第2回目 ビルマ・シッタンへ 2011年8月


ビルマへ呼ぶ八十数名の日本の兵隊たち

1:靖国神社


    昨年(2011年の夏)、タイ王国メーホンソンへ行き、高野山のお寺で、帰還依頼をしてきた日本の兵隊方のお葬式を終えた後、平凡な日々が過ぎていきました。ただ、年が明け、2011年2月になって昨年の出来事は本当だったのかと確認をしたくなり、どうしたら起きた出来事の信ぴょう性を調べることができるのかと考え始めました。そして、なんとなく、靖国神社のことが頭に思い起こされ、靖国神社がどこにあるかなどをネットで調べ始めました。そこで、名前を名のった日本の兵隊の幽霊の名前の方が、本当に存在したのかどうかを確認したくなり、靖国神社の偕行文庫へ訪問することにしました。これは自分の中でのけじめみたいなもので、綺麗スッキリ、心の整理をしたかったんだと思います。これさえ、確認できれば、心に引っかかったものが取れそうな気がしましたので。


     靖国神社偕行文庫に訪問し、訪ねてきた日本の兵隊の名前が存在したことを確認した後、日本の兵隊のことは何も思わなくなったのですが、昨年の出来事が私にあの世の仕組みや、死んだ後の浄化した魂と未浄化な魂との違いがどういうものなのか等々をいろいろな場所で学び、スピリチュアルカウンセラーと言われる人々の話にも耳を傾けるようになりました。私の身の回りに起きていることは本当なのかなど。皆さん、答えは起きた現象は事実だったという肯定的な話でした。そして、 内容は、大雑把に言うと“(私の周囲で起こった出来事は)そういう宿命であり使命だ”という共通の結論を頂くことになりました。しかし、その言葉には少し違和感を感じていました。まるで続きがあるような中途半端な言葉として、心に引っかかったからでした。だけど、まさか本当に続くとは思わなかったし、ただただ私が昨年経験したことは、不思議と皆さんの力が集まり、日本の兵隊方の希望が叶えられたんだと思う程度でした。


2:新たな日本の兵隊が我が家へ


    気が付けば6月になり、昨年で言うと、ちょうど百観音巡礼が高野山奥の院で満願を迎えた頃でした。その日は早めに仕事を終え、洋間で寛いでいました。何故早めに仕事を終わらせ帰宅したのか自分でもよくわからず、ただただ睡魔に襲われ、異様な眠気を感じました。ベッドで横になり、一眠りした後、目が覚め、ゆっくりと立ち上がりました。部屋のドアに向かって歩き出すと、妻がドアを開け、洋間に入ってきました。するとその瞬間に、誰かが私の身体に入ってきたのを感じ、私の身体を使って誰かが話を始めました。妻は昨年のこともあったので、直感が働き、私の中に入った誰かと話を始めました。すると、愛知県出身の日本の兵隊のようでした。どうも爆弾か何かで足を負傷し失った様子でした。これが原因かはわかりませんが、彼はミャンマーのどこかで亡くなったようでした。そして、『どうかこちらに迎えに来て欲しい』ということを依頼されました。妻はその場にいる兵隊の数を聞いてみたりしていました。数は基本的にあまり意識しなくてもいいと思うのですが(八十数名)、妻が質問事項として思いついたのでしょう。年齢も聞きましたが、私の記憶からは消えてしまいました。備忘録を書くことになるとも思っていませんでしたし、その都度、記録していませんでしたので。(今となっては残念ですが)そして、頭の中で見えていた映像は弁当箱みたいな大きな四角いものを背負っていたので、通信兵とか衛生兵のようにも見えました。  


    去年程には慌てず、『さて、どうするか?』ということで、妻と話し合いを始めました。ミャンマーに行く話はご住職も昨年、話をしていましたが、当時、私にとっては現実味のない話であり、妻が1999年12月末日に会った日本の兵隊の慰霊はお坊様と一緒にタイ王国メーホンソンに行くことで完全に終わったと思っていたくらいなので、まさか2年目も何かあるなどと予想だにしていなかった。それに彼ら日本の兵隊が亡くなった大元の戦争そのものについてもミャンマー側だったけれど、私がミャンマーに行くなんてことは全くありえない話だと思っていましたので、昨年とは別の日本の兵隊方がミャンマーに来て欲しいと言われても、そこまで、私は関係ないという気持ちが大きかった。でも、妻は私とは少し反応が違っているように見えました。どちらかと言えば『ミャンマーに行きたい』という気持ちがどこかにあるような印象を受けました。



3:相談


    早速、妻は昨年お世話になったH寺に連絡をしました。奥さんを通して遣り取りが行われ、お寺に足を運ぶことになりました。ご住職は昨年と変わりなく笑顔で迎えて下さいました。先日、連絡を取ってきた日本の兵隊の話をし、ミャンマーらしいですということを話しました。ご住職は昔タイ王国のお寺で僧侶の修行をされていたご経験があり、タイ王国には明るくても、ミャンマー方面においては、まったく未知の世界でしたので、ミャンマーでの慰霊に詳しい方に現地の様子を聞くのが得策だと考えられたようでした。そして、昨年(2010年)お世話になった高野山J院は、毎年、慰霊のツアーをご遺族の方を連れて行っているということでしたので、一度、現地の情報を得る為に高野山J院に話を伺いに行きましょうということになりました。何か有益な現地の情報が得られるのではないかと我々も期待しお願いを致しました。  


     6月某日、お世話になっているH寺に集まり、1台の車で、高野山J院へ向かいました。相変わらず、高野山へのアクセスがあまりよくなく、山道、抜け道と大変でした。数時間のドライブを経て、高野山J院へ到着。昨年と変わらず、摩尼宝塔は我々を迎えてくれました。  


    お寺の中へ入ると、昨年同様、応接間へ通して頂き、J院ご住職とお会いすることが出来ました。昨年ほどの緊張感も無く、少し冷静にJ院ご住職のお話をお聞きすることが出来ました。


     H寺ご住職が高野山J院ご住職に現在の我々が置かれている状況を説明し、高野山J院のご住職は今までの慰霊ツアーの話を少し聞かせてくれました。現地ミャンマーの慰霊地で幽霊が見えるミャンマー人によると、『日本の兵隊の幽霊が供養を望まれているようで、成仏せず現地ミャンマーにいるから慰霊に来てやってくれ』と耳にすることを話して下さいました。他にも、現在の慰霊碑の問題・現状を説明して下さいました。慰霊碑を建てた帰還兵の方々やご遺族の方々がご高齢になり、慰霊碑の管理が行き届かなくなり、荒れ放題になっていることなどについても話して下さいました。もちろん全てがそうではないですが、そういった慰霊碑が少なくないということだと思います。また、イラワジ川で川一面に流れる日本の兵隊の遺体を見た帰還兵の話をして下さったりしました。中には現地人がナタを持って船で現れ、筏にすがりつく日本の兵隊の頭部に向かってナタを振り降ろし、金品を奪った後、川の中に消えていく日本の兵隊を見たという話もして下さいました。ほんとにまだまだ話はありそうですが、私にとってはどれもこれも今を生きる人間としては想像出来ない話でしたので、ただただ頷く以外何も反応出来ませんでした。話している高野山J院ご住職は悲しげな表情が印象的でした。慰霊ツアーは年々、人が減ってきているそうです。ご遺族の高齢化や他界されていく帰還兵が最近多く、孫の代までというと、なかなかそこまで慰霊に伺おうとする方も少ないようで慰霊ツアーは縮小の一途を辿っているということでした。 


