第1回目 タイ王国メーホンソン 2010年8月


日本の人々に我々がここで亡くなったことを伝えてもらえませんか?


1:英霊の言葉通り来日


  日本にやってきた彼女は日本での新しい生活を楽しんでいました。目にする自分の国とは違う文化、風景、食べ物、日本人との交流全てが彼女の五感を刺激し、さらに勉学・研究に一生懸命に取り組んでいました。そういった姿勢は彼女を研究生として合格させた面接官であり、彼女を受け入れた大学の教授の心にも安心感・信頼感をもたらしました。彼女は持ち前の社交性で、日本人によく話しかけ、タイ料理を日本のご婦人に教えたり、日本の方々と旅行をしたりしながら、日本との交流を深めていった。  


  また、彼女が日本で通っている大学とタイ王国チェンマイで彼女が働いている大学との国際交流にも進んで協力し、日本の大学が主催するタイ・エコスタディーツアーで留学先の日本からタイ王国チェンマイまで同行し、大学間の生徒・先生方の交流が円滑かつ有意義なものになるように務めたりもしていた。彼女は元々、ホスピタリティーの高い人間であったこともあり、こういった活動において、人のお役に立てることをすることに、幸せを感じる性格であった。

  

    日本の留学生活にも少し慣れてきた頃、ある日本人男性と会った。著者である私のことですが、私は正直タイ人女性というものに興味がなかったし、彼女そのものにも興味がなかった。これについては彼女も私の気持ちをわかっていたと言っていました。彼女についての第一印象と言えば、話しやすい感じの人だなと思ったぐらいでした。彼女の私に対する印象は私とは違い、少し興味があったようです。しかし、初めは友人としての範囲を超えなかったと言っていました。お互い、異文化交流という意味で、違う国で育った人間同士で刺激し合う部分があり、私は日本の良さや日本らしい場所を紹介してあげたいという気持ちで彼女に接していました。そして、彼女はまだ日本語能力に問題があり、彼女の留学生活の不自由な部分を、私がサポートすることにより、より日本での留学生活が快適になっていきました。彼女にとっては何かとわからないことを聞ける便利屋的存在を見つけ、日本での生活に気持ちの上で余裕が生まれました。二人は日本の有名な観光名所に出かけたり、私の家に遊びに来て、私の両親を通して日本の真の生活文化を知るようになっていきました。気がつけば、私の両親、妻、そして私で外に出かけるようになり、自然と日本の中により深く馴染んでいくことになりました。 



        時間の経過と共に、私と妻は、お互い気がおけない仲になっていました。友達以上恋人未満というところでしょうか。何でもお互いのことを話せるようになってきた頃、彼女は突然、タイ王国メーホンソンで出会った日本の兵隊の幽霊の話を始めました。それは彼女が日本に来たきっかけを私に説明する為には欠かせないものでした。『実は私、日本に来る前、タイのメーホンソンという場所のバンガローホテルで日本の兵隊の幽霊に会ったの。彼は私に、貴方は日本に行くから日本の人々に我々がここで亡くなったことを伝えて欲しいと言われたの。タイのメーホンソンには大学の仕事が休暇に入り、同期の先生方と一緒に遊びに行っていたのだけど、日本の兵隊の幽霊と会った後、ホテルをチェックアウトして、チェンマイの大学に戻ったら、文部科学省の奨学金制度の募集があったの。それを見て1週間で必要書類を作成して、申請したら、文部科学省の書類審査に合格して日本に来ることになったの』とまるで不思議なことが起こったかのように興奮して私に説明してくれました。その話を聞いた時、私(著者)にとっては遠い場所での話というか、あまり現実味も無く、単純に『ふーん』とうなずくだけで興味が湧くことはありませんでした。彼女には申し訳ないのですが、聞き流していただけでした。私の中ではタイ王国に日本の兵隊が行っていたのかどうかさえ知りませんでしたし、学校の歴史の授業で戦争のことをそれほど深く勉強したこともなかったので、何故タイ王国のメーホンソンに日本の兵隊が戦争に行っていたのかが不思議でした。まったくトンチンカンに近い話で、少しも好奇心を持つことが出来ませんでした。とにかく、ただ、『怖っ!』と冗談で言うことしか出来ませんでした。その時は信じていなかったというかどうでもいい話だったと思います。  


    そんな彼女と出会ってから数ヶ月が過ぎた頃、彼女は私に対し、特別な感情を持っていたようでした。『私のことをどう思っていますか?』と聞かれ、私は戸惑ったのを覚えています。私はアメリカに少し語学留学の経験があり、その時、つらい思いを経験したので、彼女にはそういう思いをして欲しくないという思いから日本での良い友達になっていたつもりでした。しかしながら、そんな彼女の気持ちに沿うような流れで、気がつけば、世間一般で言われる恋人同士弱ぐらいには自然になっていったと思います。 

  


2:帰国から結婚へ  


  出会ってから半年が過ぎ、彼女が留学期間を終え、タイ王国へ帰ることになった。すると、彼女の方から、結婚を意識した発言が少しずつ増えてきていました。私は、自分が結婚するということは、当時、想像出来なかったので、答えをはぐらかしていました。結局、留学期間を終え、空港まで見送りに行きましたが、私からはっきりと結婚に関することには何も触れず、彼女を見送ることになりました。彼女は別れ際に、『まだビザの有効期間があるから、日本に遊びに来ます』と言って、笑顔で空港を飛び発っていきました。  


  彼女はタイ王国チェンマイに帰ると、頻繁に私にメールをしてきました。1ヶ月前後が経った時、突然、私の家に数週間泊まりに行ってもいいですか?と連絡が来ました。うちの両親も、彼女のことをよく知っていましたし、快く承諾しました。結局、彼女はタイに帰国して一ヵ月後に日本に戻ってきました。私としてはなんとも先日別れたと思ったらすぐ会えたので苦笑いを浮かべていました。そしてこの状況を楽しんでいました。それから、結婚について真剣に考えるように彼女に言われたのですが、結局、それでも私は返事を濁しました。彼女は再びタイ王国チェンマイに帰り、メールでのやりとりが始まり、一度、タイ王国チェンマイに遊びに来てみては?と誘われ、初めてのチェンマイに観光気分で行くことになりました。渡航先のチェンマイはとても素晴らしい街で、活気で満ち溢れていました。タイ風すきやき、焼き飯、タイラーメンを筆頭に様々な料理に舌鼓を打ちました。ナイトバザール(夜市場)ではアジアらしい民芸品に目を奪われました。現地に住むタイ人、海外から来ている観光客でごったがえしていて今まで経験したことのない活気に満ちた独特の空気を直に肌で感じることが出来、本当に楽しい気持ちを持つことが出来ました。  


   二泊三日のタイ王国チェンマイへの訪問で彼女の生まれた国、働いている大学や彼女の周囲にいる人たちとのご挨拶を通して、彼女の素性をより深く知ることとなり、彼女を人生の伴侶としての可能性を少し受け止めるようになりました。帰国時にはすっかり彼女となら、なんとか人生うまくやっていけるかと思い始め、結婚について初めて前向きに考えるようになりました。あとはメールや国際電話などで信頼関係を築き、結婚への決断へと至りました。  


   しかしながら、彼女は国費留学を終えていましたので、容易にタイ王国での大学の教職を辞めることはできず、その留学期間の倍の年数を働かなければなりませんでした。辞める場合には、条件があり、違約金のようなものを払えば可能でしたが、日本で日本人の旦那さんを探すので忙しく、勉学・研究をさぼっていたのではないかと思われるのも良くないので、結婚はしても彼女はタイ王国の大学でそのまま国費留学をした年数の倍の期間を講師として働くことにしてもらいました。その方が彼女にとっても、必ずプラスの選択で、後々、私たち自身、そして、職場、両国間で彼女の国費留学にご協力して頂いた周囲の人々にとっても納得のいく判断だったと思うはずだろうと思いました。   それから数年間はタイに行ったり来たりの生活で普通の夫婦とは違った形の新婚生活を送ることになりました。しかしながら、何一つそのことについて文句や不満はありませんでした。最良の選択をしたとお互いが納得していたからだと思います。そして、気がつけば、子供が出来、タイ王国で産声をあげることになりました。 



 3:日本での家族揃っての生活が始まる 


  結婚をして7年、ようやく家族揃って日本で一緒に住む話が出てきました。彼女の希望もあり、タイ王国チェンマイの大学で講師の仕事をしながら、現地の大学院へ通い、さらに別居生活が伸びたのが原因でした。家族というものを考えた時、これ以上バラバラに生活することは夫婦にとっては理解があっても、子どもにとっては良くないという結論に至ったことが日本で家族揃って暮らす話が出てきたきっかけでした。2008年~2009年にかけ、いろいろな諸事情の調整を図りながら、2009年にはしっかりと3人で日本に暮らすようになっていました。  


  日本に来てからの生活は、長年の別居生活で生じた家族としての違和感を無くす為に時間を要しました。そして、子供にとっては、父親のいる当たり前の生活環境に馴染む為に時間をかけました。子供が9歳になった時に、子供に質問をしたことがありました。『たまにタイにお父さんが来ていたけど、その時、私のこと、どう思っていた?』と聞いたら、『知らないおじさんだと思っていた』と答えました。それを聞いた時、家族で一緒に暮らし始めたことは間違いのない判断だったと改めて思いました。むしろ、遅過ぎたぐらいだったのかもしれません。  


   日本での家族揃っての生活が、おおよそ1年が過ぎようとしてきた頃、子供は日本語が少しずつ話せるようになってきていました。パソコンやテレビを通して、子供向けアニメを見て覚えていったようでした。幼稚園に入る頃はまだ日本語が完全に話せるわけでもなかったので、入園に際し、母子共にかなり不安だったようでしたが、子供も同級生の子供達と幼稚園で時間を過ごすことにより、他の日本人の子供と遜色が無いくらいに日本語が話せるようになっていきました。これでおおよそ日本での子供の言葉の問題は解消されていきました。 

 


 4:日本の兵隊の影


  そんな生活の中、2009年10月頃、妻がタイ領事館主催のイベントに参加することになりました。妻は当日、その催し事で出されるタイ料理を自宅で作っていました。その時に頭の中に一人の女性の姿が浮かびました。『今日、あなたはその女性に会いますよ』と誰からかメッセージのようなものが頭の中に届き、不思議に思ったそうです。そして、タイ領事館のイベントに行きましたが、その女性はいませんでした。あのメッセージは何だったのだろうと思いましたが、とにかく、妻はイベント会場で席につきました。催し事がスタートし始めると、妻が朝に頭の中に浮かんだ女性が遅れて現れたそうです。偶然、妻の隣に空席があり、その女性が妻の隣に座ったそうです。催し事が終わった後、その女性を含めた日本在住のタイ人女性数名で話していたら、『もし良かったら、私の家に来れば、もっとブッダリリック(お釈迦様の骨と言われる石のようなもの)がありますので来ませんか?』と自宅に招待されたそうです。その催し事はタイ王国にあるブッダリリックが紹介され、敬虔な仏教徒にとっては貴重な催し事だったようでした。妻はその女性に言われるがままに、他のタイ人女性数名と共に彼女の家に伺ったそうです。そしてブッダリリックを見せて頂いた時、妻の身体に突然、変化が現れ、全身の毛が逆立つような感覚に身を包まれました。すると、招待して下さったタイ人女性が『貴方の傍にずっと日本人男性がいらっしゃいます』と告げられたそうです。妻はすぐに1999年の大みそかに会った日本の兵隊の幽霊のことが頭に浮かんだそうです。すると、続けて『その男性が貴方に助けを求めているようですよ。彼の為に観音様に手を合わせてあげて下さい』とお寺に行くように勧められました。   


