人々だなと思いながら眺めていました。   しばらくすると、大きな川に出ました。川幅は、広い所で百メートル以上はありそうに見えました。水量は一段と多くなり、大きな水草のようなものが流れていました。水草の上を船が通れば、スクリューに絡まり、破損しますので、ボートは慎重にそれを避けながら走りました。   船が急に速度を落とし、川岸に沿って水上に浮かぶ建物にボートを停めました。どうも居住場所として家族が住んでいるようでした。ここで大型ボートに乗り換えるようで、先ほどの小型ボートとは違って屋根もあり、突然のスコールが来ても雨を防げそうでした。陽ざしもきつく、腕がじりじりと焼かれるように痛かったので、屋根で随分助けられました。 立ち寄った筏の上には大きな保冷庫があり、中にはたくさんの氷が敷き詰められていました。その家の主人が氷をかき分けると袋に入った大きな魚がたくさん出てきました。大きさは鮭が太ったくらいで、かなり大きかった。妻は値段を聞いて、帰る際に買う話をしていたようでした。私は『生臭く、こんな魚、車に乗せたら汚れるし、汁もこぼれるよ』と買わない事を勧めましたが、妻は買う気満々で止めようがなかった。 ここから先は2~3時間の大型ボートによる移動なので、筏の上にあるトイレで用を済ませるように言われました。2~3時間と聞いて、タイ王国にはまだこんな交通の便が悪い水上ボートでしか行けないような辺境の地があるのかと改めて驚きました。タイ王国にも、まだまだ未開拓な地域は存在するのだという何とも言えない冒険心をくすぐるような気持ちにさせられました。    大型ボートに乗り込み完了。初めに乗った小型ボートは縦1列で座っていましたが、今度のボートは横2列で乗船することが出来ました。安定感も随分と良くなり、少し緊張感がなくなりましたが、上流地域で雨が降った為、草木がさらに流れて来て、気を付けないとエンジンを傷めてしまうと船頭はより注意深く、大きな川でルートを選びながら目的地に向かって進んで行きました。 結局、2時間を過ぎた頃、やっと建物が見えてきました。陸の上の方にお寺があり、そこへ行くと言う。『お寺の前か』 昨年、ミャンマー・マンダレーを訪れた際、お寺の前で待機する日本の兵隊の姿が映像として見えたことを思い出した。そして、昨年末に行ったインドでも多くの霊魂(日本の兵隊の幽霊ではありません)が聖地と呼ばれるお釈迦さま誕生の地でもたくさんおられたのを知って、何となくそういった場所にすがるような気持ちで集まり、成仏していない霊魂が何らかの助けを求めているのだなと思いました。もちろん、全部ではないのでしょうが、そういう事でお寺といった場所の周囲に集まってくる亡くなった方々もいる事を知りました。ですので、今回の日本の兵隊方もお寺の前を合流ポイントとして待っているかもしれないと思いました。   船着き場に着く。船着き場からお寺の入口である階段の麓までは100m以上はあるように見えました。元々、船着き場はそのお寺の階段の麓にあったらしいが、プミポンダムの水を放流した事で水位が下がり、お寺の階段の入口から随分、川岸が遠くなったのだと説明を受けました。水を放流した理由は以前にあったタイ王国全土を襲った洪水の影響からでした。ダムの決壊を避ける為に、流れ込んできた大量の水を放流した事によって、バンコク市内が洪水という自然災害を齎しました。それからは雨期前から貯水量を減らし、不意の洪水事故にも対応できるようにしたという事でした。ですので、お寺の入口まで100m以上も歩く必要が出てきたのですが、元々は湖底だった場所を歩くので勾配もきつく歩くのが大変でした。15分程でなんとか階段の麓まで辿り着けましたが、歩き慣れない湖底の上を踏ん張って歩いたのでふくらはぎがパンパンになりました。そこからは、急な階段を登りきると、本堂があり、その中へ入って行きました。大きなブッダ像が鎮座しており、人里離れた場所にこのようなものを造った事を想像すると大変な作業であった事が想像出来ました。今度は、上がってきた階段とは反対側にある階段を下り、先へ進むと屋根のついた展望台のような場所に辿り着きました。そこにもブッダ像が鎮座しており、持ってきた供物をブッダ像の前にお供えし、お経を上げ始めました。私も手を合わせ、この場所の土地神様にご挨拶をし、日本の兵隊の御霊を連れ帰ることの許可をお願いしました。   しばらくして、このお寺のお坊様方が待っているとの事で、別の建物に移動しました。そこでは霊媒者Sさん並びにお付きのお坊様2名が、お寺のご住職並びにこのお寺お坊様方に挨拶をし始めました。どうもここのご住職並びにお坊様方も霊媒者Sさんに敬意を払っており、彼女の存在感が俄かに大きくなっていきました。後程、わかった事ですが、このお寺の再建に貢献したのも彼女で、資金面で協力が集まったのは彼女の力が大きかったようでした。お寺を再建するには多くの資材と年月がかかったことに違いなく、片道3時間以上もかかるこの場所にボートで資材を運ぶとなるとどれだけの苦労・苦難があっただろうと思いを馳せるのでした。   この場所は世間とは全く孤立した場所にあり、寂しくないのだろうかとフッと思いが過ってしまい、私は失礼な質問を一人のお坊様にしてしまいました。『なぜ、お坊様になったのですか?』すると、お坊様は『瞑想をしている時に宇宙に繋がる瞬間があるのです。その瞬間が私にとってはこの上なく幸福な事なのです』と答えられました。私にとっては、何とも理解に苦しむ答えでした。 『それだけのため?』と聞きたかったのですが、グッと胸の中に言葉を押し込み、返す言葉も見つからず、ただただ、くだらない質問をしてしまったと後悔するのでした。