     慰霊ツアーは毎年11月付近に催行されるようでご住職も同行されているようでした。ですので、慰霊碑の場所や慰霊場所などについては詳しいご様子でした。すると、お世話になっているH寺ご住職が『若し宜しければ、その慰霊ツアーに参加させて頂けませんか?』と話を始めました。J院ご住職は『1週間程のツアーなのでそれでも大丈夫でしょうか?』と聞き返すと、そのツアーに参加させてもらいつつ、途中で我々が抜け出し、日本の兵隊方とコンタクトを取りながら、慰霊する場所を見つけるという話を提案され始めました。私の方を見て、ご住職が『見知らぬ土地であちこち迷うよりも安全でしょう』と話しました。行くとするなら途中からツアーを抜けるので余分に3日間程の余裕を持って10日間くらい必要ということでしたが、正直、少し悩みました。子供のこともありますし、学校を休ませるには、私の感覚的には長過ぎました。息子は、日本語は話せるようになったとは言え、まだ日本に馴染みきれていないようでしたし、日本の親類に子供を預けるには厳しい感じがしました。何せ、やっていることは、傍から見たらきちがい染みた内容でしたので。さらに2世帯住宅で親と同居していましたので、私が第二次世界大戦で亡くなった日本の兵隊の幽霊を迎えにミャンマーに行くと話をすれば、きっと正気の沙汰とは思われないのは不可避で大反対に会うのは火を見るより明らかでした。  


    実は、昨年、私に日本の兵隊が憑依したとき、妻がうちの両親に助けを請いに行きました。妻が私の母親にその話をした時、母の表情は激変し、私の所にやってきました。母は『40歳にもなって、あんたは何をしているんだ。妻と子供もいて、大の大人が幽霊云々なんて馬鹿げた話をするんじゃない!もっとしっかりしなさい』と。私は案の定の発言に、内心、『大丈夫。相談するつもりは元より無いから」と思いました。私が母親の立場であれば、『そんなバカげた話をするな』と激を飛ばしていたに違いありませんし、母親には心配をかけたくありませんでした。それなのに、妻が一時的にしろ、焦り、私の母に相談したのは私にとっては非常に不本意な出来事でした。そんなことから、両親に子供を預けて慰霊に行くなんてことは、有り得ないことでしたので、その場では、H寺ご住職の話の腰を砕くような粗相は出来ず、ついつい中途半端な返事をしてしまったことを今更ながら後悔しております。  


    仮に11月行くにしても、妻と私は依頼に来た日本の兵隊方が日本への帰還を早くお願いしますという直接的な遣り取りをしていましたので、H寺ご住職に8月に一度ミャンマーに行きますとお話をさせて頂きました。すると高野山J院のご住職が慰霊ツアーでお世話になっている現地ミャンマーにある旅行会社の日本人スタッフの連絡先を教えて頂き、何かあれば、彼に連絡すると良いですよとメモを下さりました。現地に伝手の無い我々はとても心強く有難い気持ちで受け取りました。高野山J院を出ると、H寺ご住職は現地に行っても我々がお経を上げることも出来ないですし、対応が出来ないであろうから、場所を見つけても何もせず帰国するように勧めて頂きました。確かに何をどうするかもわからなかったのでご住職の言うとおりだなと思いました。もし何かあったら何も出来ないだろうし、日本に帰国した際はまた現地の情報を教えて下さいとだけH寺ご住職に言われ、私もそのつもりでいました。  


     帰宅し、さっそくミャンマーへの渡航準備に取り掛かることにしました。当然、本格的にミャンマーを訪れるのは人生において初めてのことなので、どんな国だろうと調べ始めると、国民性は良さそうな感じでした。が、以前、日本のジャーナリストが射殺された事件があったので、少々危険を感じていました。行ったことがなく、想像だけしてしまうと人間というものはかなりネガティブな印象を頭の中で描いてしまうので、時間が経つにつれて、不安だけが膨らんでいきました。  


     まず、ミャンマーに行くにはビザ(査証)が必要になるということで、入国目的はあくまで観光としました。申請用紙には慰霊という項目があったのには驚きました。そういう戦地慰霊の目的の人が多かったのでこういう項目があるのだということを知りました。私が申請を出したのは大阪でした。領事館という形は取らず、パスポートセンターという名の小ぢんまりしたビルの1室にありました。おおよそ2~3週間で申請したパスポートが帰ってくるというので、ビザの発給を待ちました。  


    ビザの発給は私だけで妻はタイの旅行会社にビザの発給を依頼しました。タイ王国チェンマイの旅行会社でミャンマーまでの団体ツアーを探すことにしました。ミャンマーという国はタイ人の妻にとっても右も左もわからない国ですし、タイ語が通じないということもあり、安心できる団体ツアーに参加するに越したことは無いという判断をしました。日本の兵隊からの帰還依頼もミャンマーに行くことしか伝えてこなかったので、単純にミャンマーに行くことが出来れば問題ないのかと思っていました。しかし、最終的に私の休みの関係で団体のパックツアーに参加するタイミングが合わず、個人ツアーでしか行けないことがわかりました。初め、この話を妻に聞いた時、偶然ではなく、個人ツアーでないと我々のミャンマーへの訪問は駄目なのではないかと感じました。そして、個人ツアーが決まってからのツアー内容は妻が決めることになりました。場所はゴールデンロック。正直、私はミャンマーに興味も無かったし、日本の兵隊方からの帰還依頼しか頭に無かったので、全く観光には興味が湧きませんでした。が、しかし、妻はゴールデンロックに行きたいという気持ちだけでその場所を目的地に決めたのではないと私に強く説明をしてくれました。どちらにしても、私生活では仕事が忙しく、意識を日本の兵隊からの依頼にばかり向けることは出来なかったので、妻に任す他ありませんでした。だけど、いつしか頭の中に映像が現れ、川の中で立つ日本の兵隊の周囲の水面に意識が向くようになってきていました。それは水草でした。葉の色は緑色で竹の笹を長くしたような感じに見えました。そして、日本の兵隊の立っている場所だけが川の流れとは逆に葉が向いているのに気が付きました。その時点で私はきっとこれがポイントなのだろうと思い始めていました。  


    昨年同様、妻と子供は夏休みと同時に先にタイ王国チェンマイ入りすることになりました。先に行った妻は何やらいろいろと情報を仕入れているようでした。その頃、私は仕事に明け暮れ、お盆の長期休暇の為に調整に励んでいました。私の周囲の仕事先の人々や仕事仲間は理解のある人が多く、意外に日本の兵隊方が我が家に帰還依頼をしている話を信じてくれたので、大変協力的でした。が、しかし、そんなことばかりに甘えていてはおられず、やるべきことはキチンとすると気を引き締めて仕事をしていました。皆さんに迷惑のかからないように最大限仕事をおさめるようにして出発日を迎えました。

 


4:ブッダリリック 仏石で繋ぐミャンマーへの旅


        8月10日、お盆には少し早めでしたが、タイ王国チェンマイへ飛び立ちました。妻からは奇妙な情報が入ってきていました。事の真偽は別として、チェンマイへ行き、早くミャンマーへ近づきたい気持ちでいっぱいでした。旅行会社に個人のツアーを依頼したものの、行ったことのない初めての国で日本の兵隊方が待っている場所に無事たどり着けることが出来るのかと不安がいっぱいでした。