  妻は帰宅と同時にその話を懸命に私に説明し始めました。私も出会った頃に一度聞いただけで記憶の彼方に消えていた話だっただけに少し驚きました。最初は突拍子も無い話で驚きましたが、どうするといったことは何も思い浮かばず、ひょっとして日本の家族を探して伝えるの?と冗談っぽく考えていました。それからというもの、私が帰宅すると、台所の前、リビング・洋間などの床に横になる妻の姿を頻繁に目にするようになっていきました。その光景を見始めた頃は、不健康を装い、私に家事を手伝ってもらう為の演技かと思っていました。 彼女は起き上がると私に日本の兵隊に関する映像について熱心に話してくれました。そして彼女が見ていた映像の内容は多くの日本の兵隊が、林の中で地中に埋められようとしている風景でした。上半身は衣類を脱がされ、下半身のズボンははいたまま埋められている様子が見えていたそうです。どうも野戦病院で亡くなった日本の兵隊を土葬している様子でした。気が付けば、不思議と私も真偽は別として、先の戦争で命を落とした日本の兵隊方を供養してあげたいなという素直な気持ちになり、行動に移そうかと思案し始めました。 

  


5:百観音巡礼 供養の旅

  

    私は、亡くなった日本の兵隊が土葬されている映像の話を妻から聞きながら、あることが頭に浮かんでいました。学生時代、親が始めた西国33ヶ所巡りを一緒に巡礼し始め、途中から、一人で回り満願成就に至りました。そんな折、33番札所 華厳寺で百観音巡礼といって、西国33ヶ所、秩父34ヶ所、坂東33ヶ所巡礼を一つにした掛軸を参道沿いのお店の店頭に飾られているのを拝見し、その存在を知ることになりました。将来、家族を持つことになったら、いつか何かをきっかけにやってみたいと思いました。家族とはまだ見ぬ妻と子供だったのですが、その記憶が頭の中でよぎり、この百観音巡礼を通して、日本の兵隊の供養をしようかと妻に持ちかけました。すると、妻もそれがどういったものか、わかりませんでしたが、私が言うのなら、とにかくついて行きますという話ですぐにまとまりました。さっそく、休みを利用して2009年の11月15日日曜日に西国33番札所華厳寺に家族揃って出かけることにしました。

   

    妻も仏教徒であったせいか、百観音巡礼の完成掛軸を華厳寺参道で見た時、是非、供養をしながらお寺を巡礼し、観音様にお参りしたいという気持ちに固まったようです。さっそく、華厳寺参道にある掛軸のお店に入り、いくつかの種類を見せて頂きました。御朱印を書いて頂く白地の布に1本8万円の値がついていました。2本購入し、1本を7万5千円に値を下げてもらいましたが、今になってみると、台紙と白地の布で8万円とは高額過ぎて、良く買えたなと思いました。きっと値段以上の価値・意味があるのかもしれません。我が家は金銭的にあまり余裕がなかったので、かなりの痛い出費でしたが、何故か2本作りたい気持ちにさせられました。購入した掛軸を持って、さっそくお寺で御朱印を頂き、本堂で手を合わせました。『多くの日本の兵隊が天国に行って楽になりますように』とそれだけを祈るように勤めました。戦争も知らない私にとっては、漠然としたものを供養しているような感覚に包まれましたが、それでもなんとか、純粋に手を合わせるように勤め、お寺を訪問し続けました。この時、まだ妻のところに現れた日本の兵隊がどんな戦争でタイ王国にいたのか全く考えも及ばず、ただただ供養してあげないといけないなと純粋に思うのみでした。しかし、これが不思議な人生の始まりでした。 


西国33ヶ所 谷汲山 華厳寺 2009年 11月15日 ここから全てが始まった。



  2009年12月下旬某日。仕事も落ち着き、長期休暇を利用して秩父34箇所をまわろうかと妻に相談。2009年12月27日埼玉県秩父に向かって家族3人で巡礼、供養の旅が始まりました。富士山西側にある朝霧高原を通り、途中、富士山を眺めながら休憩したりして、出来るだけ、離れ離れに暮らしていた家族の時間を埋めるかのように勤めました。甲府から秩父方面に入り、初日はいくつかお寺を回りました。ホテルは秩父駅近くで2泊しました。こんなにお寺を回ることは久しぶりで、手を合わす度に心が洗われるような気持ちにさせられました。秩父にあるお寺ではお茶や自家製の白菜漬けを頂き、たいへん美味しく頂きました。100ヵ寺以上のお寺で様々な人と出会い、人情に触れ、我々家族にとってはとても良い体験をさせて頂きました。  


   寒い中の巡礼スタートでしたが、子供もぐずることもなく逆に楽しんでいたようで、なんとか3日間で秩父34ヶ所のお寺を全て回ることが出来ました。当初12月31日には帰宅し、自宅でお正月をゆっくり迎えるつもりでしたが、せっかく秩父にいることだし、そのまま坂東33ヶ所のお寺も可能な限り参っておこうかということになり、子供の状態を見て妻と共に無理をせず、参り続けることにしました。結局、最終的にはおおよそ60ヶ寺前後を参り、自宅に戻ったのは1月3日の夜になりました。大型連休が終わると、休みの度に近くの西国33ヶ所のお寺も参るようにしました。たくさんお寺を参っていましたが、しっかりと手を合わせ、成仏を祈念していました。そして2010年5月になると、更に関東方面の坂東33ヶ所のお寺を全て参っていました。浅草では三社祭りの時期に当たり、奇跡的に宿泊ホテルも徒歩圏内で見つかり、いい観光にもなりました。神奈川県での巡礼では箱根なども途中寄り道し、我々自身も家族として楽しく巡礼の旅を満喫させて頂きました。そのせいか、手を合わす時、心穏やかな気持ちで亡くなった日本の兵隊方の為に手を合わせることができました。番外では長野県の善光寺もお参りし、日本の兵隊の御霊の安寧を祈念致しました。

 

  そして、2010年5月22日、番外札が一つ空欄で残るのみとなりました。これは決められたお寺ではなく、我々自身でご縁のあるお寺に訪れ、御朱印を頂くところでした。

百観音巡礼の旅 日本の冬の寒さに耐え、子供がよく協力してくれました。



6:高野山奥の院に導かれる  


  最後の空き番をどこのお寺の御朱印で埋めるのか1週間以上悩みました。ご縁のあるお寺となるとお寺に詳しいわけでもなく、番外札所としてどこも思いつきませんでした。しかし、時間の経過と共に、不思議なことに高野山という言葉だけが頭の中に何度も浮かんできました。正直、私は高野山に良い印象をもっていませんでした。お寺のアミューズメントパークのようなイメージを感じていたからでした。妻に『最後はどこのお寺に行くの?』と聞かれ、瞬間的に『高野山・・・』と口にしていました。妻は理由を聞きましたが、私は、理由を述べることができませんでした。強いて言うなら、『そこしかないだろ…高野山が頭に浮かぶのだから…』という感じでした。  


   2010年5月30日お昼過ぎに高野山奥の院に到着。1時半頃に、とうとう百観音巡礼の掛け軸に最後の御朱印を頂き、満願にして完成させました。高野山で締めくくりたくなかった私でしたが、気がつけば、長かった巡礼の旅の達成感で心が満たされ、高野山奥の院に対し、喜びと感謝の気持ちでいっぱいになっていました。妻も子供も同じ気持ちで満足気な表情を浮かべていました。妻に映像を送り続ける日本の兵隊になす術もなく、この百観音巡礼を通して、供養させて頂き、そして成仏して頂こうと家族揃って、身を投じてきましたので、これ以上、我々は日本の兵隊方に対し、何かをすることは思い浮かびませんでした。 


        満願で百観音巡礼を終えた私たちは、高野山奥の院の駐車場を後にしました。車は快調に滑り出し、晴々とした気持ちで運転をし始めました。すると高野山のメイン道路沿いに立つ建物に私と妻の視線が釘付けになりました。私の心に何かが引っかかり、妻も同じように感じ、『あのお寺の建物、タイのお寺の建物に似ている』と言い始めたと思ったら、突然、『車を停めて!』と妻が大声を出しました。私も妻と同じ気持ちでしたので、すぐに車道の脇に車を停めることが出来ました。車の中からじっとその建物を見ていると、その仏塔の前でお坊さんのような方が笑顔で手招きをしていて、我々を呼んでいるようでした。妻はすぐに車を飛び出し、その男性の下へ駆け寄っていきました。その男性となにやら話している妻を見ていると、そのお坊さんらしき人が仏塔の前のスペースに車を停めなさいと私に合図をしてきました。『えっ、そんなお寺の前に車を停めて大丈夫なの?』と戸惑いながらも、車を少しバックさせ、お寺の門の前にあるスペースに駐車しました。車から降りると、そのお坊さんは『中を見て行きなさい』と笑顔で誘導されました。私は車が気になりましたが、その男性は『ここに停めておいて大丈夫だから中を見て行きなさい』と言うので言われるがままに仏塔の中へ入っていきました。すると、妻が驚いた表情で『タイやビルマで亡くなった日本の兵隊さんを供養しているみたい』と中の様子を話してくれました。中に入ると、ビルマで亡くなった日本の兵隊の遺品や写真等をたくさん展示していて、背筋がぞくぞくとしました。『これって妻がタイ王国メーホンソンで会った日本の兵隊の幽霊と関係しているのかもしれない。だとしたら、ここに立ち寄ったのは偶然でないかもしれない』と思いました。高野山奥の院で百観音巡礼の掛軸を満願させ、ただ帰宅するだけの帰り道に、このお寺に引き寄せられたということとしか思えなかった。私と妻は中をじっくりまわり、目を合わせ、何度も鳥肌が立っていました。『何故、ここに来たの?』と妻と何度も言葉を交わしていました。その仏塔の外に出ると、私たちを手招きしてくれたお坊さんの姿は消えていました。『あれ、先ほどのお坊さんがいない』辺りを、見回しましたが、忽然といなくなり、狐に抓まれたような気持ちになりました。 


     いつまでもそのお寺の前に車を停めているのが悪い気がして、その後は車に乗り込み、後ろ髪を引かれながら、そのお寺を立ち去りました。車中、ずっと妻とあの不思議な出来事について話していました。妻は『なんで私たちはあの場所に行ったの?』と何度も繰り返していました。私も同じ気持ちで妻の気持ちがとてもよくわかりました。なんだかとても印象深い、百観音巡礼満願の喜びを忘れるぐらいの衝撃を受けながら、帰途につきました。 


高野山 奥の院 最後の御朱印を頂きに向かう。いよいよ満願成就。英霊の供養が完成すると胸に熱い思いを秘めて奥の院へ向かう。

この時、頭上にある標識に全く気付いていませんでした。ビルマ戦没者慰霊塔100Mと。しかしながら、インパール作戦そのものも知らない私は右の奥の院へ向かい、御朱印を頂いたようです。何の戦争かもしらなかったので致し方ないですが...


