第11回目 インド サンジャーク 2017年12月
1:『まだ終わっていない』
香川県善通寺にあるビルマ戦没者慰霊塔パゴダの前で伝わってきた日本の兵隊の幽霊の思念が、『まだ終わってない』だった。が、すぐに『どういうことなんだろう?』という思いでいっぱいになった。
『そういえば、サガインヒルで声をかけてきた男がいたな』
2017年3月、ミャンマーで最後に立ち寄った場所がマンダレーの隣町にあるサガインヒルでした。この見晴らしの良い場所に立つ慰霊碑を私共夫婦と北海道のF氏は訪れました。慰霊碑に手を合わすF氏に対し、『そこにはいないよ。早く帰ろう』と日本の兵隊が声をかけてきました。慰霊碑の兵団の名前を見ると、鯨でした。調べによると、鯨兵団は、中国へ赴いていた部隊でしたが、中国での任期を終え、帰国した一部の彼らは、人手不足のためか、再び招集がかかり、ビルマ・インドで繰り広げられたインパール作戦に従事することになりました。配属先は、第31師団、烈であったそうだ。思念の声をかけられた私は、早く日本へ帰りたいのかと思っていたのですが、後にそうでないことを香川県善通寺で知ることとなった。
2:正式な帰還依頼
前回の日本の兵隊からの日本への帰還依頼完了後、1か月が過ぎた頃であろうか、2017年5月25日、11回目の帰還依頼が再びやってきました。香川県善通寺にて聞いた『まだ終わっていない』の答えが、この依頼だとすぐにわかりました。
『やはり、そうだったか』
現在、彼らのいる場所は、インパールから近い場所であるとのことでした。それを妻と北海道のF氏に伝えると、インパール方面だと彼らは言い始めました。各々、感じるところがあったらしいが、私の中では若干、違和感を持っていました。確かにインパールの近くだと言われましたが、私の意識がミャンマーのホマリンよりも下方に向いていました。そこで、ミャンマーでお世話になっているガイドさんに声をかけてみました。すると、ホマリンから南へ下ったチンドウィン川近くにあるトンヘという村の話をし始めました。どうも、彼がお手伝いしている遺骨収集団の日本人グループと同行した最近の場所がトンヘという村であり、戦勝病院として戦時中利用されていたようでした。そして、多くの遺骨が見つかったと聞きました。すると、私の意識が、すぐにトンヘ方面に向きました。帰還依頼に訪れた日本の兵隊の幽霊の様子を伺うと同意するような思念が伝わってきましたので、そこかもしれないと思いました。が、それはあくまで私の意識をあるルートへ導くための誘導だったようでした。
3:コヒマからの退却路 ウクルル道
2017年6月1日。トンヘが次の日本の兵隊との合流場所かもしれないと勘違いをし始めた私は、その場所に関する資料をあさり、知識を得ていくようになりました。すると、時折、見える風景が狭い道であり、その道を意識すると、今度は、その先へと意識が伸びていきました。そして、意識の止まった場所が、インパール手前のサンシャークという村でした。5月25日に兵隊さんが私の所に来て伝えられた『インパールから近い』という言葉通りの場所でした。
『ここだったか』
私は、まだインパール作戦の激戦地の一つであったインド側には訪れたこともなく、本当に行けるのかと心配し、その場所へ行って日本の兵隊方と合流することに疑いを持ち始めました。そして、その迷いは、ミャンマー側のトンヘだけでいいんじゃないかと、逃げるような思いに支配されていきました。
4:靖国神社 偕行文庫にて資料を頂く
東京で、北海道のF氏とお会いすることになりました。過去3回、英霊の依頼と名付けたこの活動に同行して頂いた際の思い出を振り返りながら、緊張感に包まれた道中とは違う気楽な気持ちで会話を楽しむことにしました。2017年7月11日、はしご酒(2軒)をしながら、夜遅くまで話をし、次の日に靖國神社偕行文庫へ共に伺うことになりました。
私は事前に靖国神社偕行文庫のK室長に、次回の日本の兵隊からの帰還依頼の場所サンシャークについて、資料がないかといったご相談をさせて頂いていました。いつも、このK室長には資料提供でお世話になっていました。現地に伺った際、K室長から頂いた資料は、現地で非常に参考になり、インパール作戦に無知な私に様々な知識やヒントを与えて下さる貴重なものとなりました。
7月12日の朝、お約束していた時間を少し過ぎてはいましたが、無事、K室長とお会いすることが出来、インパール周辺、特に、31師団 烈兵団の左翼ルート、祭兵団の右翼ルートをベースにおいた資料のご提供を受けることになりました。その時、ピンと来ない地図も、後々、たいへん参考になる資料となっていきました。
靖国神社 偕行文庫で頂いた資料を、各々、北海道のF氏と共に自宅へ持ち帰ることになりました。後は、どうやって、どのようなルートで今回の依頼を遂行するかになりました。私は、ミャンマー訪問時にいつもお世話になっているミャンマー在住のN氏経営の会社スタッフと連絡を取りながら、ミャンマーのトンヘよりスタートし、国境を越えて、インドへ入国、サンシャークへ向かう2国間を跨ぐルートを模索し始めました。理由は、戦時中、退却路として使ったもしくは進行中に使ったウクルル道を辿ってみたいという感情に支配されていたからです。『私の意識がウクルル道を辿り、ミャンマー側からサンシャークまで伸びていった』というこの事実を大切にしたかったのかもしれません。しかしながら、ミャンマーからインドへ向かうルートは、ミャンマー政府により禁止されており、N氏スタッフやミャンマー人ガイドさんも、ミャンマー側からインドへ入国し、サンシャークやインパールへ向かいたいという提案にあまり反応が良くありませんでした。正直、私も徐々にどうしたらいいのかわからなくなり、ほとほと困り始めることとなりました。
5:サンシャーク高地手前で銃弾に倒れる
2017年9月14日、私は、70年以上も前の第二次世界大戦に意識がタイムスリップしました。高地を陣取るイギリス兵(連合軍)を攻撃し、奪取する作戦に加わっていたようでした。私は、数人の日本の兵隊と共に木々に身を隠しながら、高地斜面を徐々に登っていきました。高地で陣取る場所が見えてきました。敵兵の姿はない。『右側から登るのは少し危険な予感がする。正面は傾斜がきつい。左側からいけるか?』と考えていました。そして、高地陣地手前まで近づき、腰を低くしていましたが、立った瞬間に、右眉毛の上辺りに銃弾を受けてしまった。おそらく、助からないというか、死ぬのがわかりました。頭を撃ち抜かれては、さすがに厳しい。そのまま、背後に倒れそうになった時の風景が、私の頭の中に焼き付きました。
『青い空』
傾斜になった場所には木々がありました。その隙間から青い空が見え、その景色がとても強く印象に残りました。左右の視界に敵の姿はなかった。どこから撃たれたかわからないまま、仰向けに倒れていました。あっという間の出来事で、痛いと感じる暇も無かった。 『そうか、そこで死んだんだな。そうやって、死んだんだな。』
6:「道は開かれる」
しかし、場所は、インドの山奥・・・。サンシャークへ辿る様々なルートを考えましたが、そんな場所へ行くガイドもいないだろうし、何よりも危険しか無い。半ば、途方に暮れていた私は、インド・サンシャークの景色が、突然見え始めました。私の意識は再び現在のインド、サンシャークへ飛びました。上空を見上げると、鳥と人間が合体した妖怪か神様のような出で立ちをした存在が旋回をしていました。
こんな姿の神様
『んっ?目には見えないが、何かエネルギーのようなものを山々に振り下ろしているな。あれは、何なんだろうか?』
その見えないエネルギーが下りてきた土地周辺の空気が落ち着き払うかのように整えられていきました。じっと見つめる私にその鳥と人間が合体した存在の意識が、話しかけてきました。とは言え、日本語ではない。その存在の意思がテレパシーとして伝わってきました。私なりに通訳すると、以下です。
『この場所をならしておいたから、大丈夫だ。準備しといたから、もう来れるよ。』
私は『あほか・・・。行かれへんやろ・・・。どうやって行くねん・・・。俺に神通力は無いぞ』と時間の経過と共に思いました。『仮に何かしてくれたとしても、どうやって行けるねん?街でも無いし、観光地でもない。山の中にある村だぞ』と悩んでしまった。『もうビザも間に合わないし、絶対、今から、我々の行く特殊なイレギュラー的なツアープランを考えてくれる旅行会社・ガイドが見つかるわけがない』と苦悩していると、その半鳥人間から、またテレパシーが伝わってきました。
『道は開かれる』