       タイ王国チェンマイ空港に着くと、妻が待っていました。車に乗り込み2週間ぶりの再会。妻は相変わらずというか、時間を置いて会うと、いつも頼もしさを感じさせてくれ、今回もこの旅における力強さを感じました。 


         車が走り出すと、ミャンマーに行ってからの話を始めてくれました。何でも、9人のお坊様がミャンマーで待っていて、我々の動きをサポートしてくれるという話でした。『霊媒者から聞いたの?』と聞くと、自分で頭の中で映像を見たという話でした。私はその話に興味を持つことが出来ませんでした。嘘とか本当とかの判断はなく、非現実的で有り得ない話だと思ったので聞き流しただけでした。兎に角、二人だけでミャンマーに行くということが不安だったのだと思います。パッケージ旅行ならいざ知らず、我々夫婦は日本の自宅に帰還依頼をしてきた新たな日本の兵隊方を見つけなければならなかったのだから。


         昨年(2010年)はタイ王国での出来事でしたので言葉に不自由が無く、知り合いのドライバーさんが運転手だったので何の不安もありませんでしたが、今回は妻のタイ語が通じない国。果たして上手くいくのかということが頭をもたげていました。『ところで、ミャンマーでどんな手配をしたの?』と私が聞くと、妻は『ゴールデンロック方面(ミャンマー南部)に行きます。こっち方面にすると良いと感じたの』と言い出しました。私は『大丈夫かな。私の頭の中には、日本の兵隊方との待ち合わせ場所は見えているけど、どこの場所かサッパリわからないし・・・』と弱気ではあったが、妻の自信に溢れた表情になんだか助けられました。『妻の感覚を100%疑っているわけでもなかったので、おそらく任せていればいいか』と無責任に任せてしまいました。


         個人旅行のパッケージツアーをタイ王国チェンマイの旅行会社で依頼していたのでオフィスへ伺いました。飛行機移動の疲れもあって、私は車の中で待つことにしました。しばらくすると、航空券を手にした妻が出てきて、これで無事ミャンマーへ向かうことが確定しました。その後は外貨両替所に行き、アメリカドルで新札を用意しました。ミャンマーでは両替をする時、新札でないとミャンマーのお金に両替しにくいという話を聞いていたからです。なんとも小さなことですが、不安な気持ちに否が応でも掻き立てました。 


         我々は妻の実家のある田舎へ移動しました。すると妻から奇妙な言葉が飛び出しました。それは“ブッダリリッ”という言葉でした。なんでもお釈迦様の骨と言われている石のようなもので信心深い仏教徒にとって、とても貴重なもののようでした。光ってドンドン増殖していくらしい。まともには信じていないがご利益のあるものなら見てみたいものだと思いました。


         ミャンマーに発つ日に妻の実家から車で、20分程で行けるお寺に伺うことになりました。妻がそのお寺のお坊様と会い、その“ブッダリリック”を頂けるということでした。お寺に着くと、昔からあるお寺を改修している様子でした。お寺の奥に行くと、一つの建物があり、そこに妻が今回、連絡を取り合っているお坊様がいるという話でした。お寺の境内の中にある小さめの建物に伺い、お声掛けをしました。すると奥のドアが開き、お坊様が出てきましたので、手を合わせ、ご挨拶をしました。顔を拝見すると、まるでどこにでもいる日本人のような顔をしていました。そのお坊様はタイ国内の廃れたお寺を回り、再興させるのがお仕事のようでした。今は妻の田舎に近い場所にあるお寺でその仕事に就いているようでした。妻とそのお坊様は会話をしていたが、私には全くわからず、ただただ座っているだけでした。しばらくして、私が質問出来る機会があったので、そのお坊様のお顔に触れた質問をさせてもらいました。すると、彼は『私は日本人とタイ人の間に生まれましたが、日本人の父親は私の母とは別れ、私は孤児になったのです。だから、日本人の血が半分流れています』と説明して下さいました。さらに『私は今の事業に参加させて頂いてとても幸せで、タイ王国にある廃れたお寺を復興させ、仏教の素晴らしさを伝えていきたい』と話して下さいました。そして、彼の表情は、日本とタイのハーフで孤児になった過去について、何も思っていないようでした。ただ、いつか日本には行ってみたいと話されていました。妻がお坊様に『日本とタイのお寺で交換留学も盛んのようだから、もし希望であれば、相談しているお寺に聞いてみましょうか』と話しましたが、お寺の復興事業の仕事がまだまだあるので、いつか機会があればと断られました。彼は自分の携わっている仕事で心身が充実しているように見えました。その後は、“ブッダリリック”(ブッダリリックには種類がいくもあるらしい)を一つ一つ説明しながら、妻に渡していました。仏教徒である妻は丁寧に有難く受け取っていました。正直なところ、その日の夕方からミャンマー・ヤンゴンへの飛行機に搭乗することになっていたので私は間に合うかどうかの方が気になって冷や冷やしていました。



5:ミャンマー ヤンゴンへ足を踏み入れる


    8月11日、無事、搭乗時間に間に合い、タイ王国チェンマイ空港からミャンマー・ヤンゴン空港へ飛び立ちました。飛行機はプロペラ機で真ん中の通路を挟んで2席ずつあり、初めて乗るタイプの機体でした。いつもと違う機内の風景に落ちるのではないかと不安になりました。機内食は軽いものだったのですが、イメージしたものよりは遥かに良く、今から行く国が安心できる国なのではないかという期待感を膨らませました。 


     1時間程するとヤンゴン空港へ到着。なんとも拍子抜けするぐらいの短いフライトでした。その間、妻からミャンマーでのツアー内容を聞くことになりました。妻曰く、『現地につけば、ガイドに話して我々の思うプランに変更出来ると思うよ。我々だけのパッケージツアーだから、その分、自由がきくはずだから』何でもない普通の会話ですが、ミャンマーという国について全く知らない私はこういう時の妻の頼もしさを再び感じていました。そして、妻の方が、心臓が強いのがはっきりとわかりました。   

 

    ヤンゴン国際空港に到着。意外に綺麗な空港で思っていた印象とは異なっていました。他の先進国と代わり映えしない姿がそこにありました。スーツケースを空港で受取り、空港外に出ると、我々夫婦の名前が書かれたプラカードを持った一人の男性が立っていました。身なりを整え、ミャンマーの衣装でロンジーというスカートを身に付けた礼儀正しそうな方でした。顔つきからなんとも信頼できそうな感じで一安心しました。彼の誘導で車に行くと、ドライバーが笑顔で迎えてくれました。満面の笑顔で我々の荷物をトランクに乗せ、車が走り出しました。ガイドはタイ語が話せる方で、妻とタイ語で会話を始めました。まずはレストランで食事をとる予定だと言う。が、食べ物の好き嫌いの激しい私はミャンマー料理が食べられるか不安でした。 


     レストランに着くと、外国人ばかりがいる西洋風のオシャレなレストランでした。見渡す限り白人ばかり。黄色人種である我々が浮いてしまいそうな雰囲気でした。しばらくすると、料理がテーブルに並びました。やはり、私の口に合わないものばかりでした。白いお米だけ食べて、あとは妻に食べてもらうことにしました。 