2010年5月30日 14:07 満願 107ヶ寺の御朱印を完成させた瞬間。これにて日本の兵隊さんの供養は完了した。のはずだったが・・・。



インパール作戦で亡くなった兵隊さんを供養する塔のようでした。全身の毛が逆立っていた。

百観音満願掛軸 関西・関東 長野県善光寺 高野山 全部で107ヶ寺を巡礼した。



7:金沢にて氣視を依頼 


  百観音巡礼も終わり、なんとなく安堵感に浸っていました。が、心のどこかで何かがまだ終っていないような感覚が残っていて、妻も同じ感覚を持っていたようでした。そんなある日、あることを思い出しました。数年前、友人の紹介で氣視(霊視?)が出来る方を紹介してもらったことがありました。当時、私はそのような人に興味がなく、友人が数回誘って下さったにも関わらず、その都度、断っていました。『人の前世が視えるってそんなあほな話どうでもいいわ』と内心思い、友人の話をふんふんと頷きながらも、興味が湧かず、右から左へと聞き流していました。しかしながら、友人があまりにもしつこく、『是非、会ってみなよ』というので致し方なくその方の元へ足を運んでみました。実際に彼を目にしましたが、彼の姿はごくごく普通の方で、何か特別な能力があるようには思いませんでした。しかしながら、彼の口から出てきた言葉は初めて会った人間とは思えないような、他人なら当然ながら知らないような私の実家を絡めた前世の話でした。よくよく考えたら、私は学生の頃、所謂、心霊体験というものを経験済みで、その現象は、現在はほとんどなく、たまにあっても、悩むほどのものではなかったので自分自身がそういった感覚を持っているかどうかさえわかりませんでした。『私って、こういう霊感のようなものってありますか?』と聞くと、彼は笑いながら『ありますね』と答えられました。『やっぱり、そうか』と思いながらも、それがその当時、悩むほど生活に悪影響を及ぼしているわけでもなく、とりとめのないことのように、その時は感じていました。とにかく、霊視のようなことが出来るこのような人が存在しているのかとその時は感心して帰りましたが、急にそんな彼のことを思い出し、彼に会えば今の状況について何かわかるかもしれないと思いついたのでした。まずは妻に、彼の存在と能力について、事前に説明しましたが、あまりピンと来ないようで、百聞は一見にしかずで、妻と子供を金沢にいる彼の元へ連れて行くことにしました。私自身も彼のことが気になり、再会したかったという気持ちも当然のことながらありましたから。  

    

  彼に会うと、妻のことについて話をし始めました。そして、『日本の兵隊さんが今、奥さんの横にいますよ』という話になり、驚きました。その兵隊は滋賀県彦根市の方で〇〇さんという方らしいことを話して下さいました。鮒寿司が大好きで、妻と共に日本に帰還を果たし、その御礼に妻の傍で見守ってくれているということでした。妻も私も驚き、さらにいろいろと彼に質問をしました。なんでも、『その日本の兵隊は交通事故などの危険から妻を守ってくれているようです』とご説明して頂きました。そして、初めて、日本の兵隊と妻が会った時の経緯を詳しくさらに説明して下さいました。タイ王国メーホンソンで休暇を利用して、妻が滞在している時、一人で散歩をしていたらしいです。川にかかる橋を歩いている姿をこの日本の兵隊がじっと見ていたようで、その姿を見て、『この人に助けてもらおう、彼女(妻)とともに日本へ帰ろう』と思ったようでした。妻は滋賀県のある大学へ留学しておりましたので、その日本の兵隊が滋賀県出身だったと聞いた時は、そういうことなんだ?と妙に納得しました。金沢の彼には妻が滋賀県の大学に留学していたことはお伝えしていなかったので、非常に驚きました。御礼を言って、金沢を発ち、自宅へ帰る途中、滋賀県に住む友人の家にひょっとしたら鮒寿司があるかもしれないねと話していると、妻が友人に電話をしました。すると、友人のタイ人女性が『私の家では自家製鮒寿司を作っていて、あるから取りにおいでよ』と招待されました。高速インターチェンジを降りて、友人宅を訪問すると、鮒寿司が用意されていました。妻はタイの田舎料理に似ていることもあり、食べたい衝動にかられ、食べ始めました。妻曰く、美味しくて食べることを止められないとパクパクと食べ続けました。そして、お土産にも頂き、自宅に持ち帰ることになりました。それを見て、改めて金沢の彼の言っていることが本当なのかと妙に腑に落ちました。どちらにしても、日本の兵隊の幽霊が妻に対し、恩義を感じながら、見守ってくれているのなら、それは悪いことではないからそれで良いかとその時は納得し、気にしないようにしました。 

 

 

8:高野山真言宗のご住職との出会い


  高野山奥の院で百観音巡礼の満願を終えた2010年5月末日の3か月前に少し溯りますが、まだ百観音巡礼が満願していない時に、あるタイ料理屋さんが温泉施設でタイフェアーを企画し、2010年3月から5月までの2ヶ月間程度、タイ雑貨の販売を妻に依頼してきました。正直、私としてはたいした利益にもならないし、諸経費を考えると赤字になるから止めといたほうがいいと思いました。しかしながら、妻は利益度外視でそういったことに参加し、日本の方々にタイの文化を楽しんでほしい、知ってほしいという気持ちからタイフェアーに貢献したかったようで、私もそのお手伝いを荷物運送と店舗設置という形で協力させてもらいました。    


   そんなある日、中華系タイ人女性がタイフェアーに訪れました。その際、妻とタイ人同士ということで話す機会があり、妻はその女性に日本の兵隊の幽霊と出会った話や百観音巡礼の話をしたそうです。すると、その女性が帰宅後、高野山真言宗のお寺のご住職であるご主人にその話をしたようでした。次の日、その女性が再びタイフェアーに現れ、ご主人がそういうことなら、一度、お寺に相談に来てみてはということになり、百観音巡礼が終わった後、7月初め頃にご住職とお会いすることになりました。当然のことながら、私も借り出され、妻をそのお寺まで車で送り届けることになりました。その時の私は百観音巡礼を満願させ、供養が終わったと思っていましたので、妻がわざわざそのお寺のご住職に会い、相談する理由もわからず、何かまだする必要があるの?という気持ちで渋々行くことになりました。少しおっかない気持ちもあったからだと思います。  


  そのような流れで、2010年7月初旬 ご縁で繋がったお寺の護摩法要に向かうことになりました。我が家からは車で1時間ぐらい走らせた場所にお寺はありました。高速道路を車で走っている途中、そのお寺の奥さん(中華系タイ人)から妻に電話がかかってきました。なんだか早くお寺に来るようにといった内容でした。妻が『何かあったみたい。お寺に日本の兵隊さんの幽霊が来ている』といった電話の内容だったことを私に話してくれました。私は『そんな馬鹿な?』と思いながらも、とにかく、安全運転でお寺に到着することだけを考え、気を引き締めました。  


   高速道路を降り、一般道を走りながら、道に迷うことなく、なんとか辿り着くことが出来ました。お寺に着くと、敷地が広いせいか、どこに行けばいいかわからず、お寺の奥さんに電話をし、ご住職であるご主人が護摩堂で檀家さんと共にいるということでしたので、そちらに案内してもらいました。護摩堂の中へ案内してもらうと、ご住職が縄を四方に張った場所に薪をくべておられ、時折、火の粉が縄を張った外へ飛び出していました。初めて見る生の護摩焚きに興奮しながら、我々夫婦も檀家の方々と共に車座になって護摩の火を眺めながら、神妙な面持ちでその様子を伺っていました。ご住職は、お経を唱えながら、鬼気迫る勢いで声を出されていました。1時間程経った頃、護摩焚きが終わり、護摩堂から外に出て、大きな集会場に檀家の方々と共に移動しました。時間の頃合いはちょうどお昼で皆さん、昼食を摂り始めました。私たちにも席が用意され、お昼の食事が用意されていましたが、まだ、ご住職とは言葉を交わすことはありませんでした。数名の檀家さんがご住職に挨拶をしたり、何か相談をされているのを横目で見ながら、食事を頂いていました。我々は檀家さんとのお話が済んだ後かなと思い始めていると、突然、ご住職が声をかけて下さり、我々の話を聞かせて頂きましょうかと時間を作って下さいました。  


  妻が話し始めましたが、やはり日本語が不得手でしたので説明に理解しにくい部分が多く、途中交代し、私が妻から聞いた事の次第を話し始めました。タイ王国メーホンソンで妻が会った日本の兵隊の幽霊との出会いの様子や最近やたらと頭の中で見る林に埋設される兵隊の映像について、話をしました。ご住職は黙ってずっと聞いていて、我々の話がおおよそ終わると、ご住職が口を開きました。内容は私たちの話を肯定した上で、ご住職の護摩中に日本の兵隊の幽霊が現れたことを私たちに話してくださり、妻の日本の兵隊の幽霊が引き起こす映像の問題解決に協力をして下さる旨を約束して下さいました。我々は、話を事実と認識して下さる方を見つけたことで、ホッと一安心していました。我々家族で、百観音巡礼を通し、日本の兵隊方を供養してきたわけですが、これが、正しかったのかどうかは確信を得ることが出来ず、この日本の兵隊の幽霊騒動について終わったのだと言い聞かせていたに過ぎなかったので、非常に心強い気持ちにさせられました。そして、その後は、ご住職のご自宅に招かれました。妻とご住職の奥さんは、タイ人同士なので意気投合し、とても楽しそうに話していました。子供が学校から帰宅するのであまり長居は出来ず、自宅に早々と帰宅することになりました。ご住職からはゆっくり時間が取れる時に子供さんと共に来て下さいという話をして下さいました。   御礼を言って、お寺を後にし、自宅に向かって車を走らせていると、10分ぐらいが過ぎた頃、日本の兵隊の幽霊が突然、私の身体に憑依し話をし始めました。妻は初めてみる私の姿に驚き、慌てふためいていました。しかしながら、私は21歳の時に同じ経験をしていたので、それほど驚くこともなく、車を脇に止め、話を聞くことにしました。すると、日本の兵隊は日本に帰りたい旨を伝えてきました。妻はすぐに先程までいたお寺の奥さんに電話で連絡をしてどうしたらいいのかなどを聞いていたのですが、私は『大丈夫。このまま帰ろう。言いたいことは言ったはずだから、帰りは僕がしっかり気を持っていれば問題は無い(憑依されることはない)から』と妻に言い聞かせ、笑顔で話しました。妻も私の余裕の姿を見て、安心したのか、平常心を取り戻し、お寺には大丈夫になったので、そのまま帰宅しますと伝えて、そのまま帰ることにしました。

 

 9:妻の知らない霊媒体質の私  


  実はこういった霊魂が体内に入り、自分以外の誰かが私の身体を使い、話すことは21歳の時に経験済みでした。金沢で霊視出来る男性に私にまつわる霊感の話を聞いて、やっぱりと思ったのは、このせいもありました。   


  そのことについて覚えていることを書いてみたいと思う。私が17歳の時、ちょうど高校2学年が終わり、高校3学年に進級する前の春休みの頃でした。私が寝ていると、ベランダの引き違いサッシが開いたのに気がつきました。それについては不思議な気持ちはなく、『あれ、開いた?』ぐらいにしか思いませんでした。そして、しばらくすると、うつ伏せ状態で寝ていた私は、サッシ側にある右腕が寒くなってきていることに気が付きました。  