そんな連絡をまた受け取った私は、仕事が多忙でしたし、『どないしたらいいねん!』と泣きが入りました。すると、北海道のF氏が、インドでの旅をサポートして下さる現地旅行会社が見つからない状況を打破されるがごとく、ミャンマーでお世話になっているN氏に相談し、インドで秘境系の旅に強そうな旅行会社をご紹介して頂きました。この時が、11月6-8日頃でした。北海道のF氏は、その情報を元にその会社と連絡を取り、あれよあれよという間に旅の手配を整えていきました。まさに電光石火のごとく、話が進んでいったという印象でした。
その旅行会社は、我々のしている活動に見事に沿うような旅のプランを組み立てて下さり、また、インパール作戦戦史・戦跡に精通した百戦錬磨みたいな適任ガイドと4輪駆動車2台を手配をして下さいました。
F氏とその会社とのメールの遣り取りの速度が速く、私の確認が追い付かない程に進み、その内容を遅れながらも見る限り、『よくここまで我々の意向を汲んで下さり、旅のプランを組んで下さったな』と感心するばかりでした。最終的に出来上がった旅のプランは非の打ちどころの無いものとなりました。本当に天を仰ぐような気持ちになりました。ただただ、この旅に携わる全ての人々と不思議な現象に感謝する他なかった。
旅のプランが、おおよそでも決まれば、次はビザの申請。インド国内線の航空券などがメールで届いたのは12月初めでした。ビザを取得する期間としては非常に短く、ビザ発行にかなり厳しい状況でしたので、そのまま、ビザを申請してくださる代行業者にお任せし、12月13日には、無事E-visaを取得致しました。これにて、英霊の依頼活動11回目の手筈は全て整いました。 まさに道は開かれたようでした。
7:インド・インパールへ向け出発
2017年12月23日。我々夫婦が利用する日本国内の空港は北海道のF氏とは違う空港でした。ですので、今回の我々チームの合流場所をタイ王国バンコクにあるスワナプーン空港に致しました。お互いにタイ王国バンコクへの到着時間はほとんど誤差がなく、無事、合流を果たしました。タイ王国バンコクからは3人(私共夫婦、北海道のF氏)揃って同じ飛行機に乗り、一路、インドのカルカッタへ飛び立ちました。
カルカッタに着いたのは深夜。現地旅行会社のアドバイス通りに、空港内にあるプリペイドタクシーを利用して、予約していたホテルへ移動することになりました。ホテルに到着した際、私の妻が乗車料金を払おうとすると、タクシードライバーがお金を誤魔化そうとしたらしく、妻がその巧みな嘘を見落とさず、指摘をし難を逃れました。初端から油断ならぬ始まりとなりましたが、我々はいつもより、きっと大丈夫であろうという気持ちになっていました。何故なら、今回の旅は、何が起こっても、道が開かれるからだと確信めいた妙な自信がありましたので。
8:いざ、インパールへ
2017年12月24日。国内移動の為、カルカッタのホテルから、国内線空港へ向かいました。空港内に入る為、ここで1回目の荷物検査を受けました。ゲートには銃を持ったインド兵士のような方が立っておられ、少々おっかない気持ちになりました。空港内へ入ると、チェックインカウンターへ。3人いれば安心で、荷物の重さも問題なくパス。誰かが列に並び、他の者が荷物の見張りをする。良いコンビネーションでした。3人はさらに空港内部へと移動し、さらに2回目の手荷物の検査を受けました。面倒なプロセスに少々うんざりしてきたが、旅の安全には必要なことだと理解するように努めました。ここで北海道のF氏は携帯用バッテリーで執拗な検査に受け、手間取りました。
最終的には、無事、3人共に検査をパスし、搭乗ゲートに到着。しかし、思った以上に時間がかかった為、空港内で朝食を取ろうという算段が崩れました。搭乗時間が来て、機内へすぐに乗り込む。すると、インパール空港側が濃霧の為、離陸を延期するとのアナウンスが流れました。昨日の飛行機移動で疲れていましたので、ちょうど休むにはいいかなという感じでした。結局、1:45分遅れでインパール空港へ向けて飛び立ちました。
機内ではオプションですが、朝食が用意されており、サンドウィッチとカップラーメンの2種類から選ぶことが出来ました。ラーメン好きな私は、ラーメンを選択。F氏はサンドウィッチ。妻もラーメンを選びました。これで、現地に着いても、すぐ行動に移せる準備が整いました。
無事、インパール空港に到着し、外国人入域登録を終え、空港出口へ向かって歩き出しました。すると、一人の男性が我々の名前を書いた紙を持って立っていました。彼が、戦史ガイドのアランバム氏でした。胸に日章旗のバッチをつけていて、顔はインド人に見えず、我々寄りの顔立ちをしていました。年齢は44歳ということで油の乗り切った経験豊富なガイドという印象でした。
さっそく、空港内のソファに座り、息の合ったチームメンバーかのように、その日の行動予定を話し始めました。食事を聞かれましたが、昼食抜きでさっそくインパール南方面の33師団弓兵団の戦跡レッドヒルやサドへ向かうことになりました。
空港の外に出ると2台の4輪駆動車が止まっていました。F氏が1台だと不安なので、2台手配して頂き、この用心深さが旅の安全性を高めてくれました。キャラバン隊のような気分で空港を後にしました。
9:集まる兵隊 レッドヒル
空港を出て、一つ目の訪問地であるレッドヒルと呼ばれる場所へ到着しました。車を止めた目の前には小高い山がありました。『土が赤い』これがレッドヒルであるようだ。車から降りると、右側の方に意識が引っ張られました。『誰かが呼んでいる』そう思いましたが、ガイドのアランバム氏は、我々を逆方向のインド平和記念碑に先導してくれました。献花台には、線香・花・蝋燭・煙草を皆で用意。皆が順々に手を合わせ、ここで亡くなった日本の兵隊の成仏を祈願致しました。しかしながら、私は、反対側に意識が向いていました。何名だろうか。日本の兵隊が集まってきているのを感じていました。あちこちに点在していた方たちのようで我々が来たことを知り、集まってきたのだとわかりました。その際、木の少ない、隠れ場所の少ない平原の映像が飛び込んできました。そんな場所をウロウロと彷徨していた方達のように見えました。我々の訪問を、非常に喜んでおられ、私もそれに対して、非常に嬉しく思いました。『日本へ帰りましょう。もう大丈夫ですよ』と声をかけさせて頂きました。そして、無事、合流し、帰国するまで一緒に行動をするように念じました。
綺麗に整備された慰霊碑を後にして、次は車を止めた場所の反対側へ向かい始めました。誰かに呼ばれた方向だ。そこはロトバチンとカタカナで書かれた慰霊碑があり、右側に機関銃が置かれていました。どうも大阪の工場で作られたものであったようです。『なるほど。(大阪在住の私に)これを私に見せたかったのか』私は、後にこちらに引っ張られた理由を知って、納得致しました。なんとなく、この銃を見せたかった日本の兵隊の必死さが伝わってきて、彼の心情を察しました。改めて、私は、この度のインド訪問の大切さを噛み締ることとなりました。我々が来たことで帰国出来る兵隊がおられることの事実。この点を非常に大切にしたいと思いました。
この後は、現地の古老宅を訪問。70年以上も前に、日本の兵隊がやってきた時の話をして下さいました。が、既にレッドヒルで合流した安心感からか、それほど古老の話が耳に入って来ませんでした。私の優先順位は、日本へ帰国したい兵隊方に一人でも多く合流し、日本へ帰国するお手伝いをすることだと再認識しました。この後は、野戦病院があったとされるサドへ行きましたが、何故だか何も感じませんでした。不思議には思いましたが、これが特に重要視される必要はない。帰国を願う魂が存在しなければ、それはそれで良しという風に思いました。
車はインパール市内へ向かって走り出し、途中、チャンドラボース博物館へ訪れました。すると、知っている存在が、焦燥感と共に話しかけてきました。『早くこちらに来て欲しい』すぐにその存在が誰かわかりました。『おそらく、サンシャーク方面だろう』今回のインド・サンシャークに迎えに来て欲しいと連絡を取ってきた日本の兵隊でした。しかし、私がわざわざインドまで来た目的が彼と合流し、日本へ帰る為であるのに、何故、そんなに焦っているのかが気になりました。どちらにせよ、今すぐ、そちらへ向かうことは叶わない。彼には、我々の事情・状況を冷静に納得してもらうしかなかった。
博物館見学後、インパール市内へ移動する途中、風光明媚なロクタク湖が見える高台にある場所でコーヒーと現地の野菜の天ぷらを食べながら、休憩をさせて頂きました。景色も良かったが、日本からずっと緊張しっぱなしで、ゆっくりと出来る時間を持ちたかったので、ちょうど息抜きになりました。インパールの南方面へ、ロトバチン慰霊碑にて、日本の兵隊と数名、合流を果たせたことは本当に良かったと思います。前回のF氏の提案による英霊の依頼活動で学んだ依頼無き英霊の依頼活動の経験を活かせたと思います。