     食事が終わり、ホテルへ。なんとも豪勢なホテルでこんな所で宿泊なのかと驚きました。ミャンマーという国に対して申し訳ないですが、こんな素晴らしい上質なホテルがあるとは予想さえしていませんでした。チェックイン後、ロビーでガイドと明日の朝の時間の打合せをし、ホテルの部屋に案内されました。部屋も素晴らしく、部屋の窓からミャンマーで有名な仏塔であるシュエダゴンパゴダが見えました。妻は仏教徒でしたので大変喜んでいました。私はただの美しい風景という感じで眺めていました。 


     妻が浴室に入っている間に私がベッドで横になっていると、突然、部屋に誰かが来たような気がしました。すると、私の身体に異変が生じ、天井を見上げ、歓喜に満ちたような感情に支配されました。何故か涙がボロボロ流れ、この異常事態に懸命に声を上げないように押し殺しました。ヒョッとしたら、私共夫婦がミャンマーに来たことで、今回、待っている日本の兵隊方が喜んでいるのだろうかと思いました。よくよく考えてみると、新たな日本の兵隊方にとっては、我々夫婦をミャンマーまで来てもらうことは、かなり難しかったのではないかと思います。この国に観光目的でも無く、ただ、日本の兵隊の幽霊からの帰還依頼を受けて来させるわけなので、普通ならそんな奇特な人間を探すのも大変なことだったと思います。これも、彼らの日本に帰りたいという何十年という積年の思いがなせる力が我々夫婦を動かす為に働いたのかなと思います。


     しばらくして、妻は何も気づかず浴室から出てきました。せっかくのミャンマーでの楽しい夜だったので重い気持ちにさせないように気を使い、先ほどの出来事を伝えないまま、シャワーを浴びることにしました。浴室から出てきても妻に異常はなく、問題なさそうでした。妻は相変わらず、シュエダゴンパゴダに釘付けで写真ばかり撮影していました。スッキリし、私がベッドで横になると、妻は1階のロビーまで下り、wifiの使用方法を聞きに行きました。妻がすぐに帰ってきて、インターネット使用が有料だったことを一生懸命話すので、wifi使ってもいいよと言いました。すると、非常に嬉しそうにまたロビーに行って戻ってきました。私は先程の出来事で疲れていたので早めに眠りに就こうとしました。が、妻は何故か私に起きているようにお願いしてきました。きっと何かを感じていたのかもしれません。

聞いたこともない飛行機会社で、このような機体に乗るのは初めてで、全く違う世界へ行くかのようでした。

初めてのミャンマー。軍事政権下の国。ミャンマーに呼ばれたのはいいけど、いったいどうなるんだろうか。ほんとに兵隊さんと合流できるのであろうか。自分でも信じられない理由でミャンマーへ向かうこととなった。


ホテルに行く前にレストランへ連れて行ってくださいました。食べ物は日本人にとっては、普段味わえない味でした。


6:9人のご住職 バラミー寺院へ辿り着く


    翌朝、予定より早めに起きてホテルのロビーに下りると、既にガイドが待っていました。早速、車に乗って、どこかの観光地に向かって移動し始めました。ミャンマーの街並みはまだまだ発展途上な風景ばかりで道もガタガタでした。初めて見るミャンマー市内の姿に見入っていると、妻とガイドが真剣に話を始めていました。何だか妻の話に熱が入っているように感じました。しばらくすると、急に妻が私に話しかけてきました。『あのね、観光ルート変更しました。今からブッダリリックが多く置かれている有名なお寺に行くから。そこにはブッダリリックがたくさんあるんだって』妻は何かに取り憑かれたように私に説明してくれました。私はミャンマーでのツアープランも妻から聞いていましたが、観光名所など、あまり頭に残らずどうでも良かったので任すことにしました。その話をした後はまたガイドと一生懸命何かを話し始めました。私にとってのミャンマー旅行はこのような始まりでした。   


     少し車を走らすと、バラミー寺院と呼ばれるお寺に着きました。お寺というイメージとは若干違った雰囲気を漂わせていたが、中に入ると、お坊様がおられました。建物の中にはブッダリリックと呼ばれる石がたくさんありました。様々な種類があり、其々に違う意味があるようでした。ある石はお釈迦様のお弟子さんの頭を表す石だと紹介されました。私にはあまり興味をそそられるような内容ではなく、気にも留めなかった。   


    2階には大きな空間が広がり、奥に若いお坊様がいました。そのお坊様の前まで行き、我々はテーブルにつきました。若い20歳代位のお坊様が我々の前の椅子に腰かけ、その後、お経を上げて頂き、いくつかの種類のブッダリリックを頂きました。我々からはお布施をお渡しし、これで一連の儀式が終わったようでした。私的には正直、あまりその尊さを理解出来ず、内心呆気にとられていました。きっと仏教徒なら何かを感じるのだろうか?私にとっては無意味な出来事に感じ、早くそのお寺を出たいなという思いに駆り立てられました。すると、妻がガイドを通して、お坊様にこのお寺のご住職に会わせて欲しいと話し始めたようでした。その時は、私は何を話しているのかさっぱりわからなかったのですが、妻が執拗に若いお坊様に話をし、頑なに動こうとしなかったのだけはわかりました。  


    しばらくすると、若いお坊様が表情を変え、『少し待つように』と言って、奥の部屋に消えていきました。その間に事の次第を妻が私に話し始めました。『このお寺のご住職に会わせてもらうように話していました。初めは体調が悪く、ここには居ないと話していたけど、どうしても会いたいと話していたら、少し待つように言われたからちょっと待ってね。私たちがミャンマーに来た経緯を話したから』私に説明する妻の表情には勢いがありました。私は妻に従う他ないなと待つことにしました。いずれにしても、我々は観光目的でミャンマーに来たわけでもないし、この後のツアープランにある観光などどうでも良かったので流れに身を任せ、妻の言う通りに待つことにしました。  


     数分程して、若いお坊様が我々の所へ戻ってきました。『どうぞ、奥へお進みください』と言われたようでした。妻・ガイドはその若いお坊様の後に続いて歩き始めました。私にも妻が手招きをして、『早くついてくるように』と言われたので、乗り気ではないものの、妻とガイドと共に若い僧侶の後をついて行くことにしました。 


     奥のドアを抜けると、仏教寺院独特の装飾を施した壁と天井がありました。それを繁々と見ながら階段を上り始めました。階段部分の空間はとても狭く、ややもすれば頭をぶつけそうなくらいの低さで上るのが大変でした。何処に連れていかれるのだろうと不安になりながらも、徐々に私の普段見慣れたものとは違う空間に好奇心が生まれてきました。 


     何階まで上ったかわからなくなりましたが、最上階の踊り場に辿り着きました。そのまま廊下を進み大広間の入口を潜り抜けました。そこにはいくつもの大きな円卓があり、その上にはたくさんの料理が並び、多くのお坊様が座っていました。ただ少し違和感を感じたのは、ここにいるお坊様が普通と違って少し威厳があるお坊様のように感じられたことでした。我々は若いお坊様に案内され、更に奥にある一つの部屋に通されました。そこにはこのお寺のご住職のベッドが置かれていて、その脇には金色に輝くブッダリリックがたくさん保管されたガラスのショーケースのようなものがありました。施錠をしているのできっと価値のあるものなのだろうと思いました。すると、一人のお坊様が現れました。ミャンマー人っぽくないお顔をしたご住職でした。ガイドが我々をそのご住職に紹介しているようでした。妻はその横で手を合わせ、頭を下げていました。私は仏教徒でないので何の敬意も持たなかったけれども、妻に合わせて同じ動作を試みていました。すると、今度は妻が話し始め、それをガイドが一生懸命通訳をしていました。話を終えると、ご住職が我々に向かい、お経を唱え始めました。なんとも言えぬその声に重みというか癒されるような力を感じました。すると、私の身体に異変が生じ始めました。日本の兵隊方が私の中に入り、喜んで泣き始めました。続けて、ご住職はご自身で身に着けておられたお数珠を私の首にかけ、再び、お経を唱え始めました。私は涙が止まらず、ずっと泣いていましたが、私が泣いているのではないことは自分でよくわかっていました。