   私はサッシが開いたことに対し、何も違和感を持たず、単純に『寒いな。ベランダのサッシが開いて、風が当たるせいかな。窓を閉めよう』と思いました。寝ていたベッドの上から立ち上がろうとした瞬間に、うつ伏せに寝ていた私の背中側の上から大きな力が働き、体がベッドのマットに沈みました。私は何が起きたかもわからず、ただただ必死に立ち上がろうともがいていました。『なんだ、これは!』という感情でいっぱいでした。どのくらいの時間が経ったのかわかりませんが、背中にかかる力が弱まってくるのを感じ、その時まで目さえ開くことが出来なかった私でしたが、目を開くと部屋全体が揺れているのがわかりました。力が完全に弱まり、さっと起き上がると、背中の上部から圧をかけていたものがすっと抜け、部屋の北側の壁に消えていくのがわかりました。部屋を見渡すと揺れていたはずなのに、何も変化も無く、ベランダのサッシも開いておらず、きちんと鍵がかかっていました。私は狐につままれたような気持ちになり、怖いというよりは自分の身に起きた出来事に興味津々になっていました。『なんだったの?』と何度も何度も心の中で独り言を繰り返しました。  


  次の日の朝、両親に昨晩あった出来事を話しましたが、『夢を見ていたんだよ。きっと漫画とかテレビとかの見過ぎなんじゃないの?』と一笑に付されました。私もそうかもしれないなと思いながらも、なんとも言えぬリアルな出来事にどうしても夢だとは思うことが出来ませんでした。しかしながら、当時、大学進学に向けて受験勉強中でしたので、そちらに意識が向くことは徐々に無くなっていきました。  


  そんな出来事が起きてから1年が過ぎようとしていた頃、あることがきっかけとなって、夜に起こる出来事が思い出される瞬間が来ました。私は自分の部屋がある2階への階段を上がる時になると、毎晩、部屋で奇妙な体験をしていることに気が付きました。階段を上がり始めると、夜、部屋で起きている(心霊現象と呼ばれる)出来事を思い出し、なんとかこの状況から抜け出さなくてはと思っていました。部屋では私の掛布団を引っ張られたり、黒い人影が私の上にかぶさり、体内に侵入し、同化し始めるという現象を体験していました。しかしながら、朝になるとそんな記憶が薄れ、両親に相談することもなく、毎日を過ごしていました。そして、階段を上がり始めると、夜の出来事を全て思い出すのでした。なんとなく、階段を上がり始めると引き下がれない自分がいましたし、戻れず、部屋に誘導されているようにも感じました。  


  せっかく奇妙な心霊現象を思い出したこの機会を逃すまいと日中、両親に相談しましたが、やはり相手にもしてくれませんでした。私は仕方がないので自己防衛策をとることにしました。2階の自分の部屋で寝ることを止め、1階のリビングで寝ることをしばらく続けるようにしました。すると、2階にいた黒い人影は機嫌を損ねたようでした。1階で寝るようになった時、私の身体を使って何か行動をするような出来事がありました。おそらく、この時から私の肉体を奪われるようなことが起き始め、私ではない黒い影が私の身体を使う憑依と呼ばれる現象が起こるようになっていたのだと思います。そんなある日、私はイギリスに旅行に行くことがありました。21歳の時でしたが、ホテルの部屋でいつもの黒い影である幽霊が付きまとって来て、困っていました。すると、女性の声がどこからか聞こえてきました。まるで私を良く知っているようで、私は驚き、部屋の隅々を見ましたが、誰もいませんでした。ただ、その声の主である女性が、黒い影の幽霊を追い払い、私を助けてくれました。その時は、恐怖心よりは好奇心が勝り、目の前の現象になす術が無く、茫然として状況を見守るしかありませんでした。 


    そんなある日、その黒い影の正体がわかることが起こりました。そして、私を守って下さっていた女性の声の正体も。ちょうど大学4回生の時に、あるテレビ番組で心霊相談をされているのを家族揃って見ていました。その時、相談者に対し、僧侶であり、霊能者である方が『あなたは幽霊に憑りつかれていません。ご自身がそう思い込んでおられるだけで私には何も視えません』と言われていました。私の中ではものすごくショッキングなことで、『こういうケースもあるんだ。私も何か幽霊だと勘違いしているのかもしれないな』と思いました。すると、その瞬間、誰かが私の身体に入り、話をし始めました。座っていた私は急に立ち上がり、私の意思とは別の誰かが話をし始めたのです。私は驚いていましたが、その瞬間、肉体よりも私の心?魂?がはみ出して後ろに下がったような感覚での視界が目の前にありました。『これってなんだ?』と思っている私がいて、声を張り上げて何かを話している私がいて、まるで2人の人間が一つの身体を使っているような感じで、その時は誰かが私の身体を使っているといった感じでした。感情は昂り、激しく言葉を使う私の身体とは真逆に、私自身は平常心を保ち、自分のしている状況を冷静に見ていました。しばらくすると、その私を支配していた黒い影が抜け、今度は私を黒い影から救って下さった女性が私の中に入り、私の両親に何やら話していました。言いたいことを言った2名が抜けた後は、私の意識は自分の肉体に戻り、我を取り戻していました。両親は何を思ったか、4年強、私の言葉を信じなかったのに、友人・知人を通して、霊能者を探し出し、私をその霊能者の元へ連れて行くことになりました。  


  これが私にとって初めての霊能者と呼ばれる人との出会いでした。その方の家に着き、玄関に入るやいなや、すでに黒い影は私に入り、態度が変化していくのが、わかりました。とても嫌な感情が入ってきて・・・、恨みの対象者がわかってしまいました。そして、その霊能者の方が名前を言われると、黒い影が話を始めました。私も知っている名前の方でしたので、霊能者ってすごいなと思いました。初めてお会いする人なのに、なぜそんなことがわかるのかと興味が湧きました。しばらく話した後は、ある結論に達し、私が黒い影の気持ちを汲んで供養の為に西国33か所巡礼の旅をすることになりました。そして、全ての巡礼を終えようと華厳寺33番札所に訪れた際にその参道で見た百観音巡礼の掛け軸を見て、いつかまだ見ぬ家族と一緒に将来やってみたいなと思っていたことが、妻の元に現れた日本の兵隊の幽霊の供養を通して叶ったのでした。 


   そんな若い時の経験から憑依現象というものを経験済みだったので高野山真言宗のお寺を出た後の憑依現象に対し、妻のような驚きはなく、落ち着いて対処が出来ました。とはいえ20年も前の出来事でしたので、懐かしい出来事ではありましたが。 



 10:急展開 日本の兵隊からの帰還依頼が始まる


  先日のお寺訪問の憑依現象の後、よくその日本の兵隊の幽霊が私に訴えかけてきました。時間帯も関係なく、昼夜問わずでした。『どうしても日本に帰りたい』といった内容で私を説き伏せるような勢いでした。その頻度は増し、自宅リビングでも私に話しかけてきている様子を見て、妻も徐々に焦り始めていました。お寺の奥さん、ご住職に連絡をし、さっそく、2回目の訪問をさせて頂きました。すると、ご住職もその地域に関する戦争の本を沢山読んでおられたようで、本堂横にあるご自宅の玄関には今回の日本の兵隊(インパール作戦)に関わる本が、幾冊か置かれているが目に入りました。  


  台所リビングに招かれ、ご住職他、別のお寺から来て下さったお坊様も対面することとなりました。ご住職は『慰霊しなければならない英霊の数が多いようだから、お坊様を10数名ぐらい集めて行くようにします』と話を始めました。 


   私はその時に初めて、英霊という言葉を耳にしました。英霊とは何なのか? ネットで調べると、戦死者の霊を敬っていう語となっていました。この時から、この言葉をよく耳にするようになっていきました。 


   ご住職との話し合いの中では、『夏はお寺の催事事が多く、10名以上ものお坊様を集めるまでに時間調整が必要で、早くて来年2011年の3月くらいが宜しいのではないでしょうか』という話が出てきました。お坊様にお声掛けやいろいろと私どもの知らない世界での遣り取りなどをして下さっていたようで、私自身も他人事みたいな気持ちだったのですが、徐々にその動きの中心人物であることに今更ながら自覚し始めていました。元々は、妻を中心に事が運ばれていると思っていました。私がこの出来事でお寺にご相談させて頂いた訳でもなかったので、事がたいそうになることを望んでいなかったのが本音でした。しかし、ご住職側からみると、憑依が起こるようになってからは私が重要人物のように思われていたようで、それに対し、私は少し無責任な素振りを装い、事の様子を伺っていました。 

  

  一方、妻の方も頭の中に出てくる日本の兵隊の遺体を埋設する映像と場所の符合が、情報収集する中で徐々に明確になっていきました。私が日中、仕事に出ている間、妻は場所の特定をしながら、どこに向かったらいいのかなどを調べていました。最終的にタイ王国のウェブサイトで情報収集しながら、史実と頭の中の映像の合致を確認し、その場所は妻がタイ王国メーホンソンのパボーン地区で日本の兵隊の幽霊と出会ったリゾートホテルであることがわかりました。そこで、そのリゾートホテルのオーナーに連絡を取り、事情を説明すると、日本の兵隊の幽霊がホテル内で出没しなくなるのであれば、ホテル側としても嬉しいですし、是非、ホテルの部屋を無料でお使い下さいということになりました。ホテルのオーナーも従業員や宿泊客からの日本の兵隊の幽霊の目撃情報を耳にしていたようでした。  


  時が経つにつれ、日々、日本の兵隊は我々夫婦に早期帰国を申し出てきました。私の感覚としてはお盆を目処としているような気がしました。その旨をお寺のご住職に連絡すると、お盆は忙しいのでお盆過ぎにタイ王国メーホンソンへ少数精鋭で行きましょうかとご提案して下さいました。ご住職がお声掛けしたのは3名のお坊様でした。福井県、大阪市、愛媛県のお坊様とご住職という4名でした。しかしながら、福井県におられるお坊様は最終的に日程調整が難しく2名のお坊様とご住職、その奥さん、私と妻の6名で現地に行くことに決まりました。  


  私としては、トントン拍子に話が進み、タイ王国で出会った日本の兵隊の幽霊と妻が会った場所にお坊様の皆様と行くことなど想像すらしていなかったことでしたので、急な展開に戸惑っていました。お金のかかることでもあるし、皆さんの飛行機代やら宿泊施設、御礼などいろいろなことが頭をよぎり、どうしようかと悩んでいました。すると、それを察してか、『全て旅費はこちらが自費で行きますので、何の心配もありませんので安心して下さい』とご住職から声をかけてくださいました。正直、御礼を含めると数百万円の費用がかかるのではないかと気が気でなく、何故こんなことまで背負い込まなくてはいけないのかと思い悩んでいました。ご住職は、これは我々の本来の務めですからと言って下さり、仏門に入られた方の尊い精神みたいなものを感じさせて頂くことになりました。しかしながら、一体、現地でどんなことが起こるのかと思うと、不謹慎にもワクワクするのでした。ですので、まだまだ、この時点でも他人事であったと思います。  


  7月はいろいろな動きが出てきました。まずはタイ王国側。妻の親戚の繋がりで霊媒者と繋がり、その方が協力してくれていて、なにやら国際電話を通して、妻に現地の状況について連絡が来始めていました。正直、どこまでそんな眉唾な話を信じていいかわからなかったですし、既に非現実的な状況に身を置くこととなっていましたが、私と妻の環境が劇的に百観音巡礼満願と共に動き始めていたのがよくわかりました。タイ王国側の霊媒者からの情報の是非についてはその時点で判断することも、思慮深く考察することも出来なかった。