美味しいインドのコーヒーで一服した後、インパール市内のホテルへ移動しました。ここインパールでのホテルは、正直、あまり期待していなかったのですが、思った以上に綺麗で、ハードな旅の身体を休める場所として、最高でした。 ホテルにチェックイン後は、ホテル内で夕食。ご当地グルメであるマニプール料理を食べることになりました。正直、私の口には合わず、妻と北海道のF氏が、マニプール料理を楽しむ姿を見て、羨ましく感じました。『どこでも辛さにタフだな・・・』とジッと二人を見つめるのであった。この2名はインドのどこでも生きていけそうでした。
この後は、各々、部屋に戻り、ゆっくりさせて頂きました。部屋のシャワーはとても熱いお湯が出るので、背中の中心にずっと熱いお湯を当て、打たせ湯のような感じで疲れを取りました。明日に向けて、少し元気を取り戻したように感じました。
インパール二日目は、センマイ・カングラトンビ、ミッションへ。ここは妻が行きたいと言っていた場所でした。私は、既に意識がサンシャークへ強く向き始めていた為、省きたい気持ちがしたが、妻の意向も汲まないといけないという気持ちから、北海道のF氏がサンシャーク方面へ先に行きましょうかという御提案をお断り致しました。が、この時、私の優先順位と、F氏の優先順位が同じであると思える瞬間を持てたことで士気が上がりました。きっと、F氏も日本の兵隊方に帰還して頂き、成仏する手助けをしたい気持ちでいっぱいなんだなと思いました。些細なことかもしれませんが、こういう活動をしている時、こういった共感はとても重要であると私は思いました。
10:カングラトンビ・ミッション
2017年12月25日。妻が日本を発つ前に行きたいと言っていた場所がカングラトンビ・ミッション方面でした。正直、私の意識はサンシャーク方面へ向いていましたので、ここは妻の意識の向かう処という感覚で尊重しました。過去ずっと、英霊の依頼活動を共にしてきた妻の功績を考えると、きっと、妻側に強く現れる見えない縁・繋がりかもしれないと捉え、丁寧に向き合うように務めました。
初めに訪れた場所は、センマイと呼ばれる場所でした。インパール市内から北方面へ30分車で移動した場所です。そこで、F氏は日本の兵隊への供養の為、煙草に火をつけ弔っておられました。この後は、カングラトンビで妻が何かに反応したようで、ここは妻に任せ、私は体力温存と言う意味で休ませてもらうことにしました。今回は何故か疲労感がひどい。妻も精神的に不安定になっていた感が否めなかった。
次に訪れたのは、ミッション。ここも清々しい場所で、日本の兵隊の気配を感じることがなかった。しかしながら、当時は重要な戦地周辺。ここで日本の兵隊の供養の為、食事を用意することにしました。味噌汁・柿・煙草・線香・花・蝋燭。味噌汁を作ると、嘘のように、日本の兵隊の気配が集まり始めました。何も感じなかった場所に味噌汁の匂いで引き寄せられ、懐かしい日本の料理に反応したのかもしれない。見えない世界に精通していない私にとっては、非常に驚く現象でした。そして、それがきっかけで、今いる場所とは反対側の山から日本の兵隊の存在を無数感じました。むやみにインドの山に入っていくことは危険ですし、全員を日本へ連れて帰ることが出来ないことを悟りました。悔しい限りですが、もし、私に強制力といった能力があれば、全員、連れて帰りたいところですが、無力な自分に歯がゆい思いをしました。きっと、いつか、しっかりとした能力を持った持ち主が、ここに訪れ、彼らを成仏させて下さることを祈るばかりです。
ミッションからインパール市内へ再び帰ってきました。ここでインドのスパイスティーを頂き、その後は、ガイドのアランバム氏自宅にあるインパール戦争博物館へ伺いました。敷地内に入り、博物館へ進むと、連合軍側が使用していたと思われるバイクの残骸が1階に置いてありました。戦争博物館は建物の2階にあり、階段を上り、部屋に入ると、何か目に見えない圧力と存在感のようなものを感じました。中へ入らせて頂き、しばらくすると、アランバム氏は、新聞紙に包まれた靴のソールを見せてくれました。妻はそれに反応し、この靴のソールについた土を日本へ持って帰って欲しいという思念を感じ取ったようでした。すると、F氏がそのソールに着いた土を頂いていいかとアランバム氏に尋ね、紙の上に落とし集め始めました。それを包み、私が持参していたジップロックの袋に丁寧に入れ、持ち帰ることにしました。
『これ、F氏に預かって持って帰ってもらって』
妻が私に手渡しました。一瞬、F氏を見るが、そのまま、私のリュックの中にしまうことにしました。
後程、F氏にこの話をすると、なんとも言えない表情をして、『私が持って帰っても、何も出来ませんし』と困った表情でご返答を頂きました。遺品となると、誰でも恐怖心を抱くのは当然ですので、私がしっかりと日本へ持ち帰る決心を致しました。
この後、アランバム氏の自宅でティーを頂きました。アランバム氏の奥様もインド人っぽくなく、とてもお綺麗な方でした。突然、私の妻が、アランバム氏の奥様を前にした時、目的地サンシャークの次に行く予定にしていたカムジョンという村の名前が頭に入ってきたようで、アランバム氏の奥様に『もしかして?』と出身地を聞いてみました。すると、今回、訪問予定に入れていたカムジョン出身の方でしたので、妻は非常に驚き、すぐに私とF氏に教えてくれました。我々が向かうインド山中にあるギリギリ訪問可能な村の出身の奥様。我々は妙な興奮を覚えました。自分で予定地に入れておきながら、不思議な縁を知ったことでさらなる見えない奇妙なご縁を感じることとなりました。
そんな驚きも束の間、この後、F氏がクレジットカードを落とすというアクシデントに見舞われました。しかしながら、奇跡的に、無事、道路に落ちているところを発見し、事なきを得ました。アランバム氏曰く、『無くしたことをアンラッキーだが、見つかったことは最高にラッキーだ』
帰途、レストランで、中華料理を頂き、ホテルに戻りました。次の日は、いよいよサンシャーク。早めに就寝し、英気を養うことにしました。
11:目的地サンシャークへ
2017年12月26日。この日の予定は、サンシャークで宿泊だが、明後日にはカムジョンまで足を伸ばすことになっていました。時間的に余裕が無かったのですが、3人共に、お寺で現地の土地神様にご挨拶をしてから向かおうかと意見が一致し、アランバム氏へ今日の目的地に行く途中でしっかりと心身を整えて目的地に向かうことが出来そうな良いお寺に立ち寄って頂くことをお願い致しました。すると、インパール市内にある信仰心の厚い市民の姿が見える雰囲気の良い格式の高そうなお寺に連れて来て下さいました。境内に入ると、そこで信じられないものが目に飛び込んできました。なんと、鳥の姿をした神様が祭ってありました。私を非常に驚くと共に『日本で見た鳥の神様だ・・・。サンシャーク周辺の山々の上空を旋回していたあのガルーダのような鳥の神様。奇遇だろうが何かそうでないような気もするな』と非常に腰を抜かしました。この鳥の神様がサンシャーク周辺の山々を旋回した後、現地で待つ無数の霊魂が落ち着きを取り戻し、我々が迎えに行く準備を整えられたので、大丈夫だと伝えてくれていました。そのことを、日本を発つまでの間、仕事が多忙で、忘れていたことを、改めてこのお寺で思い出させてくれました。そして、現地の人々に混じらせて頂き、一緒に洗礼のような儀式を受けさせて頂きました。現地の人々に対し、そして、現地の土地神様に対し、礼儀を払うことが出来たようなそんな気分にさせられ、これで安心してインド山奥で日本の兵隊方と合流させて頂き、日本へ帰る許可を頂いたような気持ちにさせて頂きました。いつの頃からか、現地の土地神様にご挨拶をすることが必要なことのように感じるようになり、その習慣は、我々日本人が神社に参拝する理由と同じで、とても重要なことではないのかと思うようになり、今ではすっかり習慣化しており、深々と御礼を言い、礼儀と共に手を合わせさせて頂きました。
お寺でしっかりと今から向かう場所での活動が無事完遂できるよう祈念し、サンシャークへ向かって我々を乗せた車が走り出しました。風景がどんどん変わって、緑の葉が生い茂った山々が増えていきました。『山間部は危険ではないだろうか』少し不安を感じながらも、着実にサンシャークへの距離を縮めていきました。途中、昼食で訪れた村を見る限り、人々の人柄の良さを肌で感じ始め、徐々に安心していきました。ちなみに、道中で立ち寄ったレストランの食事はとても辛く、白いご飯しか食べることが出来ませんでした。『これで良い。無理は禁物だ』と思いました。