     お経が終わり、再び、妻が話を始めました。ご住職も通訳を通して妻に答えるように話しているようでした。しばらくすると、お坊様ではない、ごくごく普通の男性が現れました。彼はこのお寺のご住職の秘書で、普段は貿易会社に勤めているサラリーマンのようでした。英語が話せるようで私の為に呼んで下さったようでした。ご住職がその秘書を通して『何でも私に話しなさい』と言われました。が、何も思いつくことがなく困りました。事の次第は妻が全て話しているようでしたし、質問が無く黙っていると、ご住職のことをいろいろと我々に話して下さいました。秘書の方の通訳によると、『前世で我々3人(妻、私、ご住職)は家族だった。だから、ここでお前たち2人に会えたことが非常にうれしい』と伝えられました。私はあまりにも突然の話で、信じ難い内容に困ってしまいましたが、とにかく好意的な対応に笑顔で答えるしかなかった。計算高いといわれるかもしれないけど・・・。 


     実は、この訪れた日はご住職の部屋の改装完了の祝賀会で、多くのお寺のご住職が祝いに来ているということでした。とすると、大広間の円卓に座しておられるお坊様方はご住職方ということがわかりました。その時、タイ王国を発つ前の妻の言葉が瞬時に思い出されました。『9人の偉いお坊様がミャンマーで待っている』。その話を聞いた時は馬鹿げた話だと気にも留めていなかったので聞き流していましたが、それが現実のこととなって、妻にそのメッセージを受け取った時の様子を詳しく聞きたくなった。が、そんな余裕もなく、私は秘書の話を延々と聞き続けるのでありました。 


     しばらくすると、ご住職がゆっくり立ち上がり、ショーケースの施錠を外し、中の黄金のブッダリリックを取り出しました。そして、私と妻に一つずつ兄弟の証として下さるというのでした。私も驚いたが、仏教徒である妻は私以上に驚き、大変貴重な物を頂いたとご住職に手を合わせ、頭を下げ、そしてそのブッダリリックにも頭を下げ敬虔な仏教徒としての敬意を払っていました。また、周囲の人たちも妻と同じように非常に驚いていました。秘書はすかさず、『これは非常に貴重なものです。普通、頂けない物です。あなたは頂いたことに対し、本当に価値あることだと認識しなければなりません」と教えて下さいました。私は、どう御礼を述べていいかわからず、ご住職に手を合わせ、頭を下げると、ご住職はそっと肩を抱いて下さいました。 


     落ち着いたところで妻が別のお願いを始めました。それは彼女がタイ王国にいる時に受け取ったメッセージによるものでした。ミャンマーで9人のご住職に未浄化な状態にある日本の兵隊の御霊の安寧を祈願する供養を行って欲しいということでした。バラミー寺院のご住職は、この日に招待していた9人のご住職に我々がミャンマーに来た経緯を説明して下さり、ミャンマー国内で亡くなった日本の兵隊の為に声を掛けて下さいました。すると、各々のお寺のご住職は快諾をして頂いたようで、我々夫婦は各々のご住職に僅かばかりのお布施とお願いを直接する為にテーブルを回りました。これで全てのお寺のご住職にお願いを終えた我々はバラミー寺院ご住職に御礼を言って祝賀会の邪魔しないように帰り支度をし始めました。すると、ご住職は『私の寝室で食事を摂っていきなさい』とガイドを含め、誘って下さいました。とてもとても有り難い話で妻は喜んでいたのですが、私は円卓に並んだミャンマー料理を見て、私にとってはかなり厳しい料理のように感じ、お断りする方向で妻に合図を送っていたつもりでしたが、妻は、ミャンマー料理を見て、タイの田舎料理と似ていて、喜んで食事を頂きたい様子でした。ましてやバラミー寺院ご住職の寝室で食事を頂けるという事であれば、なおさら喜んでいたようで、『頂いていかないと失礼でしょ』と逆に私にここで食事を摂るように諌めるのでした。私はそんな妻の意思を拒否してまで食事を断ることも出来ず、致し方なく座ることにしました。秘書も『遠慮するな。ご住職も喜んでおられるだ』と笑顔で私に言葉をかけてきました。『白ごはん、ミャンマーカレー?はいける・・・だけど、他は厳しいな・・・』と食卓に並ぶ料理をチェックしていました。そんな私の様子を妻は見ていたようで、『これなら食べれるでしょ?』とあれこれと横からアドバイスをしてくれました。ご住職は私たちがここで食事をすることに大変喜んでおられているご様子だったので、頑張ってみることにしました。食事の後、最後にご住職はこのお寺の最上階にある展望台に我々を連れて行ってくれました。ヤンゴンの街並みを360度見渡すことができ、初日の昼からこんなに素晴らしい眺めを見させて頂き、ご住職に感謝致しました。そして、ミャンマーに知り合いもなく、頼りになる伝手もなかったのですが、秘書の方は『これからはこの国に来たら私に連絡をしなさい。いつでも空港へ迎えに行ってやるから』と言われ、なんだか安心できる場所を得たような気持ちになりました。バラミー寺院を立ち去る時、ご住職の表情がとても寂しそうに見えました。しかしながら、私たち夫婦には今回帰還依頼をしてきた日本の兵隊方とのお迎えの約束があったので余韻に浸っている時間はなく気持ちを切り替えることにしました。また何時かミャンマーに来ることがあれば、顔を出しますという言葉を最後に、バラミー寺院を発つのでした。   


    バラミー寺院を発った後は涅槃像のあるチヤウッタージー・パヤーに訪れました。全長70mもあるリクライニングブッダがあり、観光地の目玉としても有名なお寺でした。その後はミャンマーの仏教徒に信仰の厚いシュエダゴンパゴダへ訪問。大きな仏塔の先端には大きなダイヤモンドをあるらしく、思わず見上げてしまいましたが結局、肉眼では確認する事は出来ませんでした。妻はここに来る事が以前からの夢でしたので何度も手を合わせていました。花を買ってお供えをし、お布施もしておりました。仏教徒にとっては幸せを感じる瞬間なのでしょう。私も一緒に手を合わせる事にしました。  


    『ミャンマー国の土地神様、どうぞ、この地で日本の兵隊の御霊を引き上げ、日本へ連れて帰ることをお許しください』とお願いをしました。神様なんてものはお会いしたことはなく、信じていませんが、でも、なんとなくご挨拶をしてしまう私でした。なんというか、仏教徒が多い国に対する敬意・礼儀みたいなような気がしていました。   


     次の日はゴールデンロックへ行く日となりました。なんでも大きな岩が岩の上でバランスを崩さず留まっているという話でした。以前、テレビでも見た事はありましたが、ここに来た目的が・・・と思いながらも、何処に行けば日本で見た映像の場所に辿り着くことが出来るかわからず、もし見つけられなければ、それは幽霊に騙されたと思って、それまでのこととして日本に帰ればいいかと開き直るようにしました。きっと見えないプレッシャーを回避したかったのだと思います。ゴールデンロックのある場所までは往復2日間かけて車で行くようで、思った以上にたいへんな道程である事を聞かされました。  