1日船をチャーターした金額よりも、魚の方が儲かるからということなんでしょうけど、1時間のロスは大きかった。壕に入れば郷に従えと言うが、容易ではない旅です。


大きな口を開けた川下がなんとも言えない。普段よりも水量が少ないとはわかっていても、目の前で見ると、水は多いし、流れも早い。


秘境の中を進んでいるような移動。

水位が下がり、このような地形がむきだしになっていた。

小さなボートは屋根がなく日差しをそのまま受ける。風はあるのだが、日はずっと当たっているので熱射病になりそうでした。旅支度というのはとても重要であることを知った。


思っていたよりも速度は早かった。が、3時間前後は現地に着くまでかかったと思います。



上流の雨の影響で茎の太い水草が流れてくる。スクリューを傷めないように避けて進んだ。本流に出て、大型のボードに乗り換えたので屋根もあり、頭に熱がたまりにくくなったので助かりました。船が走る際の水しぶきの回りを小魚が飛び跳ね、船内に入ってきた。ひと時の和みを与えてくれました。




船酔い、熱射病ではないが頭痛。そして、さらに足下の悪い徒歩。この後、階段。船の移動時間は片道3時間前後でした。


現地の神様にお供え物を準備。

お寺に到着。水がかなり減っているのがよくわかる。バンコクで以前洪水になったことがあり、上流にあるダムの水を減らしたのだとか。



5:全てのお坊様が指し示す場所で

 

    お坊様たちが日本の兵隊方が待っている場所について話し始めました。全てのお坊様、霊媒者Sさんを含めて言ったのが、『お寺の外にある階段の下で待っておられますね』という事でした。お話を終え、お寺から出る時に、私が先頭を歩き始めました。本堂横を抜け、階段を下りて行くのですが、気が付けば、足早になっていて、その後をお坊様たちが追いかけるように私の後ろをついてきました。階段の下に一番乗りし、私はその場に座りこみました。皆が揃うのを待つといった感覚だったと思います。 


     お坊様たち他、皆が階段を下りてきた時に急に私の中に日本の兵隊方が入ってきました。シートを敷き、日本から持ってきたお米や魚の缶詰、お酒を並べました。線香を焚き、霊媒者Sさん、お坊様2名によってお経を上げられました。日本の兵隊方の御霊が癒され、落ち着くのがわかりました。しばらくすると、私の身に起こる憑依現象はおさまり、我に返っていました。お坊様達には、私からも感謝し、日本の兵隊の御霊を日本に一緒に帰る心の準備が整ったように感じました。少し時間をおいて、落ち着いてから、皆で船に向かって歩き始めました。   


    霊媒者Sさん、お坊様2名、妻、お手伝いに来てくれた女性、私、皆の表情が安堵感に包まれ、足取りも軽く、船を待たせている場所まで下って行きました。船頭は何があったのかわからないようでしたが、我々を乗船させると、エンジンを掛け、勢いよく船を走らせました。船が速度を出すと、船体の横に飛沫が立ち、川魚が反応して、トビウオのように跳ね、船の中にも飛び込んできました。なんとも楽しい瞬間でした。帰りは無事に仕事を終えて、皆が何かを成し遂げたような感情を持っているように感じました。  