11:あの時の高野山のお寺へ


  そんな中、お世話になっている高野山真言宗H寺のご住職から連絡が入りました。もし良かったら高野山で慰霊祭が7月15日に行なわれ、多くの帰還兵が集まっておられるのでそこに行ってみませんか?というお話でした。我々は是非、帰還兵の人々とお会いしたいとご返事させて頂き、朝早くからH寺ご住職とその奥様、それに大阪市にあるお寺からご協力頂いているお坊様と行くことになりました。ここで私が帰還兵とお会いして、話が聞きたい理由は嫁の元に来ている日本の兵隊の幽霊が見せている妻の頭の中の映像の事実確認をしたかったからでした。高野山への道のりは一般道で傾斜がきつくカーブの多い道しかなく、楽な近道といったものが無いので少し行くのに時間がかかりました。  


  高野山には、過去数度来たことがありました。初めは、子供の時に父の無線仲間の1人がお寺のご住職で、宿坊に泊まらせて頂いたことがあるのを思い出しました。覚えていることといえば、透明な吸い物と座禅、そして日本庭園でした。この日本庭園が素晴らしく子供の私であっても綺麗だったなと40年弱経った今でも記憶に残るぐらいでした。その他にはお坊様の世界を観光目的で数度、両親が連れて行ってくれたり、大学生の時に友人とドライブで来たりしたぐらいでした。だからこそ、高野山が観光地のように感じ、百観音巡礼の最後の地としては選びたくなかったのかもしれません。要は、私の間違った世界観で軽い場所に思えて、誠実に供養の心を込めて回った巡礼と高野山を結びつけることが出来ないでいたのだと思います。しかしながら、今回の高野山訪問を通して私の想っていた軽いイメージは払拭され、多くの戦没者が奥の院にある慰霊塔に祀られている心安らぐ仏教の聖地であるというイメージに変化していきました。


   高野山に到着し、見覚えのあるお寺の前に止まりました。そこは百観音巡礼を高野山奥の院で満願させ、その帰りに眼に留まり、お坊様のような男性に手招きされ、立ち寄ったあのお寺でした。驚きで、心中では『冗談でしょ?』と何度も繰り返していました。妻も同じ気持ちであったと思います。そのお寺は高野山金剛峰寺を総本山とする高野山真言宗のお寺の一つであり、我々が眼に留まったビルマ形式の建物は摩尼宝塔(まにほうとう)といって、ビルマやタイ王国他で命を落とした日本の兵隊方を供養する為に建立されたものでした。訪れたお寺のお坊様に案内され、初めてお寺の中へ入らせて頂きました。すると、部屋の引戸が開いていて、帰還兵らしき年配の男性方やご遺族の方が何やら話している姿を見ることができました。印象としては、やはり戦争を潜り抜けてきた方だけがもつ独特の空気を持っているように感じました。先頭を歩くH寺ご住職が高野山のお寺のお坊様とご挨拶をして、お寺の奥にある一室に案内されていました。なんでも応接間に通して下さるとか。お寺の応接間に入る機会は私の人生の中で過去一度も無かっただけにかなり緊張しました。徐々にたいそうなことになり、身分不相応という言葉は適切ではありませんが、私のような宗教とは無縁なものがこういったお部屋に通されてご住職らと共にいてもいいのだろうかと思い始めていました。 


    お坊様からコーヒーを出され頂きましたが、緊張の為かうまく喉を通らないし、味もしなかった。しばらくして高野山のお寺のご住職が現れました。H寺ご住職が挨拶をし、今回の日本の兵隊の幽霊からの日本への帰還依頼について話をして下さいました。慰霊を望んでいるといった旨から話はスタートし、妻が見た頭の中の映像や場所について、帰還兵に聞くことによって確認したいといった旨をH寺ご住職から高野山J院ご住職にお願いをしました。すると、その日は京都から、1人の帰還兵が来られていて、メーホンソンのことについても知っているらしく、その方とお話出来るように話を通して下さいました。 


   1人の男性が応接間に通されてきた。背はそれほど高くなく、戦時中の日本人男性の背の高さというものを感じました。彼は年齢的に90歳を超えておられていましたが、とてもしっかりとした口調でとても話し易く感じました。さっそく、妻が見た映像について話し始め、場所についても詳しく説明してみました。すると、帰還兵である男性は『そうですな。そうだと思います。いやぁ、こういう人がいるなら、写真や戦没者名簿など残しておけばよかった。もう後先長くないと思って、身辺整理していましてね。写真などはほとんど処分しました。戦没者名簿もどこかに寄贈したはずです。子供らに当時の話や写真を見せても興味もないだろうしね。捨てたんですね。もしあれば、J院にご連絡させて頂きます』と話してくれました。 


   妻の頭の中の映像と帰還兵の記憶が符合し、H寺ご住職はますますタイ王国に慰霊に行くことに意欲を増したように見えました。ご住職は最初に我々夫婦と会う日に日本の兵隊の幽霊がお寺に来たことから、我々の話の真偽を判断され、慰霊に行くことをお決めになられましたが、今回の高野山J院において帰還兵との記憶との符合を得ることによって、さらに確証を得て、タイ王国に慰霊に伺う意志を強固にしたようでした。   


  ご住職たちと共に高野山からH寺に戻り、夕飯を一緒に頂きました。日本の兵隊の現れる頻度が多くなってきたことで最終的に2011年3月ぐらいに行く話から2010年8月26日に、揃ってタイ王国メーホンソンへ行くことになりました。妻と子供は夏休みに入ると同時にタイ王国チェンマイに出発。私も一度お盆にタイ王国に行きますが、仕事の関係上、お盆過ぎに一旦帰国し、ご住職たちと共にタイ王国へ再訪問することになりました。妻は現地で私を含めたお坊様たちをチェンマイ空港で迎える段取りをしてもらうことになりました。H寺ご住職との話はまとまり、お寺を後にし、帰宅すると、その日の出来事について妻と話をしました。百観音巡礼の旅の最後に引き寄せられたような高野山J院に再び訪れたことがまず初めに驚いたことで、百観音巡礼の最後に高野山奥の院に行ったことの意味を知ったような気持ちになりました。高野山には外地の魂を引き寄せる力があると以前、人伝に聞いたことも思い出しました。高野山で百観音巡礼の掛軸の完成をすることを躊躇していたはずなのに、最終的に高野山奥の院に導かれたこと。そして、その帰りに高野山J院に偶然立ち寄ったこと。そして、タイフェアで出会ったH寺ご住職の奥様とのご縁から高野山真言宗のお寺に訪問し、今回の高野山J院への訪問に繋がったこと。全てがお膳立てされているかのように感じることが出来たことは我々夫婦にとってはたいへんインパクトのあることで、とても偶然ではない不思議な力が働いたような気が致しました。百観音巡礼を終えた時点からの急な展開に思考がついていかず、ただただ、流れに乗ったという他ありません。もし、仮に考える時間があれば、逆に考え過ぎて、躊躇することが多く、事の全てがスムーズに進まなかった、もしくは、全ての出来事から逃避していたかもしれません。   


  子供が夏休みに入り、妻と子供は先にタイ王国チェンマイへ帰ることになりました。その後、お盆前まで私はひたすら働くこととなりますが、1人自宅で寝ている時に、急におっかない感情が芽生えてきて、トイレに行くのも恐怖心が全面に出てくるようになっていきました。一つ一つ部屋の照明をつけ、トイレまで行くのですが、明かりがついていても、突然消えて、ドロロ~ンと兵隊の幽霊が出てきたら、どうしようか?などとかなり臆病風に吹かれることもありました。兵隊が我が家に来た目的を知っていたとしても、怖いものは怖いですし、こういう見えない世界に精通していない人であれば、私の恐怖心を理解して頂けると思います。しかし、段階はありますが、一番、私が幽霊に対し恐怖心が薄れたのは、彼から伝わる言葉と思いを知り、普通に生きている人間と同じように相手の気持ちを聞き、話しているような感覚になったからだと思います。そこで、相手が幽霊といった存在ではなくなったのだと思います。『あー、そうだよね。海外で死んだけど、日本に戻りたいよね。わかるわぁ』と理解出来、彼らの気持ちに同調したからだと思います。それに、日本の兵隊の幽霊側としたら、生きている人間であり故郷の国の人々に、どうやって彼らの状況と存在を知らせることが出来、現実的に彼らの場所に来て日本に連れて行って貰えるかが、ポイントであったはずです。怖がらせるつもりも全くないのだけども、どうしても生きている人間側は幽霊だから怖いと思ってしまうことに最大限配慮していることが、すごく伝わってきたことも私の心を恐怖という呪縛から解いて下さった要因の一つだと思います。ただ、海外の戦地に迎えに来てくれそうな人を見つけてしまうと、何度も伝えようとしてくるので、空回りになることもあったと思うので、私のような能天気な人間にはうってつけだったのかもしれません。だからこそ、必死になって、私に訴えかけてきたのだと思います。そんな気持ちの変化から、私は、日本の兵隊方を友人もしくは仲間として捉えるようにしました。もちろん、現実的に生きているので、彼の要望は基本的に無理難題で、不満・文句は出ますが、そこは、彼らと我々夫婦との間で後々(私の死後)笑い話になればと思っていますが。

       

  それからは、よく私からも日本の兵隊方に声掛けをするように心がけました。『待っていて下さい。必ず行きますので、安心して下さいね』   


   妻がタイ王国に帰国してから日本にいる私に何度か国際電話があり、8月26日お坊様がタイ王国メーホンソンへ来る時に、チェンマイ空港で10~12人乗りの車をドライバーと共に用意して待っているとの段取りを聞き、そこから車でミャンマー側との国境方面に向かって車で4時間移動したメーホンソンへ、皆さんと共に移動することをお寺のご住職に連絡しました。あとは私がお盆休みを利用して、先にタイ王国チェンマイに行き、メーホンソンについて何か日本の兵隊の情報があればと思うばかりでした。 

  



12:日本の兵隊の名前 ”はしもと ゆうや”  


  少し早めの盆休みということで日本から飛行機に乗ってタイ王国バンコクまで行き、そこから飛行機を乗り換え、タイ王国北部にある街、チェンマイ空港に向かいました。バンコクでは乗り換えの待ち時間が3時間程あり、一連の出来事の流れを見直していると、改めて、有り得ない展開に思い込むことが多くなった。『チェンマイに行けば何かあるのだろうか?』などといろいろな想像が頭の中で過ぎりました。バンコクからチェンマイまで飛行機で1時間前後の移動が過ぎ、チェンマイ空港に降り立った時は今までの過去に来たタイ王国チェンマイの空気とは全く違ったものを感じている自分自身がいました。そして、観光・休暇ではないという気持ちを持っていました。出国出口に行くと、妻がいつも通り待っていて、車に荷物を載せました。助手席に座り、妻の運転で空港の外へ出ると、相変わらずの暑さでしたが、日本のように湿度が高いわけではないので、陽ざしがきついが息苦しさはなかった。空は青く、雲が少なかった。妻からはさっそく様々な日本の兵隊の情報が飛び出してきた。やはり、電話越しで話を聞くより、直接、聞く方が、届く内容も違うように感じました。まずは、タイの霊媒者がいるので、その人の所に行きましょうと妻に言われました。  