    ホテルに戻り、今日一日の出来事について考える時間がありました。よくよく考えてみれば、タイ王国のお寺でブッダリリックに関わるお寺のお坊様を訪問した事がきっかけでミャンマーのバラミー寺院に辿り着きました。このお寺はツアールートにも含まれてもおらず、妻がミャンマー人ガイドにブッダリリックについて話さなければ、バラミー寺院の話もガイドからは出てこなかったであろう。そして、9人のお坊様の話も妻の言ったとおりに、ブッダリリック博物館と呼ばれるバラミー寺院の最上階に行かなければ、我々はバラミー寺院のご住職及び、9人のお坊様に会うことが出来なかった。なんとも見知らぬ何かに導かれるように我々は進んでいるように感じました。  


    2日目の朝、早くからガイドとドライバーがホテルフロントで出迎えてくれました。たった2日間ではあるが、ヤンゴンを離れ、また見知らぬ場所へ移動する事となりました。私にとっては楽しい旅ではなくただただ重圧でしかありませんでした『本当にミャンマーまで来て、日本の兵隊の幽霊が言うとおりに、ミャンマーで会うことが出来て、日本に帰ることが出来るのであろうか?生きている人から依頼されているわけではないから、責任は無いはずなんだけど、すごくプレッシャーがつらいな』と。


ブッダリリックと呼ばれるものがたくさんありました。近隣諸国から仏教徒がツアーで来るぐらい有名ということでした。見るもの全てが目新しく右往左往する私でした。


ご住職の寝室にある黄金色のブッダリリックを私と嫁に兄弟の証としてくださいました。ただただ恐縮するばかりでした。まだ状況に飲み込まれたままの私でした。


たしかインパール作戦当時もこの仏像はあったと思います。

シュエダゴンパゴダ 夫婦2人だけの旅で失敗しても、何も誰にも咎められないが、本当に日本の兵隊さんたちと会えるのかというプレッシャーが重く辛かった。


トラックの荷台に板を引き、ゴールデンロックのある山頂近くまで上がっていきます。


こちらでのホテルの料理は全て美味しかった。ここまでずっと食事が合わず、まともに食べれなかった。


7:日本で見た兵隊が立つ映像を探す


    ヤンゴンを出発する。道はそれほど良くはないが、悪くもないという感じでした。ただ延々と車を走らせるのですが、出発直後は初めての景色に興味深く眺めていたのですが次第に飽きて、眠くなり、気がつけば居眠りをしていました。時折、目が覚めて外の景色を眺めるが大した変化はなく、このまま同じような道を走るのかという感じでした。しばらくすると、道に沿う小川が目に入ってきました。不意に『あれ?』と何かを思い出したかのような、気付いたかのような感覚に捉われました。この川の風景、日本にいる時に見たこと思い出しました。川の中を見ていると、私が日本で見ていた頭の中の映像の緑の水草が川の中に見えましたた。『たしか日本への帰還依頼をしてきた日本の兵隊の幽霊が立っていた場所は川で水草が同じだったな』それからは目が覚め、食い入るように見始めました。が、結局、私の頭の中にある映像と合致する場所を見つける事が出来ませんでした。


     ゴールデンロックへ向かうためのバスターミナルに到着しました。ここからは専用トラックバスで向かうとのことで、乗ってきた車を2日間、待たせる事になりました。1時間ほど時間が空いたので少し休憩を摂りながらトラックバスを見ていると、荷台に平たい板を左右に渡し、何列も並べ、そこに詰め込みで乗車するようでした。『あれに本当に乗るの?』と思わず、妻に確認をしました。妻が嬉しそうに『そうですよ。楽しそうでしょ。アドベンチャーツアーです』と答えてくれました。私は笑っていたが、内心、不安でしかたなかった。山頂までどんな道が続くかわからないが、片方に傾けば、乗客が左右どちらかに寄り集まり、皆、トラック荷台から放り出されるのではないかと思うような不安定な構造でしたので。 


     乗車時間が来て、トラックの荷台座席に座りました。窮屈な状態で座りバランスをとるどころの話ではなかったですが、何とか普段使わない筋肉を駆使し必死に山頂である到着地点まで耐えるしかなかった。道は舗装されていないので車体が揺れ、左右に身体が振られっぱなしでした。運転手は荷台の乗客を気にせず、自分本位の運転をしているようにしか感じられないくらいの速度でぐんぐんと山頂まで登っていきました。皆さん、真剣な表情をしていたのですが、山頂近くのターミナルへ到着すると、荷台の乗客たちは全員笑顔になり、見知らぬ人たちにも関わらず、同じ苦しみを耐えた仲間のような気持ちになっていました。  


    そこで到着だと思っていたら、さらに山頂近くのホテルまでは徒歩だと聞いて愕然としました。足元を見ると、スリッパを履いている私。そして妻もよく似たようなものだった。坂は急勾配でしたので、歩き始めると踵にベルトのないスリッパは脱げてしまう。ここは意を決して、ガイドに山頂まで籠屋にいくらかかるか聞いてもらうことにしました。すると意外にリーズナブルな値段でしたので妻と私の2台を手配してもらうことにしました。が、その籠の担ぎ手となる現地の男性たちの足元を見ると、よく似たようなゴム製の草履でした。一瞬、不安が頭を過ったが自力では大変でしたし、現地の人だから大丈夫かなとお願いしたのですが、やはり不安は的中しました。ひっくり返りはしませんでしたが、スリッパが脱げている姿を何度も確認しました。籠に乗ってはいるものの、いつ彼らが籠から手を放し、落とされてもおかしくないと緊張状態のまま乗っていました。数十分が過ぎ、なんとかケガもなく山頂へ到着。早くご遠慮願いたいと思っていた私は妻と共に籠から降ろして貰いました。何とまぁというようなお粗末な乗り心地で、帰りはもう必要ないと思いました。篭屋にお金を支払い、ホテルまではゆっくりと自分の足で歩いていきました。やはり自分の足で歩くのが一番だと痛感させられました。


     数分後、ホテルに到着しました。山小屋のような場所でホテルから少し離れた場所に部屋があるという事でした。部屋の鍵を受け取り、中に入ると、昨日のホテルと今日のホテルの部屋とのギャップに目がテンになりました。『うそ!馬小屋じゃないよね?』妻曰く、『文句言わない。ここは山の上でしょ。これが最高のホテルなのよ』と宥められました。しかし、妻も決して嬉しそうな顔はしていませんでした。その日は疲れたので部屋で早めの就寝を摂ることにしました。   


     昨晩は早く寝たので次の日の朝は早く目が覚めました。こういう時の楽しみというと朝食くらいなもので身支度を整え、食堂へと向かいました。席に座ると、卵焼きのようなものと白い御飯が出てきましたので、もう私は嬉しくてガツガツと食べてしまいました。妻は私の食べる姿を見て笑みを浮かべていました。きっと、私の姿が滑稽に映ったのでしょう。  


     早速、山頂にあるお寺に向かうことになりました。ホテルから徒歩で数分。お寺では履物を脱ぎ、裸足で歩かなければなりませんでした。境内の奥に行くと大きな岩、ゴールデンロックがありました。あいにくの朝霧で景色は見えなかったが、ゴールデンロックを間近で見ることが出来、感無量でした。 