しばらく、荒れた道を走った後、ウクルルとサンシャークとインパールへ別れる三又路へ到着しました。『ここが、本で読んだあの三又路か』と感慨深い気持ちになりながらも、すっかり車酔いしていて、頭痛で頭が割れそうになっていました。しかし、写真だけはしっかりと撮影しました。 ここからは、それほど時間がかからずして、サンシャークへ無事到着しました。
12:サンシャーク到着と出迎え
我々の乗った2台の4輪駆動車はサンシャーク村に沿った道路のあるカーブで止まりました。その前には食料品店が並んでいました。
車を下りると、日本の兵隊の存在を村のどこかに感じ始めていました。こちらに日本で帰還依頼してきた日本の兵隊が思念を送っている。すると、ある場所に意識が向きました。『あそこで待っている』と思いました。が、アランバム氏や村人が、反対方向にある村の家に招待して下しました。 我々の疲労を癒すため、一服をさせる為の気遣い・おもてなしだとわかりました。数名の村人がそこに現れ、皆さん、ご家族のようでした。その中に英語を話すコミュニケーションが達者な女性がおられて、間断なく我々に話しかけてきました。そして、椅子とコーヒーを用意して下さいました。非常に有難く、村人たちの温かい人情に触れることが出来ました。
そんな中、我々が反対方向の家に向かったので、一人の兵隊が我々を迎えに来てくれました。彼は眼鏡をかけていて、賢そうな顔立ちでした。我々が村人の女性と長々と話し始めると、その兵隊がイライラとした感情を持ち、早く来を欲しいと思念を送ってきました。 日本の兵隊の立ち位置は、我々がコーヒーを飲む為に椅子を用意して下さった右側で、村人の家に来る為の道路側からの細い下り坂でした。しかしながら、我々の前に座り、懸命にもてなしてくれている村人たちを無視して、どうしても立ち上がることが出来ず、少し待って欲しいと私は念じました。そんな状態が、数分続いた後、先ほどまで『早く来て下さい。皆が待っています』と思念を送り続けていた若い日本の兵隊の姿がどこかに消えてしまいました。
『しまった。どこかへ消えてしまった』
私は後悔したが、どうすることも出来ませんでした。
この後、道路へ戻り、村人がサンシャーク頂上付近の戦跡付近を案内してくれることになりました。が、私は申し訳なかったが、説明には興味が湧くことは無かった。あくまでここに来た目的は、日本の兵隊方と合流して、日本へ共に帰国することでしたので、村人の心遣いと兵隊方の思いの板挟みに苦しみました。 そして、村人が案内して下さった場所で、いろいろと説明をし始めました。私は、その説明が全く耳に入らず、ただただ日本の兵隊の姿・気配を探し始めました。が、そこに先ほど来た兵隊を見つけることが出来ませんでした。
『どうした。どこにいるんだ』と何度も私なりにこのサンシャークのどこかにいるであろう兵隊に向けて、言葉をかけ続けました。
結局、村人に連れてこられた場所では、見つけることができず、サンシャークで車を止めた場所から見ていた高台へ向かって頂くようにアランバム氏に話をし、我々をその場所へ連れて行ってもらいました。村人からは、あの高台にある教会は比較的新しいもので、あそこは違うと説明されました。一瞬、その言葉に戸惑いましたが、我々が場所を決めることではないし、当時の日本の兵隊方が何かの思いを残る場所なのかもしれないですし、私や村人が決めることではないと思うようしました。が、親切に接して下さっている村人に対しては、粗相のないよう配慮すべきであると心得ておりました。結局、その高台には行くことが出来ましたが、何故かそこに姿・気配を感じることが出来ず、私は別の場所を練り歩くことにしました。
13:頭に被弾 亡くなった場所にて合流
サンシャーク高地をくまなく北海道のF氏と歩いていると、ある場所に日本の兵隊方の思念と存在の気配のみを強く感じる場所があり、それをF氏にお話しました。が、何故だか、そこに兵隊方の姿は無く、頭を傾げることとなりました。F氏に『この周囲で兵隊さんの思念・気配を感じるんですが・・・。今はいないのように感じます』と言うに留まり、その場所を過ぎ、歩き続けることにしました。その空気感は、さっきまではそこにいたのに今はいないという感じでした。そして、その時、私はある場所で『あれっ』と思う場所に気が付いていました。『この場所って、日本で見ていた戦時中の風景に似ているな』と瞬間的に思ったのですが、私は立ち止まることはなく、兵隊の姿や気配のみに意識が向けていたように思います。多分、そのせいで、風景に注意がしっかり留まらなかったのだと、今は思います。
この後、再び、高台の場所へ向かって歩いていると、村の人が『奥さんが兵隊さんの待つ場所を見つけましたよ』と連絡が入りました。そこへF氏と向かうと、私が兵隊さんの思念の気配を感じると先ほど話していた場所でした。妻と合流し、彼女の話を聞くと、『ここだ』と指さしてくれました。私は、その場所に立ち、上を見上げると、『あぁ、そうだ。ここだ。日本で見た頭部を撃たれた時の映像と同じ風景だ』と場所確認が出来ました。左側から上がれるし、でも、右側にも高台に上がれる道があって、その時、頭部を撃ち抜かれ倒れた兵隊が右側から上がるかどうかを一瞬考えていた時に銃弾を頭部に受け死んでいった生前の記憶を思い出しました。結果から言うと、今回は、妻が見つけたということになります。きっと、私が村人とコーヒーを飲んでいて、待たせるような形になり、拉致があかないので、妻に連絡を取ったんだなと思いました。目的は、彼らと合流し、日本へ帰還することだからこれで良かったと思いました。
ここで撃ち殺されました
さっそく、F氏はアランバム氏に、今回の旅に持参していた日本各地の故郷の食べ物をここで供物として捧げたい旨を話し、準備をし始めました。すると、アランバム氏他、皆でガスコンロ・水・机を持ってきて、その場所にあった大きな木の前の平らな場所に、机を用意し、お湯を沸かし始めました。味噌汁、緑茶、御菓子、どら焼きなど、様々な食べ物がF氏の手で用意されていきました。私は何も手伝うことが出来なかったが、F氏の誠心誠意・愛情のこもった行為でより一層、日本の郷土料理で御霊に英気を取り戻して頂き、日本へ帰る前に、もうひと踏ん張り、力をつけ、我々と共に帰還して頂ければと思いました。
そこに集まった我々、アランバム氏と若いドライバー、そして、村の人々が彼らの成仏を願い、その場に立ちあって下さいました。これにて、日本で見た場所へ到着し、我々に合流、共に日本へ帰還することとなりました。
F氏がどのくらいの人数ですか?と聞いていましたが、私の感覚では何百というよりは十数人というイメージでした。妻はたくさん見えたと言っていましたが、具体的な数字を聞くことはありませんでした。私は、霊視は出来ず、頭の中にイメージが出てきます。それで判断しています。たまに見える時もありますが、不得手ですので、霊能者ではない一般人の枠からは抜け出すことはありません。
この後、サンシャークで宿泊すると聞いたのですが、どこで宿泊するのかまでは聞いていませんでした。ただ、このような山の中の村でしたので、あまり期待はしてはいけないと思っていました。
夕方、サンシャーク村はバレーボール大会で賑わっていました。村の外で生活をしている村人が年末の為、村に帰ってきているようで、普段はこのようなバレーボール大会もしていないようでした。そして、ガイドのアランバム氏は、スポーツ観戦を愉しんでくれと言って、どこかに消えていきました。何でも、今晩宿泊する宿を確認するのだとか。しばらくすると、宿に移動しようということで、徒歩で行くことになりました。向かった先は、先ほど歩きまわっていたサンシャークの高台の方向でした。
14:サンシャーク高地での宿泊
徒歩ですぐに辿りついた場所は、なんと教会の施設でした。しかも、3人部屋。そんなことは最終的にどうでも良いのですが、私はこの宿泊所の位置が気になりました。トイレだという場所を紹介される。その先はサンシャークの山際になっていて、確か、左下の方で日本の兵隊が被弾し亡くなった場所でした。しかも、多くの日本の兵隊方の思念を一帯に感じた場所。距離にして、100m弱くらいかな?思わず、息を呑みました。