     すると突然、悲劇が襲いました。船頭が速度を落とし、最終的にはエンジンを止めてしまいました。最後尾に座る私の後ろで船頭が何度もエンジンを掛けようとしますが、ピクリとも動かなくなりました。『こんな出来事は初めてだ』と船頭が言い出し、不穏な空気が流れ始めました。半時間が過ぎた頃、そのエンジンを見ると、TOYOTA製の物でした。思わず、『私の所為ではないから!』と言うと、険しい表情をしていた数名から笑みがこぼれました。そんな冗談を言いながら、しばらくすると、2人いた内の一人の船頭が『俺が川岸に行き、助けを呼ぶよ』と言い、川に飛び込み、泳ぎながら、川岸にある筏の家屋に助けを求めに行きました。そこから数十分経ったころ、別のボートが迎えに来てくれました。恐らく、漂流し始めてから40-50分は経過していただろうと思います。屋根があるボートとは言え、側面からは陽ざしが入ってきて、腕がジリジリと焼けるように痛かった。   


    私たちは迎えに来た別のボートに乗り込み、何とか助かることが出来ました。そこからはまた勢いよくボートが走り出しました。時計を見ると、明るいうちにギリギリ車を待たせてある船着き場まで戻れるかといった感じでした。別のボートに乗り込んでからは中継地点である船頭の筏家屋まで速度を上げ、遅れた分を取り戻すかのようにあっという間に辿り着きました。そこで妻は往路で交渉していた魚をやはり購入。ゴミ袋のような大きな袋に氷と共に魚を入れるのでかなりの重量になりました。船着場から車までの徒歩の道程に不安が過りましたが、あまり深く考えないようにしました。そこから小さなボートに乗り換え、また一列に乗船。空を見ると雲行きが怪しく、空に黒い雲が見えました。船頭が向こうからスコールが追いかけてくる筈だと話してくれました。『やはり、雨か』全員に雨合羽を渡し、着用するように指示が出ました。雨対策かと思ったら、それだけでは無かった。ボートは一段と速度を上げ、高速ボートに変貌し、目を開けていられないぐらいの水飛沫を上げて進み始めました。乗船客に全く遠慮はありませんでした。が、背後に目をやると、黒い雲とその下に黒いカーテンのようなものが近づいてきているのが見えました。あれはきっと強烈なスコールに違いないと思いました。船頭は追いかけてくる黒い雲を撒くつもりで船を高速で進ませているということがわかりました。しかしスコールよりも、ボートの速度のせいで水飛沫がたち、そちらの方が我々の全身に水がかかり、それはもう水を被っているかのような状態と変わらなくなっていました。『これじゃ、スコールと変わらないじゃん』と思いましたが、とにかく、スコールで川の水面がどのように変化するかわからなかったので、必死にしがみつき飛ばされないように耐え忍びました。    


    その甲斐あってか、あっという間に最初の船着場に到着しました。黒い雲はもう追いかけてくる様子はありませんでした。しかし、急に天候が変わる事はよくある事なので、雨が降る前に急いでお迎えが来ている車まで移動する事にしました。帰りとなると、皆、足取りも軽く、踏み場の悪さも知っていたので要領を得て歩いていました。とは言え、魚が重たく、かなりの体力を奪いました。妻にはいつもお世話になっているので、頑張って両手に魚の袋を持って歩いていました。20分程で車道に到着すると、4WDトラックが朝渡った丸太を並べた橋を渡っており、目を疑いました。我々が遅かったので無理をして橋を渡って船着場まで車で向かってきたようでした。電話が繋がる場所まで帰ってきていましたので連絡をしてUターンしてもらいました。橋が崩落しないかドキドキしながら眺めていましたが、なんとか橋を渡りきり、車が我々の所に戻ってきました。最後の最後まで油断出来ない出来事が起こりましたが、無事に笑顔でお迎えの方々と再会。たった一日の旅でしたが限られた時間の為か冷や冷やしながら帰って来たのでドッと疲れが出ました。  