   妻の実家に到着し、3週間ぶりに子供に会うが、子供の口から日本語が出てこないようでした。彼は元々、タイ王国で4歳近くまで育っていたので、この時点では日本語が第二外国語でした。1年以上、日本に居たとは言え、タイ王国に戻れば、共に育ち遊んだ友人・親類が周囲に大勢いる為、彼の感覚と言葉は一気にタイ王国での生活に舞い戻ったようでした。私としては少し寂しい気持ちもしましたが、活き活きと目を輝かせながら、気のおけない親類・友人と楽しそうに動き回る姿を見ると、戻れる場所があるというのはすごく良いことだなと思いました。妻の両親・親類・ご近所に挨拶し、その日の晩は皆で近くのレストランで宴会をしました。日本の我が家ではあまりない大人数の食事会はとても楽しい気分にさせてくれました。が、相変わらずタイ語がまったく理解できない私は会話の内容がわからず、そして、妻の通訳もほとんどなく、ひたすら雰囲気のみで笑うのでした。 

  

  次の日からいろんな場所に行き、いろんな人にご挨拶することになりました。妻の友人達との飲み会、食事会にも参加し、最後にタイ人の霊媒者にお会いすることになりました。

   

  タイ人の霊媒者とお会いした時のことに触れてみたいと思います。正直、タイの霊媒者と聞いて、疑いの目で見ていました。相手の都合を確認しながら、チェンマイに住んでいる霊媒者の家に行くことになりました。女性の年齢は40代後半ぐらいでした。彼女の部屋に入れてもらい、『この部屋はどう感じますか?』と聞かれ、確かに空気というか空間が澄んでいる感じがしていたので『すごく澄んだ感じですね』と答えました。彼女は笑顔を浮かべました。『この部屋は結界が張ってあるから未浄化な霊魂は入ってこれないの』と私に言いました。私はただ頷くしかなかった。部屋の中には妻、従姉妹、他数名がいて、何かの儀式をするのにお坊さんを連れてくるように手配を始めているようでした。その間、タイ語のわからない私は、ただただじっとしていたのですが、他の人たちは結構盛んにお話をしていました。と言うのも、その霊媒者の体内に神様が入っているらしく、様々な質問を周囲の人がしているということでした。私から見た印象は正直、神様とは思いませんでした。ひょっとしたら、この国での神様と私が想像する神様とは違うのかもしれません。では、『私の想像する神様って何なの?』と聞かれると、正直わかりません。だけど、漠然として、決して我々が悩みとしている質問を『ああです。こうです』といちいち話す神様はいないような気がしていました。だから、彼女の中に何が入っているのかは、私にはわかりませんでした。とにかく、冷静な目を持って、必要な、これは正しいなと思うものだけを参考にするに留めるだけにしました。盲目に何でも信じるのは嫌いでしたので。   


  しばらくすると、タイのお坊様がやってきました。そして、霊媒者が『この部屋のドアの外で日本の兵隊さんが待っています。これから、彼をこの部屋に通します。あなたの身体に入れて話をさせますので、心の準備をしてください』と言われました。思わず、私は妻に向かって、『俺にそんなことできるわけないやん!無理、無理!』と言っていると、誰かが私の身体に入ったのがわかりました。すると、なんと私とは違う誰か私の口を使って話を始めました。名前はハシモト ユウヤと名乗り、早く迎えに来て欲しいと訴えかけてきました。途中、名前を漢字で書かせようとして、妻や周囲の人がペンと紙を用意しましたが、入ってきた日本の兵隊が私の腕をうまく使うことができず、ペンを投げ捨てていました。私はその間、自分の意識は身体にあるけど、違う人が使っている状態であるということはよくわかりました。それからあれこれと妻が聞いていましたが、この備忘録を書き始めた今となっては、詳しくまで何を話していたか忘れてしまいました。ただ、最後は『8月27日に(そちらに迎えに)行きますから』と言うと、『頼みます』と言ったのははっきりと覚えています。我に戻った私は、『霊媒者って、人の身体に霊魂を入れることが出来るんだ』と感心しました。少なくとも私の口が言葉を発しましたが、私が話したわけではないことは自分自身のことなので十分わかりました。身体から霊魂が出ると、何だかドッと疲れが出て、倒れそうになり、力が抜けて自分の精力みたいなものが取られた(使われた)ような感じになりました。    


  この後もあれこれと諸用事があり、ほとんどが日本の兵隊の幽霊に関することで行動をしていました。短いお盆休みをこんな感じで過ごした私は、帰国数日前からボヤキが口から出ていたし、心の中も不満だらけになっていました。昨年の夏までは常にどこかに遊びに行っていたのに、今回はどこにも行っていないという気持ちが膨らんでしまったのです。それに、身体の調子が悪いし、まるでエネルギーが毎日吸い取られているような感覚に陥り、身体に力が入らなくなっていました。帰国前日の朝、寝ていると、大きな声で私を起こす声がしました。『 〇〇さん(著者)!チェンマイは遊ぶところ、たくさんありますよ!今日は遊んでください!!早く起きて』と言いながら、私の身体を1m以上引っ張ったのです。目を開けると、自分の身体は元の寝ている位置にあり、『嘘だ!』と大声を上げていました。『俺は引っ張られて1m以上は移動したはずなのに、そのままの寝ていた位置にいるじゃないか。しかも、あの声はどこから聞こえてきたんだ!』とあたふたしていると、妻が横で起き上がり、『どうしたの?!大きな声を出して』と声を掛けてきました。『いや、起されたんだよ。それにかなり引っ張られたはずなのに、そのままの場所にいるねん』と言うと、妻はチンプンカンプンのような表情で私を見つめていました。すると、突然、日本の兵隊が話しかけてきました。『〇〇さん(著者)、ほんとうに我々の為に時間を使って頂きありがとうございます。ほんとうに申し訳ありません』と私の身体を使って話し始めました。妻はすかさず、『ハシモトユウヤさんですね。8月27日そちらに向かいますので、もう少しお待ち下さいね』と言うと、ハシモトさんは『ありがとうございます。このご恩は忘れません』といった旨を話してくれました。そんな出来事が最後の日にあり非常に驚きました。その日は、お言葉に甘えて、嫁の実家がある郊外からチェンマイ市内まで行き、チェンマイ在住の日本人男性と食事を楽しんできました。決して満足が出来たわけではないが、ハシモトさんの心中察すると、私の心も弛んでいる場合じゃないと自分を戒める他ありませんでした。そして、次の日、一旦、日本に戻り、仕事を終わらせ、ご住職方々と再びタイ王国へ行く準備をするのでした。  



13:日本の兵隊が呼ぶ場所メーホンソンへ  


  日本に帰国すると、早速、H寺のご住職と連絡を取りました。タイ王国チェンマイでハシモトユウヤと名乗る日本の兵隊と話したこと。彼に8月27日行く旨を伝えたこと等々。だが、ここで残念なお知らせをする必要がありました。それはご住職方々と同じ飛行機の便の座席がいくら探しても取れなかったことでした。同じ便で行かないと意味がない。現地では車もドライバーも用意していましたので、一人遅れるということは最小限に被害を考えても半日以上のロスが出ます。当時、妻は『貴方がいなくても大丈夫。お坊様が行けば問題ない』と言っていましたが、その旨をお伝えすると、H寺ご住職の反応はやはり違いました。私が行かなければ、うまく事が運ばないと思っていたようです。その裏付けがH寺に行った日から日本の兵隊が私に頻繁に話しかけてきていたからだと思います。私はご住職の反応にプレッシャーを感じましたし、私自身が一番行きたいと思っていましたし。ハシモトさんはH寺に行った日からずっと日本への帰還を訴えてきておられたし、このような霊との交流に際し、私の中で湧き出てくる不安や恐怖心に対し、気遣いまでしてくれたりと様々なやりとりの積み重ねが時を越えた友情に近い感情や仲間意識を持つまでになりましたので、行きたいという気持ちで8月26日の同じ飛行機に乗れるように、あちこちの旅行会社に電話をしていました。しかしながら、どの旅行会社もお坊様方々が乗る飛行機の便に対し、全て満席の回答しか得られませんでした。半ば、諦めかけてきた頃、不意に一番初めに電話した旅行会社に電話をしなくてはならないような気持ちが湧いてきました。あの時は本当に不思議な瞬間でした。でも、初めて電話をしたときは満席で無理ですとはっきりと断られていたのとキャンセル待ちの人が数名おられることを聞いていましたので、なぜ電話をその会社にしてみようと思ったのかはわかりませんでした。恐る恐る電話をして、『8月26日の深夜便1名、座席空いていませんか?』と聞くと、『あります。キャンセルが出たようですね』と回答してくれました。耳を疑いましたが、その座席を失ってはダメだと思い、『予約します!』とすぐに座席確保に動き、なんと1席確保出来ました。早速、ご住職に連絡を取り、座席が一つ空きましたので同じ便で行けることになった旨をお伝えすると、ご住職も安堵したご様子で『では、関西空港で8時に会いましょう』ということになりました。お盆より日本へ帰国し、8月26日までの間、ただひたすら仕事を頑張り、なんとか仕事を終わらせ、空港に向かいました。人生で1ヶ月の間に海外に2回も行くことなど経験が無かったので、そんなことをしている自分ってスゴイ事をやっているなと思うばかりでした。あと、さらにお坊様とご一緒に海外に行くということも私の生涯では考えもしなかったことでしたので、弥が上にも興奮度が高まりました。しかも、日本の兵隊の幽霊を日本に連れて帰る為と供養の為に行くという内容が自分の中では非現実的なことで未知な世界に踏み込んでいるようでした。これで無事、向こうで日本の兵隊ハシモトさんと会い、日本へ御霊を連れて帰ることができれば、私にとっても、これほど嬉しいことはないと思うのでした。  

 

   やっとの思いで手にした航空券を握りしめながら、H寺ご住職たちとの待ち合わせ場所である関西空港に到着しました。しばらくすると、ご住職、お坊様2名そしてご住職の奥様が姿を現しました。一時は私自身がタイ王国に同行できるかどうかというところだったので皆さんの姿を見た時はたいへん感慨深いものとなりました。人生初のお坊様との旅。それだけでエキサイティングな気持ちが昂りました。  


  関西空港からは道中5名ということでとても和やかな雰囲気でした。大人数で行くよりは最小限の人数で行動するほうがまとまりやすく動きやすいという意味でも今回の旅は良かったと思いました。いつもは一人で飛行機に乗ってタイ王国へ行き、一人で先に日本へ帰るということが多かったのですが、誰かとご一緒して移動するという旅が、いつもなら長く感じる時間をアッという間に過ぎさせてくれました。飛行時間は乗り換えを含めて6時間半。待ち時間を含めると半日はたっぷりかかる移動時間には変わりがありませんでした。  


   旅発った次の日の朝、チェンマイ空港へ無事到着。空港の外に出ると妻が待っていました。自然と気が引き締まりました。空港の間には車が止まっていて、大きなバンが頼もしく見えました。早速ドライバーさんが荷物を車に載せて皆さんが乗り込みました。私は助手席に座り、妻は後部座席の一番前に座りました。車内に入ると、ドライバーさんと妻が我々を満面の笑みで迎えてくれ、旅の先行きを明るいものにしてくれました。妻にとってはタイ王国にいる一か月間、この日のために準備をしていたので、『待っていました』という感じだったと思います。日本からわざわざお坊様が我々の話をお聞き下さって来るのですから、嬉しかったに違いありません。 