『こんなことになるとは・・・。今回、呼ばれた日本の兵隊方が亡くなった場所の近くで、今夜は睡眠なのか』とその奇遇的な出来事に驚きました。しかしながら、70年以上が経過し、我々がサンシャークへ来たことで、ここで亡くなった兵隊は、やっと左ルートの先にある高地へ登ることに成功したのかもしれません。そして、この夜、彼らが目指していたであろう高台で到達できたのかもしれません。戦争・戦史・思想、どれにも興味はありませんが、彼らの祖国への望郷の念は色あせることなく、ここでずっと帰国への願いを持ちながら、存在していたことは戦争を体験していない私でも想像できます。我々と合流し、日本へ胸を張って、帰国してもらえれたらと思います。夜中、宿泊所の外にあるトイレに行くのは、少し怖かったですが、なんとか、朝まで安心して寝ることができました。彼らの喜びを感じながら、この旅を続けることが、今の私の一番の原動力だなと思うばかりです。
時間が遡りますが、夕食時、日本の兵隊方と合流した場所に、より近い建物で、囲炉裏を囲んで、夕食を頂きながら、暖を取っていました。インドといえど、標高が高く、夜になると寒かったので、囲炉裏の火が助かりました。 そして、今日、会った村人たちも来て下さり、話が弾みました。私は一日、緊張感と疲労で、目が自動的に閉まりそうなくらい睡魔に襲われていました。しかし、そんな中、F氏はお餅を用意して、その囲炉裏で焼餅を焙り、海苔を巻き始めました。なんという美味しそうな香り。しかも、醤油で味付け。さらに干物の魚まで焼き始め、私の口の中は、生唾でいっぱいになり、日本の兵隊そっちのけで私が食べたくて仕方がありませんでした。戦時中は、日本の兵隊全員、腹を空かせて、移動・戦闘を繰り返していたと考えると、肉体は無くても水や食事を、明日のカムジョンにも届けてあげたいと士気がまた上がるのでした。
冗談ですが、『F氏、まさか寝床に兵隊さんの幽霊をたくさん招待したいわけではないですよね?』と聞きたくなりました。が、そんな冗談が言えないくらい、ご本人は一生懸命、糧秣の無い戦争を強いられていた日本の兵隊方のために手を尽くし、真心のこもった磯辺焼きをこしらえ、焼き魚も皿にご用意されていました。英霊の依頼活動を受け始めて一番のご馳走だったに違いありません。
この後、ダイニングテーブルの上に磯辺焼きと魚を置き、影膳のような形で、用意致しました。F氏の日本の兵隊方に対する思いがヒシヒシと伝わってきました。
この後は、私の妻も加わり、同じ部屋にて、3人で一緒に睡眠を取りました。兵隊方と合流した場所から100m弱先の部屋で。
15:サンシャーク高地の朝
2017年12月27日の朝、現地時間の6時前に起床しました。日本との時差は3時間半。日本時間でいうと、朝の9時半前。目が覚めているのも当然でした。部屋の外に出て、辺りを見渡す。村の人たちは、朝から水をどこかで汲み、自分たちの住まいへ黙々と運んでいました。天気の良い日で陽射しが目に差し込んできました。今日も、快晴のようだ。サンシャークよりも、さらに奥にあるカムジョンへ向かい、その後は、再び、サンシャークへ戻り、さらに、元来た三又路をウクルル方面へ向かう。そこで宿を取ることになっていました。
昨夜は、特に問題はなく、我々は熟睡していましたが、一度、トイレに起き、F氏と共に行ったぐらいでした。
私は少し早めに起床し、先に部屋の外に出ていました。すると、程なく、F氏が、出てこられ、共に、サンシャーク高地の頂きに近い場所に向かって歩き始めました。
目的地は、昨日、私がサンシャークで車から出て、指を差した方向でした。昨日のおさらいをしながら、ゆっくり歩を進める我々二人。比較的新しい教会と説明された場所へ到着しました。教会の前は開けていて、広場がありました。カムジョン方面から良い朝日で我々を照らしてくれました。私は、突如、まとまった日本の兵隊方の気配を感じ始めていました。そして、ここに多くの兵隊方が集まり、目には見えないはずの地上に無い眩い光が天から降り注いでいるように感じました。いつもながら、私があれこれ考える必要はなかったと悟りました。朝、ここに来たのは、彼らのまとまった御霊が見えない光を発し始めた状態を知ることだったのかもしれない。そして、私が、戦時中、彼が亡くなった瞬間を疑似体験することによって、サンシャークでの戦時中の出来事を、日本人である私の魂に記憶として刻むことで彼もしくは彼らは自分の人生の終焉を受け入れたのかもしれません。そして、日本へ帰還し、そして、居るべき場所へきっと、さらに進んで行くのだと思います。
ここに来た我々全員が彼らの御霊の安寧を願うばかりでした。そして、いつものことだが、我々と共に、彼らの望み通りに日本へ帰国することを念じました。きっと、そのお手伝いをして下さっている、配慮して下さっているのは半鳥神のような土地神様や、目に目えないあの世の存在なのかもしれません。そういったことを無視して、我々だけの力で、そして、日本の兵隊方と我々だけで帰国が叶ったと思うと奢りなのだろうと思います。
この後は、改めて昨日の慰霊場所へ再び伺いました。そこから、我々が寝ていた建物・部屋に向かって、山際の道に沿って左側へ上がって行きました。すると、睡眠を取った部屋の背後にちょうど出てきました。やはり、銃で倒れた兵隊が、向かっていた方向で、命を落とさず、真っ直ぐサンシャーク高地へ上がって来ることができれば、我々の部屋の背後に来ていたんだと認識致しました。そんな場所で寝ることが出来た私は、感慨深い気持ちにさせられました。
朝のサンシャーク散策を終え、囲炉裏・台所のある建物へ移動し朝食を取りました。卵を落としたカレー味のラーメン。これが美味しく、朝から3杯食べてしまいました。あまり食べないようにして、トイレの回数を減らさなくてはと決めていたはずだったのですが、ついつい、食べ慣れたラーメンだった為、食べ過ぎてしまいました。おそらく、昨日から、たいした量の食事をしていなかった為です。今日は、仕方ないかと思いながら、箸を止めることが出来なかった。 朝食を終え、今日、慰霊で使うお米を準備し始めました。何故か宿泊所の台所に日本と同じ炊飯器があり、使わせて頂くことに。お米はF氏が日本からご用意して下さった高知米。この教会の現在の住人、神父夫婦である奥様が、お米を炊いて下さりました。うまく柔らかいお米が出来上がり、笑みがこぼれました。F氏とダイニングテーブルの上におにぎりを作る準備を整え、和歌山産の梅干し、秋田産の干沢庵、静岡産鰹節、そして、佐賀県糸島産塩とテーブルに並べ、さっそくおにぎりを握る用意が出来ました。すると、ここで、F氏が日の丸弁当にしましょうか?と急に提案をしました。その瞬間、私は、『誰が言っているんですか?』と頓珍漢な質問をF氏に聞いていました。F氏も奇妙な表情を浮かべていて、何かに驚いた様子でした。ひょっとしたら、サンシャークからカムジョン方面もしくは周辺で命を落とした食事を担当していた兵隊が日章旗を弁当の中で表現したかったのかと身勝手な想像をしていました。とにかく、F氏と共に、狐に包まれたような瞬間を体験致しました。
名案はすぐに採用され、まるで、そのいう手筈になっていたかのようなプラスティック製の小さな弁当箱が4つテーブルに並び、日の丸弁当が目の前に出来上がりました。『おにぎりを握るといっていたのに、なんでまたこのような箱をF氏は用意していたんだろう』と思いました。箱いっぱいに炊き立てのご飯を敷き、その中央に梅干し。そして、沢庵・醤油入り鰹節を添えました。なんだか神前に供える神饌のようにも見えてきました。
『このサンシャークでこれほど贅沢な日本のお弁当を用意できるとは。これほどの奇跡はないな』と改めて思いました。ただただ出来過ぎた流れに、何かに段取りされていたかのように、目に見えない意思・段取りの存在を朝から感じざるを得なかった。おそらく、F氏も同じ感覚を持ったのではないかと思いました。
残ったご飯はおにぎりにしました。ここでは、妻が持ってきていたおにぎりを作る為の容器が役に立ちました。誰が何を言わなくても、全てが抜け目なく、この時の為に用意されていました。出来上がった日の丸弁当を筆頭に、おにぎりも今日の訪問地であるカムジョンへ届けることになりました。確か、インパール作戦に参加した烈兵団・祭兵団の退却路であるこのコヒマから、インパール手前からトンヘに抜ける道には、糧秣が用意されておらず、退却する兵隊方の期待をことごとく裏切っていた史実を思い起こしていました。となると、このF氏がご用意して下さった日本食はそれに応えられるものになりうるだろうと思いました。そして、本当に我々日本人の真心を込めた最高の日本食をこのルートへ届けることが出来ると我々は確信していました。