     その日の内にヤンゴンまで戻らなければならなかったので、ゆっくりもしていられなかった。1時間もしない内にホテルに戻り、山を下りることになりました。帰りも山頂手前からはあの荷台付きトラックバス。覚悟を決めていたのですが、運転席の後ろに乗れるよとの特別オファーがありました。いくら余分に払えば後ろに乗れるのかと確認したところ、わずかな金額だったので荷台を避け、運転席側の後部座席に座ることにしました。今度は行きと違って前方の道が見え、どんな道を走行しているのかを確認出来、道中を楽しむことが出来ました。行きの話だが、荷台に乗っていると、飛ばされないように椅子になっていた板をしっかりと握るので必死だから景色どころではなく、車が目的地に到着した頃にはいつも使わない筋肉がパンパンに張っていて力を使い果たしたかのように疲れていました。

下りのトラックバス乗り場



8:合図 日本の兵隊が待っている場所に到着


    一気に山から下ってきたトラックバスはあっという間に山の麓の停留所に到着しました。トラックから降りると、前日ここまで送ってくれていたドライバーが待っていてくれていました。トイレを済ませ、ヤンゴンまで車で戻り始めました。車が走り出し、暫くすると、『いったいどこで日本の兵隊方は待っているのか』という不安感が募ってきました。私は行きと違う反対側の風景を眺めていました。相変わらず、頭の中に残っていた映像と似通った場所はたくさんありました。特に水草は私の見た映像通りのものがあってかなり意識を集中して探していたが、やはりそんなに都合よく頭の中にある風景を見つけられるわけがない。妻も私と同じように焦り始めていました。 


     その時、突然、日本の兵隊が私の身体に入り、合図をくれました。ドライバーが素早く反応して車を止めて、窓の外に目をやると、日本にいた時に見ていた映像そのままの場所が目の前にありました。思わず、『ここ、ここ!!!』と言って車の外に飛び出しました。『この場所を見ていたんだ』そして川に生えている水草を見ると、私が日本で見ていた風景の通りの場所に水草が川の流れとは逆に向いている箇所がありました。その場所はまさしく日本の兵隊方が列をなして立っておられた場所でした。初めてのミャンマーでこのような何の変哲もない場所を見つけ出せる奇跡を目の当たりにして、すごく興奮していました。そこで持ってきた御飯やお供えものを置いて、暫く立ち竦んでいました。『本当にここまで来る事が出来た。本当に日本で見ていた映像と同じ場所に来れるなんて思わなかった。やったよ。本当に迎えに来れたよ。皆で日本に一緒に帰りましょう!」と叫びました。川の中までは入りませんでしたが、その場所の土を袋に入れて持ち帰ることにしました。日本で見た映像の場所を見つける気概ではミャンマーまで来たけど、本当に辿り着けるとは思わなかったと言うのが正直な気持ちでした。場所をガイドに聞くと、ここはシッタンという場所らしく、大きな川を挟んでイギリス軍と日本軍が戦闘を繰り広げたようでした。2015年(この当時は2011年中)になって、インパール作戦に関する本を読むうちに、この史実確認が出来、その時は感慨深い気持ちになりました。きっと、今回、依頼をしてきた日本の兵隊もその戦闘の中、亡くなったのだと改めて思いました。

日本で見ていた風景が本当にミャンマーにあるとは・・・。ここで立つ日本の兵隊さんたちを見ていました。何の変哲の無いどこにでもある道路脇。よくぞ、こんな所から私に来てほしいと尋ねてきてくれたものだと感慨深く、長居したくなった。


この場所を探している時、前日にドライバーさん、ガイドさんの水草の特徴を書いて、説明していた記憶を思い出しました。それがその時の絵です。水草は川の流れとは逆方向にそこだけ流れている・倒れていると説明していました。実際、見つけた場所の水草は本当にその通りでした。



9:プレッシャーとの闘いだった


    無事、ヤンゴンに到着し、ホテルの部屋に辿り着きました。結果を見れば、妻の選択した観光ルートは選択を間違っていませんでした。が、二人ともかなり焦っていた事には違いなかった。2人だけなのに、こんな緊張感を持って旅をしないといけないのかとドッと疲れが出ました。自然と精神的に必ず日本の兵隊方に帰国して頂きたいという思いが自分自身にプレッシャーをかけ、重圧に変わっていたのだという事がわかりました。あと、きっと、日本の兵隊方からの見えないプレッシャーも感じていたのかもしれません。  


    ホテルに戻った後、妻は疲れが全て吹き飛んだかの如く、再び、夜のシュエダゴンパゴダに行きたいと言うので、ガイドさん、ドライバーさんに無理を言って、連れて行ってもらいました。シュエダゴンパゴダに向かって、ミャンマーの土地神々様に御礼を言いました。この国で亡くなった日本の兵隊の御霊を連れて帰る活動をこちらでさせて頂き有り難うございましたとご挨拶と感謝の意を述べました。妻もきっとパゴダを通し、天に向かって御礼を言っていたに違いありません。   


    夕飯を食べた後はホテルに戻り、大役を終えた安心感からか身体から力が抜けてしまい、あっという間に眠ってしまいました。次の日はヤンゴン市内の博物館や市場に行く事になりました。私にとっては、あとはどうでもいい半日となったので、ツアープランの通りに身を任せました。妻はマーケットで布地を買い込んでいました。その間も、私はただただ満足感に浸り、あとは無事日本へ帰国する事だけしか考えていませんでした。  


    搭乗時間に遅れないようにヤンゴン空港に向かい、今回の旅の内容の変更に協力してくれたガイドとドライバーに御礼を言い、少しばかりのチップを渡しました。すると多過ぎたようで、強く握手を求められました。彼らと別れを告げ、空港内へ入りました。後は荷物検査を無事通過できれば、飛行機に乗るだけとなる。ミャンマーという国は想定外のことが起こりそうで、心配でしたが、結局、全く何も問題無く、無事荷物検査をパスし、タイ王国チェンマイ行きの飛行機に乗り込むことが出来ました。1時間ほどのフライトで子供が待つタイ王国へ到着し、ほっと胸を撫でおろしました。『早く子供の顔が見たいな』



10:新たな霊媒者との出会い


    空港に着くと、妻の電話がいきなり鳴りました。妻が何やら真剣な表情で話していました。電話を切ると、妻は実家に帰らず、そのまま昨年お世話になった霊媒者の家に向かうと言い出しました。何でもそこに別の霊媒師がいて、我々二人にどうしても会いたいと言っているようでした。昨年お世話になったという事もあり、安易に断ることも出来ず、仕方なく、2人の霊媒師が待つ家に行く事になりました。霊媒師の住む家に着くと、一人の若い女性が待っていました。私は、最初、勘違いをして、子供だと思っていました。すると、彼女が我々を待っていた霊媒師だというので少し驚きました。背筋を伸ばしとても礼儀正しく丁寧に話をされていました。妻とその若い霊媒師はすぐに打ち解けたようで、旅の疲れも忘れ、長々と話していました。気が合ったのだなと感じました。それから二人は連絡先を交換し、別れる事になりました。数日後、兵隊方が待っていた帰国を果たす為にタイ王国チェンマイから日本へ帰国する事となりました。


 

11:愛知県渥美半島 三河湾を見渡す海辺へ

 