  

  車はタイ王国メーホンソンにそのまま向かうことになりました。空港を降りてからの休憩が無かったのが気になりましたが、車内で寝ることも可能ですし、お腹が空けば、途中でレストランに寄って何かを食べようということで話がまとまりました。何よりも時間がやはり限られていましたので、致し方ないという状況ではありました。また、そういった状況に直面することは皆さんある程度は覚悟の上だったので不平不満を言う人は誰一人いませんでした。  


  チェンマイ空港からの今回の慰霊地であるメーホンソンへの移動には、車では北回りか南回りかのどちらか一方しかなく、直線的に行く道路はありませんでした。位置関係でいうと、目的地メーホンソンは、チェンマイのやや東北側に位置しているような感じになります。その間には大きな山々があって、どうしても、その山々を北側か南側で迂回しなければなりませんでした。ですので、2通りの行き方しか選択肢がありませんでした。チェンマイ市内や周辺に住む人たちは北回りルートを選ぶ方が圧倒的に多かった。北回りだとパイ市といって、バックパッカーの聖地のような居心地の良い田舎街があるので、観光コースとしては北回りをオススメするところでありました。私自身もパイという街が好きで、独身ならば、何も考えず呆けて日々を過ごしたいなと思うような魅力的な街でした。ちなみに南ルートも説明しておくと、途中、クンユアムという街があり、この街を抜けて多くの日本の兵隊がビルマより敗走してきたという話です。もちろん、北側ルートにも敗走してきた日本の兵隊もおられたようです。ですので、第二次世界大戦時、タイ側での白骨街道と呼ばれるくらい多くの日本の兵隊が道端で倒れ、白骨化していたようです。  


   北ルート・南ルートどちらともに言えることですが、ヘアピン道路の連続で車酔しやすい人にとっては地獄の道のりとも言えました。しかし、風景と眺めが良く、写真撮影には非常に良い道のりでした。走行は車に力が無ければ、アップダウンがきつい道でしたので、遅い車はすぐに追い抜かれていました。カーブが多いので視界が悪く、追い抜きはかなり危険に見えましたが、初めからドライバーの人たちはそれを見越しての運転しているので意外に事故は見たことがありませんでした。どちらかというと、エンジントラブルで車が動かなくなる方が多いのかもしれません。  


  車中、ご住職が中国人の民族の村に行きましょうと提案して下さいました。どうも一度行ったことがあるようで、よくよく話を聞くと、ご住職はタイに数年、台湾にも数年、僧侶留学をしていたようでタイ語、中国語ともに堪能でいらっしゃいました。 昼食を摂る為、中国人の民族が住む村のレストランへ立ち寄りました。我々が普段食している中国料理というよりは中国のローカルエリアに住む民族の料理で、どれもこれも見たことのないような食べ物でした。味は日本に無い味で、正直、私の口には合いませんでした。唯一食べられたのは蒸しパンのような丸いもので、肉まんの中身の無い感じです。味も何もなく、とりあえず、口の中に突っ込むだけの食事となりました。私以外の方々は、スープがある料理に蒸しパンをつけて食べておられました。次に観光地化されつつあるパイ市へ。そこで妻がつまみ食い程度の食べ物を買っていたようでした。どちらの料理にしても私にとっては食するには厳しいものであることには違いなかった。 

   


  思った以上に我々を乗せた車はスムーズに進み、メーホンソン市内には明るい内に到着することが出来ました。お坊様たちが明日の為に供物や儀式で使う食器類他、何かで使うであろうものがたくさん買われました。こういった仏具関係のものを売るお店というのはタイ国内にはたくさんあって、普段からよく多くのタイ人が利用するのがわかりました。買い物が済むと、目的地であるリゾートホテルに行って少し休憩しましょうということになりました。    


  ホテルに到着し、無事、目的地まで辿りつけたことに安堵しました。実はこの時期は雨が多く、その日も天気が崩れそうでしたが、何とか雨も降らず、ホテルに辿り着けたことは本当に運が良かった。また、明日から始まる慰霊の催事も天候に少なからず左右するのではないかと心配していたので、何とか天候がもつように手を合わせました。 

  

  荷物を車から下ろし、ホテルのフロントへと運び込みました。ホテルスタッフには我々がこちらで日本の兵隊の幽霊を供養する旨が事前に伝えられていたので、首尾よく動いて下さりました。部屋の場所は中庭を挟んだ反対側の建物だと言われ、我々は中庭を横切りながら部屋に向かいました。その時、不意にホテルの敷地の横にある川に引っ張られるような感覚に襲われ、少し怖い思いをしました。部屋に行くと、妻が『あの部屋で私が寝ていた時に日本の兵隊の幽霊が現れました』と指をさしました。それを聞かされた時はぞくっとして、息を呑みました。その日本の兵隊の幽霊が現れた部屋は、我々に用意された部屋の隣でした。その隣の部屋にはH寺ご住職と愛媛県J寺ご住職の2名が寝泊りすることとなりました。そして、その次の部屋が私の妻とご住職の奥様が宿泊することに、そして最後の川沿いの部屋が私と大阪市内から来て下さったお坊様でした。荷物を部屋に入れると、各々、シャワーを浴び、一息つくこととなりました。夕方まで少し時間があったので、それまでは自由時間で、部屋でゆっくりと休むことになりました。とはいうものの、皆さん、シャワーを浴びた後は、なにやら落ち着かない様子で、一つの部屋に集まり、次の日のことを話したり、準備したり、雑談をしたりと疲れよりも緊張感の方が勝っている様子でした。きっと、何やら見えない気配を感じ始めていたのかもしれません。   


  夕方になり、皆さん、楽な服装になって、車に乗り込み、少しだけ離れた市内へ移動しました。メーホンソンと言えば、風光明媚なジョンカム湖周辺が一番リラックス出来、観光客、住民問わず、ゆっくり夜を楽しむことが出来るところでした。特に本当に古き良き時代の代名詞のような雰囲気のある場所で屋台が立ち並び、とにかく居心地が良い所でした。私はメーホンソンのこの場所が好きで妻と何度も来たことがありました。ご住職はタイでの修行時にタイの食べ物を知り尽くしていたようで、ワンタンスープを勧めて下さいました。私はいつもバーミー麺(たまご麺)とクッティアオ麺(米麺)の両方を選び、タイラーメンを2杯楽しんでいたのですが、麺抜きのワンタンスープをせっかくお勧め頂いたので、それを頂くことにしました。  

 

 

   屋台ですので、簡易テーブルに簡易イスに座って食べるのが当たり前で、この雑さが気を張る必要が無く、肩肘張らず食べられるのが、私にとってはとても新鮮で快適に感じました。ワンタンスープは麺が無い分、ワンタンが多く、当たり前のことですが、ワンタンの美味しさを楽しむことが出来ました。タイのスープの味は日本人の味覚に合っているので、たいへん美味しく頂けました。他の皆さんも同じものを食べたり、妻とご住職の奥さんはタイ人なので思い思いの好きな郷土料理を食べていました。   このメーホンソンにあるジョンカム湖やその対岸にあるジョンカム寺院は夜の方が賑やかで第二次世界大戦時も同じような風景が見られたのではないかと想像していました。しかしながら、当時ミャンマーから逃げてきて多くの日本の兵隊がここで亡くなったのだと思うと、そんなゆったりとした気持ちはなく、生きるか死ぬかの意識朦朧の中で生を掴むために必死に毎日を生き抜こうとだけしていたのかもしれません。きっと今の私では想像できないような苦しい日々だったのだろうと思います。そんな物想いに耽る時間も束の間で明日に向けて早めに寝ようということでホテルに戻ることになりました。 各々の部屋では何か奇妙な出来事が起こりそうな空気が流れていました。そんなこととは露知らず、おそらく私が一番深い眠りに落ちて一時たりとも朝まで起きなかったのではないかと思います。   まずは全ての部屋において、皆が気づいていたことは、廊下を歩く日本の兵隊の幽霊が現れたことでした。時折、足を止め、部屋の中の様子を伺うように日本の兵隊の幽霊が窓の外から見ていたようでした。因みに私は廊下側の窓の前でグッスリ眠っていたので、スヤスヤと眠る私の姿を日本の兵隊の幽霊が見ていたのでないだろうか。なんとも恥ずかしいことで、ぐっすり眠る姿を見られていたと思うと少し恥ずかしいような申し訳ない気持ちになりました。ご住職の部屋の外では多くの日本の兵隊の幽霊が現れ、近寄らず、遠くから見守っているような感じだったそうです。そして妻とご住職の奥さんの部屋では、あまりの怖さで数珠を握り締め、布団の中に潜り込んで震えていたようでした。他の部屋の皆の話を聞いて、同じ部屋で睡眠をとっておられたお坊様はどうだったのか聞いてみると、やはり同じように廊下を歩く日本の兵隊の幽霊の気配を感じていたようでした。そんな話を聞くと、申し訳ございませんが、私は熟睡しておいて良かったなと思いました。もし睡眠が浅く、廊下を歩く兵隊の幽霊に気づいていたら、きっと朝まで眠れなかったし、トイレにも行けなかったかもしれません。ヒョッとしたら日本の兵隊ハシモトさんが寝かしてくれていたのかもしれません。   朝起きて、ホテルで朝食を摂りながら、その話で女性陣が賑やかでした。男性陣はごくごく普通で、どちらかと言えば、日本の兵隊の幽霊を無事成仏させる為の話が中心でした。何から始めて、何々を読んでとお経の順番を決めているようでした。朝食はタイのお粥でした。これはとても美味しく胃にやさしいもので皆さんに好評でした。本当にタイ料理というのは日本人の味覚に合うものが多いなと思う瞬間でした。



ご馳走であるのだろうけど、蒸しパンのようなものしか食べれず、作ってくれた方に申し訳なかった。





部屋に向かう。初めて、嫁が日本の兵隊さんに会った部屋の隣の部屋にご住職が宿泊されることとなった。山の向こう側からミャンマーまですぐだそうです。


タイらーめん。麺は米で作られています。クイッティアオと呼ばれています。




14:日本のお坊様による施餓鬼供養が始まる


  朝食を終えると、ご住職が宿泊していたお部屋で皆さんが集まり、御札に名前を書いて立てたり、供物を並べたり、様々な準備がなされていきました。ご住職の奥さんはその段取りをテキパキとサポートされ、催事事がスムーズに運ぶように立ち回っておられました。私はと言うと、白い服装を来て、身を綺麗にしてその場に立ち会うくらいしか出来ませんでした。妻もあれこれとご住職の奥さんの手伝いをしていました。ご住職とお坊様たちは、部屋に来た時の感覚で、慰霊祭のお経の順序や段取りを再度話し合っていました。   