準備の出来た我々は、各々のスーツケースを車に載せ、早めの出発をすることにしました。サンシャークでお世話になった人々と記念撮影。中には、インパールのアランバム氏の博物館にあった兵隊さんの靴のソールを見つけた若い村人もいました。御礼をよく言って、笑顔で村人たちとお別れをしました。
さっそく、カムジョンへ向かう為、サンシャーク高地から下り、カムジョンへ向かう道に出てきました。村を背に我々は、ガイドのアランバム氏の奥様の出身地でもあるカムジョンへ奇遇の連続を辿りながら向かいました。(現地時間9時出発)
16:カムジョン 糧秣を届ける為に
何故、カムジョンに糧秣・日の丸弁当を届けるのかという目的を少しお話したいと思います。戦時中、食べもの他、軍事物資が後方より前線に届かず、飢えと病気で亡くなった兵隊が多かったと戦中体験記の本の中に書かれていました。特に戦況が悪くなり、後退を余儀なくされた軍隊は、カムジョンやフミネといった中継場所に糧秣・食料が無く、歩く力も無くなり、死んでいった兵隊が多かったらしいです。ですので、我々は、どうしても日本の食べ物をこの戦争で亡くなった兵隊方に届ようと思ったのでした。
そんな思いを秘めた我々のカムジョンまでの道のりは、道路が舗装されており、非常に快適な走行でした。ただ、カーブも多く、徐々に頭が痛くなり、頭痛薬を飲みました。これだけでも、ずいぶん、車酔いには効果があり、助手席に座るF氏と会話を楽しむことが出来ました。
おおよそ2時間ほどのドライブでカムジョン村の入口へ到着。何故だかインド軍兵士の検問を設け、アランバム氏が入村許可を頂いているようでした。大きな機関銃を持っているので、おっかない気持ちになりましたが、F氏が若いインド軍兵士と楽しく話をし始め、兵士の笑顔が見れたので、ホッと致しました。
カムジョンに到着 下から三行目に刻印されています。
ここからはフミネまでは49kmくらいらしいが、やはり、そこまでは行けないようでした。当初は、カムジョンよりもさらに奥にあるフミネと呼ばれるミャンマーとの国境に近い村に行きたかったのですが、道が細く、道路の状態が悪いと聞いていましたので、行けないことは覚悟していました。カムジョンの村は思っていたよりも大きな通りがあり、賑わっており、小さいながらも活気と陽気さに満ちていました。アランバム氏の親類宅前で少し車を止め、休憩。昼食の段取りをして下さっていました。料理は素朴で新鮮、とても栄養価の高い料理ばかりで、非常に美味しく頂きました。ただ、唐辛子だけは非常に辛く、勘弁願いたかった。
アランバム氏の奥さんの自宅からの景色
17:落ち着いた日本の兵隊の声
食事が済むと、再び、車に乗り込み、カムジョンの村を抜け、フミネ方面へ向かい走り出しました。F氏と話をしていると、急に声が聞こえてきました。日本の兵隊が急に、『ここまで来てくださり、ありがとうございます』と声を掛けてきました。突然だったので、F氏に話しかけていた私は、急に閉口してしまい、会話を止めていました。恐らく、走ってきた道の崖の下側から気配を感じました。
『どうする?車を止めて、彼らを捜索しないと』と悩んでいると、車は三又路へ出て、急停車し、そこで慰霊をするようにアランバム氏が提案してくれました。私は、なんというタイミングなんだろうかと思わず笑みがこぼれていました。
F氏はテーブルを用意し、お湯を沸かし始めました。味噌汁を添えながら、サンシャークで準備した日の丸弁当、緑茶、おにぎり、日本の御菓子などが並べられました。線香に火をつけ、蝋燭を立て、F氏は鯨兵団が口ずさんでいたと言われる“南国土佐を後にして”という音楽をこの場所で流し始めました。当時、塩も無かったということで、私は塩を退却路である道に供えました。すると、先ほど声をかけてきてくれた日本の兵隊の思いが私の心に伝わってきました。悔しい無念の気持ちが彼らの中にはありました。自国に対する不信感に包まれた複雑な思い。これは、物資が後方支援として届かず、戦う以前の問題で、命を落としたことが原因だったのかもしれません。言葉で十分、彼らの気持ちを表すことが出来なかったが、私は酷く心を打たれました。どう説明したらいいものか。様々な各々の感情、そして無情さに、当時の兵隊方はひどい状況にさらされていたのだということがわかりました。こんな時は彼らの感情をそのまま受け止めることしか私には出来なかった。ただただ心の痛みを分かち合うことだけが私に出来ることであったと思います。
F氏がアランバム氏に聞いた処によると、ここの渓谷に狩りに行った際に日本の兵隊の叫び声を耳にすることがよくあるということでした。それも、複数の村人が聞いているようでした。ちょうど、私が日本の兵隊の声を聞いた場所辺りにも多くの日本の兵隊方が村の人によって手厚く埋められということでした。戦時中の村の人に対して、深く感謝致しました。
この後、日の丸弁当などを用意した日本食を谷にある小川で流すことにしました。そっと手を合わせ、彼らの気持ちに寄り添得られるように努めました。
カムジョンの先で、我々は戦時中、食べ物不足に陥った日本の兵隊方に無事、糧秣を届けることが出来、彼らの御霊に届けることが出来たかなと思います。
カムジョンから2時間後、サンシャークに戻ってきました。既に夕方であり、すぐに暗くなりそうな雰囲気でした。私は案の定、お腹を壊し、昨晩宿泊した教会へ行き、用を足しました。再び、教会の神父ご夫妻に挨拶をしました。奥様に『もう一晩泊まっていくかい?』と嬉しい提案をして下さいましたが、ウクルルへ向かわなければいけないことを伝え、神父ご夫妻と握手をして、その場を離れました。たった一晩だけの滞在でしたが、神父夫妻の人情に触れ、寂しい気持ちになり、別れを惜しみました。
18:思念が籠る日本の軍刀
アランバム氏が、サンシャークを発つ前に個人建立の慰霊地を訪問してからウクルルへ行こうと提案して下さいました。そこに行くと、87歳になる古老の男性が顔を出し、我々に近づいてきました。日本人と知るやいなや、我々を抱きしめました。なんでも、日本の諜報機関にいた藤原岩一参謀から可愛がられていたらしい。当時、コヒマへの道案内や情報収集で重宝されていたのであろうか。彼は、その参謀から頂いた何かを取りに家の中へ戻って行きました。その間に慰霊碑に手を合わしていると、再び、先ほどの古老が家の中から我々に向かってあるものを持って、姿を現しました。
『なんなんだっ、このプレッシャーわ』古老は軍刀を抜き、我々に向かって歩いてきました。まるで魂があるかのようなその軍刀が、私に目に見えない意思とプレッシャーを感じさせ、たじろがせました。
『刀が生きてる?わからんが、とてつもない勢いというか、本来の持ち主の魂がこもっているのか?』と思いました。こういうものが世の中に存在しているんだと、その存在感に腰を抜かしました。
この古老は家に来るように言われましたが、時間もなく、残念ながら、この地を後にすることにしました。今から思うと、あの時、なんとしてでも、古老の家に訪れるべきだったと思います。私は、古老が持ってきたあの刀になぜあれだけのプレッシャーが憑いていたのか、それを知りたいと思いました。とても残念であり、ああいう体験は後にも先にも一度もありません。
古老と別れ、1時間半後、無事ウクルルに闇夜の中、到着し、ホテルにチェックインしました。夕食は疲れで食べる気力も無かったので、そのまま部屋で休むことにしました。ここでは、暖かいシャワーを浴びることが出来、身体を綺麗にすることが出来ました。が、妻が使う頃にはお湯が出ず、睨まれることになりました。そして、別の部屋のF氏もお湯が出ず、冷たい水でシャワーを浴びたそうです。
19:ウクルルからコヒマ 危険な道のり
2017年12月28日。ウクルルの朝霧の濃い中、F氏と共に毎日の日課である散歩から一日がスタートしました。目に飛び込むウクルルの人々の姿が、とても健康的に見えました。時折、我々に対する視線を感じながらも、それが、また心地よく感じました。
散歩から戻ると、宿の御主人が笑顔で挨拶をしてくれ、美味しいティーを用意してくれました。胃の中を優しく温めてくれる。我々はそのティーを持ち、テーブルにつき、取り留めもない話を笑顔でしていました。そのまま、朝食を用意して頂き、目玉焼きがお皿にのっていました。それを見て、何故か子供のように嬉しくなりました。F氏は醤油を部屋から持ってきて下さり、懐かしい日本の味を堪能し、生き返ったような気分になりました。
インパール市内からの2日間、舗装された道もありましたが、ここウクルルからは泥道も予想され、かなりタフな移動となるだろうと心構えを準備していました。見知らぬ土地での車の移動で妻の精神状態もそろそろ限界に近づいているのを感じ始めていました。次の移動先のコヒマまでは、相当な悪路らしく、ガイドのアランバム氏を走り慣れた道ではないようでした。。