    4WDトラックの荷台に乗り込み、昨晩泊めて頂いた村の家に到着しました。買ってきた魚を降ろし、チェンマイ方面から乗ってきた車に乗せ変えました。案の定、解けた氷水と共に魚の臭いが車内に充満しました。宿泊・送り迎えをして頂いた霊媒者Sさんのご親戚の方と今回参加した人々の御尽力に感謝し、御礼を述べ、少しばかりの宿泊代を置かせて頂きました。もう一泊するつもりはなかったので、運転を頑張って妻の実家に帰宅する事にしました。ここから帰宅するまで3時間。夜は外套が無いので車のライトを頼りに、安全運転をしなくてはなりません。お坊様2名もお寺に帰らなければならないようで、我々の車で送る事にしました。1名はこの村から一時間程の場所にお寺があり、もう1名は我々の戻る妻の実家より更に1時間半ほど遠い場所にあるお寺でした。お世話になったのに送らないわけにはいかない。夕方6時に出発し、意識が朦朧とする中、一人目のお坊様の言う通りに車を走らせ、1時間程経過した場所のお寺に到着しました。このお坊様はこのようなお寺から来て頂いていたのだなと知る事で少し運転の疲れを忘れさせてくれました。よく御礼を言って、そのお寺を後にしました。タイの田舎では日本のように標識が多くなく、夜道になるとわかりにくくなるが、現地の人は結構な速度で走り去ったり、すれ違ったりするので、神経を使いながら、安全運転を心掛けました。実は数日前も現地の方がバイクを運転していて、バンと衝突し、道の真ん中で倒れている姿を見たばかりでした。恐らく、即死だったと思います。そんな光景を見たばかりでしたので、緊張感を保つことが出来ました。夜道という事で日中よりも時間がかかり、結局は日付が変わる頃に妻の実家へ到着しました。到着する前に妻がもう一人のお坊様を送り届けるために、お隣のご主人にお声掛けをしていたようで、到着と共にお坊様は別の車に乗り込み、送られる事になりました。走り慣れない夜道を緊張の連続の中、運転していたので疲労がひどく、もうこれ以上は運転出来ないと思っていたので、私にとっては天の助けのように思えました。  


   もう一人のお坊様にもしっかりと御礼を言い、お隣のご主人と奥さんにお任せをしました。そのまま、私は、妻の実家へ入り、シャワーを浴びると、あっという間に深い眠りにつきました。

皆、揃って、階段下で日本の兵隊が待っていると言い始めた。



帰りの小ボートに乗り換えの時に、魚を購入。

スコールから逃げるために猛スピードで走り始めた。目を開けていられない。

結構な速度でスコールを振り切ろうとし始める。





6:ムーンサーン寺慰霊祭に参加

 

    目が覚めると気持ちがスッキリしていました。日本の兵隊方とうまく合流する事が出来、今はおそらく、近くにいるか一緒にいる筈だという安心感がありました。本当は毎年、タイ王国やミャンマーに行きたい気持ちは無く、日本の夏を味わいたいというのが我々家族の思いの一つでもありました。だが、依頼に来る日本の兵隊方を無碍に断る事が出来ないでいます。もし、我々が彼らの依頼に耳を傾けなければ、まだ海外に滞在していて、しばらく苦しむかもしれないと思うと放っておく事が出来ませんでした。誰も彼らの話を聞いて、『はい、そうですか』と現地ミャンマーやタイ王国に行く人は殆どいないだろうと思います。 


     一夜が開け、子供の様子がおかしかったので、近くの病院に連れていくことにしました。そこで診察をしてもらうと、大きな病院を紹介して頂き、チェンマイ市内へ行く事になりました。検診を終えるとデング熱だと判明し、そのまま、しばらく入院する事になりました。目が赤く、熱が上がったり下がったりでなかなか平熱に安定しませんでした。蚊に刺され伝染したのだろう。その日から数日間、病院で過ごす事になりました。思えば、この依頼活動により子供と夏を過ごすという事が疎かになっているような気がしていました。病状的には病院の先生も心配するような事はなく、点滴を打ちながら安静にしていれば、数日で回復するでしょうとの事でしたので、折角だから、家族3人でこの時間を楽しむ事にしました。きっと子供も気怠く大変だったと思いますが、両親が傍にいる時間を嬉しく思っていたに違いないと思います。  


    そんな折に妻から『チェンマイ市内にあるムサーン寺で慰霊祭があるから、行ってみる?』と尋ねられました。一日中、病院で過ごすのは確かにこちらも気が滅入るし、滞在している病院から車で10分くらいの場所なので顔を出してみようかという事になりました。その時間、子供が寝ていて、従妹も来ていた事から、出掛けてみることにしました。ムサーン寺については、以前に少し噂を聞いていた事はありましたが、その詳しい内容までは知る由も無かった。ただ、妻から、『あのお寺も日本の兵隊がたくさん立ち寄り、野戦病院として使用されていたから、今でも日本の兵隊の御魂を日本人が慰霊しているよ』と聞いてはいました。まだ、インパール作戦という戦争の全貌に興味もなく全く知らなかった私でしたが、今、こういった日本の兵隊の帰還依頼により、迎えに来ている日本人として、その慰霊祭に参加してみようという気持ちに至りました。 