  徐々に準備は進み、施餓鬼供養というものを基本に置かれて進めていかれました。食べ物、飲み物もろくに口にすることが出来なかった第二次世界大戦中の日本の兵隊の為の供養だと思います。部屋にあった小さなテーブルなどを祭壇に見立てて、食べ物や水を供えました。そして、いくつかのお経が上げられていきました。いくつかをよみ終えると、私のところへご住職が来て、『どうですか?』と尋ねられました。意味は、日本の兵隊が私の身体に入り、話し出さないかということだったのだと思います。私は何も異常がなかったので、『何もありません』と答えました。すると続けて、また別のお経を上げ始めました。すると、ご住職が聞いたことが合図だったかのように日本の兵隊が私の中に入り、号泣し始めました。私はこの状況に逆らわずお任せすることにしました。 私は目を閉じたまま、部屋の外に出て歩き始めました。結局、私が辿り着いた場所は妻が日本の兵隊の幽霊と出会った部屋の正面数mほどの場所でした。そこで私は目を開き、日本の兵隊に体外に出て頂きました。辺りを見渡すと妻が日本の兵隊の幽霊と遭遇した部屋からこんなに近くだったのだと確認することが出来ました。何とも言えない気持ちになりました。 場所がわかりましたので、そこでお坊様たちによる供養が行われました。お神酒を撒き、お経を上げ、無事、成仏できるように念じました。きっと目には見えませんが多くの日本の兵隊方が多く浮かばれ、我々とともに日本へ帰ることになったのではないかと思います。日本への帰還は我々と一緒について行くことで叶うようです。日本の兵隊方は、日本にいる我々夫婦の元へ連絡を取ってきましたが、日本にこれで帰れていることにはならず、我々が現地に行くことで彼らが日本へ本当の意味で帰ることが出来るようです。こういう土地に縛られた霊のことを地縛霊というらしいです。ちなみに移動出来る霊のことは浮遊霊というらしいです。当時はその仕組みについてはわかりませんでしたが、後に様々な人に会うことで知ることとなりました。後、さらに付け加えると、我々以外の人で供養に来られた方であっても、同じように地縛霊は、その土地から離れ、一緒に日本へ帰還出来るそうです。   全ての儀式が終わった後、お供えをした食べ物を川のほとりまで皆さんで運び、川に流させて頂きました。手を合わせ、彼らの苦しみが解き放たれますように祈るばかりでした。すると、徐々に天候に変化が現れ、空が暗くなっていきました。 


壁一枚向こう側での部屋で嫁が日本の兵隊の幽霊と遭遇した。


供物を川に流し、帰国への決意を固めました。


供物を川に流し、全てが完了した。


15:豪雨からの脱出


  部屋に戻ると、皆、ドッと疲れた様子でした。成すべきことを終えた後はここに留まる理由もなく、荷物を鞄にまとめ、午後には出発しチェンマイへ戻ろうということになりました。すると天候が完全に急変し、雨が強く降り始めました。荷物を急いで車に載せ、皆が乗り込みました。ホテルに無事供養が終わった旨を伝え、御礼を言って、出発。すると、既に道はところどころ川のような状態になっていて、恐怖心を煽りました。『こんなスゴイの初めて見たな』と話していると、道脇の家が川の中に建っているのかと勘違いするような状態になっていました。車のドライバーは『大丈夫だ』と声をかけて安心させて下さいました。豪雨の中、車は走り続けていたが、横の山の斜面から水が滝のように流れ出てくるし、土砂崩れが発生でもしたらどうするのかと冷や冷やしながら、緊張で呼吸がしづらくなっていました。その光景は、日本の兵隊方がこの土地から離れることで、何かを洗い流しているかのようにも感じました。さらに解釈の仕方を変えれば、我々を雨の力で街から早く発たそうと、追い出そうとしているかのようにも考えることが出来ました。そして、時間が経つにつれて徐々に雨脚が弱まり、小降りになっていきました。なんとなく、これで危険な状態を回避できたかなと思っていたら、皆も同じ思いだったようで、急に話を始めました。 途中、日本軍が造ったと言われているメモリアル橋にも立ち寄り、お坊様方が供養をしておられました。私にはわかりませんが、特別なお水を振り撒いておられました。帰りは皆さん疲れたのか途中からは話声も聞こえず非常に静かな帰途となりました。4時間程かけて無事チェンマイ市内に到着。何日かかるか未定だったので、チェンマイでホテルを予約しておらず、妻の友人が勤めるホテルを紹介することになりました。ホテルのロビーでは、お坊様方やご住職の奥さんが、『これ以上の気遣いは無用で、明日の飛行機の便で奥さんと1名のお坊様は先に日本へ帰ることにします』ということでした。そしてご住職ともう1名のお坊様は9月中旬まで思い出深いタイ王国の仏跡を辿ってから帰国するので、日本に帰ってからまた皆でお寺にて会いましょうという話になりました。我々も2日後には日本帰国を予定していたのでお言葉に甘えてそのホテルでお別れをしました。    


   日本に帰国してからは、日本の兵隊方への供養は考えることなく、普通の生活に戻ることが出来ました。やっと現実に戻れた気がしました。思えば2009年の秋頃から妻がメーホンソンでの戦時中の映像を見始め、妻の傍に日本の兵隊の幽霊が共にいることが霊感のあるタイ人女性を通してわかりました。それを何故か信じ、百観音巡礼を通して家族総出で妻の所に現れた日本の兵隊の為に供養をしようと動き出しました。百観音巡礼の掛軸満願の場所を頭に浮かぶ高野山奥の院にして立ち寄ったら、高野山J院の摩尼宝塔に引き寄せられた。これで終わったかと思えば、タイフェアーに参加した妻が高野山真言宗のご住職の奥さんと出会いから、最終的に高野山J院と繋がりました。そして、高野山真言宗のお坊様方々によるタイ王国への慰霊訪問へと繋がりました。全てお膳立てされていたのではないかと過去を振り返れば振り返るほどその流れが明確に表れていきました。私と妻はこれで全てが完了したと思いました。これで日本の兵隊の幽霊の思いを叶えることが出来たと心底思い、満足していました。H寺ご住職はこの慰霊訪問するまでに多くの書物を読んでいたようです。もし、必要とあればビルマ(現ミャンマー)まで行く心構えがありますと言っておられましたが、それってどういうことなのかと意味がわかっていませんでした。私はインパール作戦について、何一つわかっていなかったからです。何の戦争だかわかりませんが、タイ王国メーホンソンまで日本の兵隊が来て戦争をしていたのだという事実くらいの事しかわかっていませんでした。 この奇跡的な10ヶ月の一連の流れには不満のある時期はありましたが、結果、終われば貴重な経験だったなと思っている自分がいました。日本の兵隊の幽霊ハシモトユウヤさんに話しかけられたこと。日本の兵隊の幽霊から日本への帰還依頼をお願いされる機会は人生の中で想像すら出来なかったことでしたので。    


       日本に帰国したからには、仕事を再び専念しようと思いました。日本に帰ってきてからの日本の兵隊の幽霊のことはわからないのでご住職が帰国するまでは忘れようと心掛けました。気が付けば、この1年、怒涛の不思議な体験の連続でした。




16:高野山真言宗によるお葬式


  9月某日にご住職も帰国されましたが、私も仕事が忙しく、なかなか皆さんとのタイミングが合いませんでした。タイ王国メーホンソンへ行き、慰霊をしてきたことで皆さん安心していましたし、8月半ば強引に行ったことに対するツケのようなものを時間的に感じました。それは悪い意味ではなく、なんとか日本の兵隊方が日本に帰還したいという願いを叶えたいと無理をした結果であって、その無理をした部分が仕事の忙しさや疲労としても反ってきたのかもしれません。ですので、現実的な生活で多忙を極めました。9月10月11月と月日が過ぎていき、やっとH寺ご住職のお寺にタイ王国メーホンソンに行ったメンバーが集まり、その足で高野山J院に向かうことが出来ました。  


   高野山J院に着くと、お部屋に通されました。宿泊用のお部屋のようでとても恐縮致しました。しばらくすると、J院ご住職が現れ、H寺ご住職はJ院ご住職に今回の慰霊の内容をご報告されていました。そして摩尼宝塔でお葬式をすることを許可して頂きました。摩尼宝塔はミャンマーで亡くなった日本の兵隊方への供養の為に建てられたものだと聞いています。そこで、簡略ではあるもののお葬式をあげて頂いた日本の兵隊方は幸せだったのかもしれません。日本への帰還の願いが叶い、お葬式をすることで自身の生を全うし、終えたことを確認し、あの世へ無事帰って行かれたのかもしれません。私も手を合わし、彼らの成仏を願うばかりでした。  


   全てが完了し、我々夫婦に出来ることを全て終えました。日本の我が家に日本の兵隊の幽霊が現れ、妻にメッセージを送り始めた時からあっという間に1年が経ち、今回の流れが終わりました。初めの頃はこんな風になるとは思っていなかったし、誰も想像も予測も出来なかったと思います。だけど、決して迷うことなく進んだことは妻の元に現れた日本の兵隊と私に連絡を取ってきたハシモトさん、この2名の日本の兵隊方に出会えたおかげだと思っています。私の場合はハシモトさんの気持ちを聞き、彼の気遣いを感じ、彼の声を聞き、肉体ではない部分での接触があったことが、見えない世界であっても彼の御霊やその周囲の日本の兵隊の御霊を日本へ連れ帰ろうという強い決意に至ったのだと思います。タイ王国メーホンソンで会った日本の兵隊の幽霊の言葉通りに日本に来て、私と結婚することによって日本という国との縁をより強固にし、彼らの亡くなった場所に辿りついたことは妻にとって感慨深いものとなったはずです。終わってみれば、起きたこと全てが幻想のような出来事でしたが、日本の兵隊からの日本への帰還依頼を聞いたから我々は動いただけのことだと思っています。たいへん長い供養の道のりでしたが、最終的には、彼らの日本への帰還への思いが叶ったことが我々の喜びに変わりました。


高野山 奥の院 ビルマ戦没者慰霊塔 百観音巡礼でこちらを最後に訪れた時、この存在を全く知りませんでした。ひょっとしたら、奥の院へ呼ばれたのかもしれませんね。仲間を迎えに行ってやってくれないかと。あくまで想像の範囲を超えませんが。



17:靖国神社に赴く  

  

  私は日本の兵隊ハシモトユウヤという名前が気になっていました。そういう名前の兵隊がいたのか確認できないかと、2011年2月、東京の靖国神社に訪れました。そこには戦没者名がコンピュータで検索できるようで、検索依頼用紙に書いて返事を待ちました。すると1週間後に少し残念な結果が出てきました。ハシモト ユウヤなるのものは確かにインパール作戦に1名従事していました。が、彼が亡くなった場所はビルマのチンドウィン郡でした。昭和19年に戦病死されていたとうことでした。これは誰かが戦病死したことを見届けたということを意味するそうです。しかし、ハシモト ユウヤという日本の若者がインパール作戦に従事していたことがわかったことで私にとってはとても意味のあることとなりました。今の私では、その事実の意味を知る術もなく、わからせてもらえませんが、ひょっとしたらもっと先の将来でこの意味を知ることになるかもしれません。



英霊の依頼-インパール作戦に沿って-

「我々の処へ迎えに来てもらえませんか?日本に帰りたい」 我々家族の元に現れる日本兵とは第二次世界大戦インパール作戦で敗退し、亡くなった若い兵隊さんたちです ミャンマー、タイ王国、中国、インドと各々の呼ばれる場所へ訪問、合流し、帰国へ 2009年の秋 一人の兵隊から始まった日本への帰還依頼は、多くの帰国を願う兵隊たちに広がり 2025年12月 20回目の依頼を終えた。