アランバム氏とドライバーがホテルに迎えに来ました。さすがにアランバム氏の表情からも疲労は隠せないようでした。狭い道が多く、山際の走行ですので、運転にはかなり慎重に気を張り巡らせているだろうことは、容易にわかりました。こういう時は、かける言葉は見つからないが、元気よく、相手が疲れないように普段通りを装うしかない。でないと、疲労が伝染しそうでした。今日は、朝から、首狩り族の村を訪問し、その後、この村に置かれている日本軍がインパールに持ちこんだ47ミリ砲をインド陸軍基地に見に行くことになっていました。インド軍施設の門の前に置かれているとのことでした。
ウクルルの街。赤く〇をしている場所は、我々が宿泊した宿
荷物を車に載せ、出発。程なく、首狩り族の村を訪問。建物の中を案内され、陳列棚に並ぶ頭蓋骨を拝見させて頂きました。戦時中は、まだ、民族間で争い、首を狩っていたことを思うと、日本の兵隊で被害に遭われた方もいたのではないかと想像しました。この後は、インド軍施設に到着し、許可を頂く為にアランバム氏が車を降り、ゲートを守る兵士と話をしていました。が、少々、手こずっている様子でした。しばらくすると、軍施設の敷地内へ車が入り、インド兵士の姿を見ながら、我々の車も軍敷地内の奥へと進んでいきました。どこかへ到着すると、車から降ろされ、立派な建物内へ案内されることになりました。なんとなく、九州の久留米駐屯地に訪れた時の空気感を思い出しました。軍施設の客間へ案内されると、凛々しい軍服で身を整えたインド兵士からティーと御菓子を用意して頂きました。上品な飲み物・食べ物と身だしなみを整えた姿勢が正しいインド兵士の美しい姿に見惚れていました。彼が退出すると、この軍施設のトップの方とみられる男性が姿を現しました。服装は、兵士とは違い、ホワイトカラー感を存分に出していました。我々にも挨拶し、ガイドのアランバム氏と話をし始めました。アランバム氏の話術は、経験豊富で、トップと思われる軍関係者の方と巧みに笑顔を見せながら、彼に見合った物腰で会話を続けました。我々3名は借りてきた猫状態。何の為にここにいるのかよくわからなかったが、この機会を活かして、インド軍人の気質を知ることになりました。
アランバム氏とそのトップの方との談笑が終わり、軍施設のゲートの前にある日本軍の47ミリ砲と拝見させて頂くことになりました。良く見ると、刻印が彫られていて、F氏が、紙を当て、鉛筆でこすり始めた。どうも大阪で製造されたもののようでした。F氏によると、日本軍の砲をインド軍施設に置くのは、旧宗主国の英国に対するけん制の一つの可能性があるということでした。私は、『なるほど』と納得致しました。
我々が砲の周囲にいた時、若いインド兵士が好意的に話しかけてきてくれました。敬意を払いながら、何かを説明して下さっているのはわかりましたが、彼の癖が強いインド訛りの英語の聞き取りがうまくできず、大変失礼なことをしてしまいました。
そんな私の表情を見て、インド軍兵士はメモを書き、手渡してくれました。 以下、その原文を残す。
“No other countries could achieve what the Japanese soldiers did so little.” -General Slim “My regards and respect to the spirit and will” -To a soldier from young one
彼に御礼を言い、コヒマへ向けて軍施設を後にしました。立派で誠実なインド軍兵士でインドの方々に対する見方が変わりました。
いよいよ、道は泥道になり、コヒマまでの長い距離を走行しなければならない。長時間の移動を考えると、頭痛がしてきたが、乗り越えるしかない。F氏は悪路に強く、車酔いは全くないということでした。英霊の依頼活動向きの強靭さを身に付けていました。 こ
れからコヒマに向かう道は、アランバム氏も使用したことの無い道だという。他にあるルートと言えば、もう一度、来た道を戻り、インパール側からコヒマへ向かう主要道路を使うルートでしたが、それは、我々も含め、アランバム氏もその選択はなかった。地図を見れば、現在地はコヒマまでの直線距離が短く、近道なのかもしれませんが、実際に走り始めると、相当な悪路で、山際から道路に流れ出る水の影響で、道路が沼地のようになっており、タイヤが沈んだり滑ったりで、車体が左右に振り回されることが何度かありました。その都度、我々3人は緊張感で気を張り続けることになりました。 『本当に日本に帰れるのだろうか・・・。タイヤを取られて、崖下に真っ逆さまということも可能性として十分過ぎるほどあるな・・・』と道路の状況を見ながら、命運をドライバーに任せました。
途中、道を間違えるアランバム氏の様子を見て、不安感が一層高まりました。彼がスマートフォンのグーグルマップを取りだし、眺めている姿を見て、絶句しました。彼はスマートフォンのGoogleMapを頼りに運転をしていた様子でした。そして、私も実はGooleMapを見ながら、現状の位置確認をしていたので、アランバム氏に見せることとなりました。すると、奇妙な表情で私の携帯に興味を持っているようでした。機内モード、誰のWifiにも繋げていない状態で、この電波の無さそうな山間部でずっと現状位置を正確に示していました。
さらに、アランバム氏が、私の妻の様子を見て、F氏を、 先頭を走る彼の車に乗せ、2台目の我々の乗る車の後部座席でゆっくりしてもらってはいかがかと提案をして頂きました。私は、それは良いとF氏に話をすると、F氏も快諾してくださり、2台に分乗して、このままコヒマへ進むこととなりました。
で、私は、この後、助手席へ移動。妻に横になるように勧めたが、それもまた身体的にきついようで、妻は精神疲労のせいか、情緒不安定が酷くなっていきました。なんとかしてあげたいが、私も車酔いがひどく、ほとんど寝ることができませんでした。
気が付くと、外は真っ暗で、どうも、インパール・コヒマ間のメイン道路を走行しているようでした。インパールらしき街へ入ると、多くの家屋の明かりが目に入ってきました。 『なんとか無事コヒマに到着したか』 ガイドのアランバム氏とF氏の乗った車はお店の前で止まり、何やら酒らしきものを購入している様子でした。今晩、コヒマで飲むのかなとそんなことを考える余裕が少し出てきました。長時間に渡る悪路の走行を切り抜け、無事コヒマに到着出来たのだから、一杯やりたい気持ちはとても理解できました。
この後、コヒマの街並みに目をやりながら、ゆっくりとホテルに到着しました。アランバム氏の信頼できる運転技術とタフさには非常に敬服致しました。
ホテルの建物に入ると、雰囲気のあるロッジ風の内装が出迎えてくれました。部屋に入り、F氏と話すが、妻の状態も気になり、祝杯であるビールは程々に妻のケアに専念致しました。途中、食堂へ行き、F氏らに夕食をご一緒するように誘われるが、妻の事が心配で、部屋に戻ることにしました。そして、妻を不慣れなマッサージで介抱しました。足の付け根を踏みながら、背中のツボを時折、押すという過酷な作業を続けました。長旅で疲れた私の身体に、さらにムチを打つような、そんな感じでした。とにかく、ここもとても大切な正念場なんだと言い聞かせながら。 今回の旅は、女性にはきつかったなと単純に色々と反省すべき点がありました。
コヒマの宿 慰霊で立ち寄る多くの日本人が利用されている
20:コヒマでの最終日
2017年12月29日、現地行動の取れる最終日。コヒマの朝を迎えました。昨晩、とことん疲れ切った私は、熟睡出来、目覚めが良かった。昨晩は、F氏がお酒を飲んでいたのを見ていたので、さすがに今日は朝の散歩を無いかなと思っていました。半ば諦め、一人で外を歩いてみようとガサガサしていると、F氏も起きてきました。これで、ここインド・インパールに来てから、散歩を休むことなく、二人揃ってコヒマの街を歩き始めることになりました。
ここでは第31師団 烈兵団が連合軍と壮絶な戦いを繰り広げた場所の一つである。今は、多くの人々が平和な生活を営み、たくさんの建物が所狭しと街の中に建っています。ほとんどの建物が断崖絶壁に建っている。心無しか傾いているかのようにも見えるほどでした。
F氏と会話をしながら歩いていると、コヒマの住人が声をかけてきました。道案内をしようとする人、部屋でお茶を飲んでいきなさいと誘って下さる人。皆さん、人柄がよく、心が綺麗に見えました。F氏に言われて気が付いたのですが、インパールに入ってから、物乞いといった方を見たことがなかった。これは何を意味するのだろうか。最終的な理由の結論を持ち合わせていない私は、このような地域に来たことがないので驚くしかなかった。恐らく、財布を落としても、日本並みに返って来そうな雰囲気すら感じました。