     ムサーン寺に行くと、多くの日本人がおられました。チェンマイに来た際、このように多くの日本人が集まる催事に参加したことがなかった私は少し嬉しい気持ちになりました。誰もが出席出来るようで、私も式典に参加させて頂く事にしました。そこで私はこういった慰霊祭の大事さを知る事になりました。多くの日本人がここで亡くなった日本の兵隊の存在を忘れているわけでもなく、供養を続けておられる。この慰霊祭に参加出来た意味を知ったような気が致しました。クンユアムにある戦争博物館建立の立役者のチューチャイさんとお会いし、写真撮影もさせてもらいました。帰り際にはこの慰霊祭を取りまとめておられる私に近い年代の方に質問をする機会があり、戦没者名簿の有無の確認をしましたが、残念ながらこちらの方では無いという事でした。私共家族の元に帰還依頼をしてくる日本の兵隊方が名前を名乗るわけではないですが、もっと身近に彼らの存在を感じ、確認したいと常々思っていました。今回もそれが叶わなかったですが、わかればそれはそれで嬉しいですし、この依頼活動にますます力が入るように思うのですが、でも、わからない方が良いと思う自分も存在します。一喜一憂の感情に身を任せれば、その感情に支配され、戦地で亡くなった日本の兵隊の御霊の引き上げという純粋な気持ちが薄れるのではと感じていたからだと思います。人間というものはやはり感動話が好きです。ドラマが好きです。しかし、そのレールに乗らないものに対しては疑心暗鬼になるし、その条件にそぐわない依頼というものを軽んじてしまう事が容易に想像出来たからです。純粋に連絡を取ってくる日本の兵隊方の帰還依頼を真摯に受け止め、粛々と進め、完遂するという事を心に留めておかなくてはならないと思うのでした。




慰霊祭というものに初めて参加させて頂きました。嫁がムーンサーン寺院の清掃をしていた時に慰霊祭のことを知り、時間があったので伺ったのですが、同じ思いをもった方々と慰霊祭に参加できたことは非常に良かったです。

故チューチャイ氏。日本の兵隊の遺品を収集、インパール作戦の記憶が風化しないように努めて下さったタイ人男性。


7:退院そして帰国へ

 

   病院に戻ると、子供が目を覚ましていました。表情を見ると点滴のおかげで、少し楽になったように見えました。数日が過ぎ、目の赤みも取れ、医者にもう大丈夫だと太鼓判を押されましたが、用心のため、もう一日入院を勧められたので病院に滞在する事にしました。すっかり元気になり、いつもの表情を取り戻した子供を見て、ホッとしました。家族揃って、妻の実家へ戻り、日本へ発つ準備をしました。最後にご近所挨拶をして、チェンマイ空港から日本へ帰国の途につきました。  


    今回はタイ王国での依頼活動でしたが、過去のミャンマーへの旅2回と比べると、こちらの方が非常に大変だったという事を痛切に感じました。家に着き、さっそく見えない日本の兵隊に日本に到着した旨をお伝えし、彼らに食事を出し、お別れを促しました。こうして、この夏を終えることが出来、また平穏な普通の生活に戻ることが出来ました。今回は、霊媒者、お坊様等、頼れる方々がいて、心強く、たいへん助けられました。逆に次回があれば、今度はどうなるのだろうかと不安になりますが、それはその時考えれば良いことだと、普段の生活に戻ることにしました。日本の事で御尽力頂いたタイ人の皆様、ありがとうございました。  


左下の湖岸に建物があるのが、英霊との合流地点です。はるか川上からボートで移動してきました。道はありません。これがたいへんでした。

英霊の依頼-インパール作戦に沿って-

「我々の処へ迎えに来てもらえませんか?日本に帰りたい」 我々家族の元に現れる日本兵とは第二次世界大戦インパール作戦で敗退し、亡くなった若い兵隊さんたちです ミャンマー、タイ王国、中国、インドと各々の呼ばれる場所へ訪問、合流し、帰国へ 2009年の秋 一人の兵隊から始まった日本への帰還依頼は、多くの帰国を願う兵隊たちに広がり 2025年12月 20回目の依頼を終えた。