    帰国して、さっそくH寺ご住職に連絡をさせて頂きました。11月に高野山J院が主催する慰霊ツアーに参加するかもしれなかったのですが、無事、我々の元に現れた日本の兵隊方とミャンマーのシッタンで合流し、帰国できた旨をお伝えしました。ご住職に心配して頂いていましたので、大変感謝の気持ちでいっぱいでした。恐縮ではあったのですが、11月の慰霊ツアーはご住職にわざわざミャンマーまでご足労をお願いする事なく対処できた事が良かったと思うばかりでした。   しかし、帰国した日本の兵隊方に対して何処で何をしたらいいのか全くわかりませんでした。これからの彼らの気持ちは具体的にどうして欲しいという事は言ってこないので、悩む日々が過ぎました。 ある日、『どうしたらいいかな?』と途方に暮れていると、愛知県渥美半島のある場所が頭の中の地図で浮かんできました。私はさっそくgoogle earthでその場所を確認しました。そこは三河湾に面した浜でした。 9月になって、その場所を指定してきた日本の若い兵隊方を伴って、日曜日に車を走らせる事になりました。愛知県渥美半島は自宅から近いようですが、かなりの時間を要しました。その場所に指示通りの浜があって、早速その浜辺を歩き始めました。砂浜に座り込み、寝転がりました。するとその時、彼らの気持ちが私に伝わってきました。『やっと帰ってくることが出来た』と。しばらくして、起き上がると、目の前に30名程の若い日本の兵隊方が立っていました。皆、満面の笑みを浮かべて、白い歯を覗かせていました。そして、揃って我々に頭を下げ、お礼の言葉を掛けてくれました。『俺は何の後悔もやり残した事も無いわ。それだけ幸せそうな笑顔を見たら、本望。ただただ、自分の事のように嬉しくて嬉しくて。皆、こちらの方こそ、こんな素晴らしい経験させてくれて有り難う。皆でうまく協力しあって無事日本に帰れたな」と心の中で話していました。事の次第を妻に話すと、妻も同じように喜んでいました。これにて、2011年ミャンマーでの兵隊方の帰還のお手伝いを無事に終える事が出来ました。目の前に並んでいた若い兵隊方は、シャボン玉が空に消えていくかのように目の前から姿を消していきました。きっと彼らの望郷の念は解消され、あの世に旅立っていったのかもしれない。普通の生活に戻れる幸せを噛み締めながら、タイ王国とミャンマーでの日本の兵隊方からの帰還依頼は完了し、2年に渡る奇妙な旅は終わりを告げることとなりました。


帰国して、さっそくH寺ご住職に連絡をさせて頂きました。11月に高野山J院が主催する慰霊ツアーに参加するかもしれなかったのですが、無事、我々の元に現れた日本兵とミャンマーのシッタンで合流し、帰国できた旨をお伝えしました。ご住職に心配して頂いていましたので、大変感謝の気持ちでいっぱいでした。恐縮ではあったのですが、11月の慰霊ツアーはご住職にわざわざミャンマーまでご足労をお願いする事なく対処できた事を良かったと思うばかりでした。

 しかし、帰国した日本兵の魂に対して何処で何をしたらいいのか全くわかりませんでした。英霊の魂は具体的にどうして欲しいという事は言ってこないので、悩む日々が過ぎました。

ある日、「どうしたらいいかな?」と途方に暮れていると、愛知県渥美半島のある場所が頭の中の地図で浮かんできました。私はさっそくgoogle earthでその場所を確認しました。そこは三河湾に面した浜でした。

9月になって、その場所を指定してきた日本の若い兵隊達を伴って、日曜日に車を走らせる事になった。愛知県渥美半島は自宅から近いようですが、かなりの時間を要しました。その場所に指示通りの浜があって、早速その浜辺を歩き始めました。砂浜に座り込み、寝転がりました。するとその時、英霊達の気持ちが私に伝わってきた。「やっと帰ってくることが出来た」と。しばらくして、起き上がると、目の前に30名程の若い日本の兵隊達が立っていました。皆、満面の笑みを浮かべて、白い歯を覗かせていた。そして、揃って我々に頭を下げ、お礼の言葉を掛けてくれました。最後は素晴らしい演出のようだなと私は思いながら、「俺は何の後悔もやり残した事も無いわ・・・それだけ幸せそうな笑顔を見たら、本望・・・ただただ、自分の事のように嬉しくて嬉しくて・・・皆、こちらの方こそ、こんな素晴らしい経験させてくれて有り難う・・・皆でうまく協力しあって無事日本に帰れたな・・・」と心の中で話していました。事の次第を妻に話すと、妻も同じように喜んでいました。これにて、2011年ミャンマーでの兵隊達の帰還のお手伝いを無事に終える事が出来ました。きっと彼らの望郷の念という執着を解消させる事によって、満足し、あの世へと旅立ったのだろうと胸をホッと撫で下ろし、普通の生活に戻れる幸せを噛み締めるのであった。


彼らの帰郷の念が魂に伝わってきました。これほどの思いか・・・。これでタイ王国とミャンマー、2つの国を股にかけての日本への帰還のお手伝いは終わったと思いました。


12:真っ黒い顔に目を大きく見開く男たち

 

    愛知県の出来事で2011年は完了したと思っていましたが、シッタンにいた日本の兵隊方の総数は八十数名と言っていた事を思い出しました。気になりながらも、他の人たちは日本に帰国した事でそのまま成仏し、あの世に行ったのかもしれないと安易な気持ちで毎日を過ごしていました。すると、目を大きく見開き、左右に目を動かす、顔に黒く色をつけた男性がたくさん見えました。数日間、同じ映像が頭の中に浮び、怖くなってきました。 


     2週間を過ぎた頃、ちょうど夕飯が終わり、テレビを見ていると、一人の男性が『おまえには我々の姿が見えないのか!』と怒鳴りつけてきました。私は霊視がきくわけではなく、どちらかというと頭の中に映像が出てくるタイプの人間だという事は自分自身でも気づき始めていました。そして、家の外に出てこいと言うのです。悪意は感じず、外に出ても危険ではないと感じましたので、外に出ようとすると、それを必死に止めたのは息子と妻でした。私は家の外に幾人かの霊体の気配を感じていましたので、家の外に出て話をしてみようと思ったのですが、家族の反対を押し切れず、家から出る事が出来ませんでした。 


     それから数か月後、霊視のような能力を持つ金沢の方に聞いてみると、『九州出身の炭鉱夫だった方たちでインパール作戦に赴き、命を失った方たちですよ』と言われ成程と納得致しました。彼らは地面から何度も顔を出し、警戒している様子でした。思い起こすと、身形が兵隊さんだったと気がつきました。外に出るように言われた時、やはり出ておくべきでした。おそらく、彼らは、家の外で最後に御礼と挨拶をしたかったのではないかと思うのでした。これで、合流した日本の兵隊の頭数は揃ったということにして、普通の生活に戻れる幸せを再び噛み締めました。この時点では、この見えない世界からの日本の兵隊方による帰還依頼は、完全に終わりだと思っていました。

英霊の依頼-インパール作戦に沿って-

「我々の処へ迎えに来てもらえませんか?日本に帰りたい」 我々家族の元に現れる日本兵とは第二次世界大戦インパール作戦で敗退し、亡くなった若い兵隊さんたちです ミャンマー、タイ王国、中国、インドと各々の呼ばれる場所へ訪問、合流し、帰国へ 2009年の秋 一人の兵隊から始まった日本への帰還依頼は、多くの帰国を願う兵隊たちに広がり 2025年12月 20回目の依頼を終えた。