ホテルに戻り、朝食を頂く。目玉焼き、マンゴージュース他、色々とブッフェ形式のテーブルに並んでいました。遅れて妻も朝食に現れ、3人で朝を頂きました。今日の予定は、第31師団烈兵団を率いた佐藤幸徳中将のコヒマでの入居先とガリソンヒル、戦争博物館 他といった内容でした。
ホテルを出てまもなく、街から少し離れた佐藤中将の住処であったであろう家屋にやってきました。その建物には水切りがあり、外壁である木材にネジでビス締めていました。こういった工法はこちらの地域の家屋には無いので、佐藤中将が住んでいたであろう証明になるとガイドが説明をしてくれました。何故、その位置の家屋を選んだかというと、その背後の山々へ、いざ敵軍が攻めて来た時に建物の背後から逃げるルートが確保できるという理由からでした。中も覗いてみたかったが、さすがに現在は誰かが住んでおられるので、中を見ることは出来ないということでした。
1944年4月4日に15:00にKIGWMAに日本軍が到着したと言う意味だろうか
次に戦争博物館に向かうが、休館日ということで中へ入ることは出来なかった。ここでは兵隊の気配を微かに感じ、きっと中の展示物につかず離れずずっと一緒にいる兵隊がいるのだろうと予測しました。が、中へ入れないので、次回の機会があれば、是非、訪れてみたいなと思いました。
21:コヒマ三又路 平和記念公園
いよいよ、ここコヒマで一番戦闘の激しかった場所へやってきました。今は、整備され、とても風光明媚な場所になっていました。英軍・インド軍の墓標が理路整然と並んでおり、とても美しかった。この丘を登って行くと、戦史の中で有名なテニスコートがあります。私はここに来たが、何も感じることが出来なかった。意外に拍子抜けしたが、今回は、妻がここで日本の兵隊の気配を感じるということを言い出し、F氏とアランバム氏が慰霊の準備をし始めました。味噌汁や線香・蝋燭を用意し、その横で私も何か手伝おうとしていると、急に誰かがやってきて、私の身体を使いたがっているのがわかりました。頭痛が始まり、立てなくなってしまい、かろうじて縁石に腰を下ろし座りました。仕方が無く、身を委ねると、妻がその兵隊と話をし始めました。話が終わると、意識がはっきりと戻り、頭痛が治まりました。妻が録画していたので、その会話を聞いてみると、どうも身体が無いと探し回っておられるようでした。74年過ぎても、まだこのような状態なのだと成仏しないでいる人の魂の状態を改めて知ることになりました。そして、死んだ場所を指さしていたようでした。途中、妻に俺の気持ちがわかるもんかといった暴言も聞くことが出来ました。しかしながら、そんな言葉を吐きながらも、本当は助けて欲しい、理解してほしいという気持ちを感じ取れる内容でした。同じ人として、彼の気持ちが痛いほどわかり、何も言わず、無言で一緒に日本へ帰ることを促しました。
平和記念公園の後、昼食。そして、コヒマ全景を見渡すことのできる大きな教会へ立ち寄ることになりました。教会の前の広場はとても広く、そして、目の前にコヒマ全景が広がっていました。1945年、ここにはどのような景色があったのだろうか。過去を見渡す特別な目は私には無い。今のコヒマの街並みを記憶に留め、最後は教会の建物の中を見学することに致しました。
立派な教会でした。何百人この建物に入ることが出来るのであろうか。教会内部の正面を見上げると、鳥を象ったステンドグラスがありました。『ここにも鳥が・・・。日本で見た鳥の神様がここでも出迎えてくれているのか。しかし、なんでここでは鳥が神格化されているのだろうか。教会なのに』と思いました。北海道のF氏は教会内部正面の壇上へ上がり、光と日本の墨で書かれた色紙を奉納しました。そして、日本の兵隊方の成仏を祈願されていました。今回の英霊の依頼活動を締めくくる最後の場所として申し分無かった。F氏の背後を見つめながら、残りの我々も手を合わせ、黙とうを捧げました。妻とF氏は、寄付の箱にインドルピーを入れ、そこを離れました。
この後は、コヒマにある市場へ散策。これが唯一の息抜きであり、自由な時間でした。時間にして、30分くらいか。我々の旅には、どの時間にも日本の兵隊方のことが頭から離れていなかったことに、この自由時間が教えてくれました。
この後は、戦争の激しかった平和記念公園の麓にある三又路に残されていた連合軍の戦車を見に立ち寄りました。日が暮れ、辺りは暗くなってきていました。周囲を一回りし、当時の様子の余韻に浸りながら、帰途へ。最後は、F氏が三又路にある大きな看板を撮影するために車を止めてもらっていました。何でも58という数字が気になるということで、そこの看板を撮影したいのだとか。烈兵団の中に属していた高田陸軍第58連隊の数字と同じでした。看板に表示されたこの数字は、何かの価格を表示しているものらしい。ホテルに戻り、こうして、この旅の全てを終えました。
この後、ホテルのロビーにて、アランバム氏と北海道のF氏との情報交換が熱く繰り広げられました。靖國神社楷行文庫K室長から頂いた資料のコピーをアランバム氏に手渡し、日本語を英語に翻訳していく。この戦死者の資料は非常に貴重であり、現地でインパール作戦戦史を研究するアランバム氏にとって、とても重要な情報となりました。二時間ほど、ずっと話し続け、まるで今後、インパール作戦戦史を一段と世に伝えるための有意義な会議が行われているように見えました。『この資料の続き、新しい年度の情報は、資料はないのか』とF氏に熱心に聞いていたようでした。
そんな熱いやりとりを見てか、ホテルスタッフも横からそっとティーをご用意して下さいました。妻が、皆にふるまう。私は、途中からついていけず、ホテルで飼われている犬とじゃれ合っていました。このワンちゃんとも明日、お別れをしなくてはいけない。それにしても、かわいい・・・。持って帰れないかと一人悶々とするのでした。
アランバム氏とF氏の熱い会話が終わり、ガイドを見送る。彼は別の場所で宿泊しているそうで、どんなところで宿を取っているのか気になりました。現地の人が宿泊するホテルってどんな感じなんだろうかと思いながら、F氏の部屋で今回のメンバー3名、F氏、妻、そして私はビールを飲みながら、旅の苦労を労いました。
22:ディマプール空港 日本の兵隊と共に帰国の途へ
コヒマの最後の朝を迎えました。F氏と早朝散歩でコヒマ市内を歩く。気が付けば、コヒマ市内を一望できる場所へ辿り着きました。F氏は煙草を日本の兵隊への供養の為に吸い始めた。書き忘れていたが、サンシャークに滞在していた前後、私は悩んでいた。今回は、広範囲に渡るだけでなく、コヒマからウクルル・カムジョン、フミネ・ミャンマー国内へ延びるトンヘという村へと続く全ての場所を辿る道を通すことが出来なかった。これでうまくいったのだろうか?しかし、これ以上、考える必要が無いこともなんとなく感じていました。
最後の朝の散策を終え、ホテルへ戻る。朝食をしっかり取りました。このホテルのマンゴージュースが私のお気に入りになりました。普段は飲まない飲み物です。そして、F氏に頂いた濃いコーヒーも飲み干した。ぐっと体に力が入る。
ガイドのアランバム氏とドライバーがホテルにやってきました。荷物を車に乗せ、ディマプール空港へ向かう。ここから3時間弱ぐらいらしい。ホテルのワンちゃんともこれでおさらばだ。なんだか寂しい限りである。
8:00頃出発し、再び、悪路を走行。ここも舗装されていないのかと眺める。とてもじゃないが、メイン道路に思えない。道幅が少し広いだけでした。
F氏から聞いた話ですが、アランバム氏によると、この地域は中国人とバングラディッシュ人の入域を禁止されているとのことでした。バングラディッシュ人は主に盗難目的でこの地域に不法入国を繰り返していて、社会問題になっているらしい。アランバム氏も車の部品を盗難被害に遭ったようでした。
ディマプール空港にはコヒマのホテルから2時間40分で到着しました。思っていた以上に早かった。空港にて、F氏がアランバム氏・ドライバーにチップを渡されていました。妻はドライバーにチップを事前に渡していたらしい。
前夜、私は、アランバム氏に数珠を渡しました。これは関西にある花のお寺25ケ寺を巡礼し、日本の兵隊の為、成仏祈願の為に作成したものでした。宗教上、受け取ってもらえるか心配でしたが、彼は何の躊躇もなく、御守りだと言って、受け取って頂けました。お金の方が良かったかもしれませんが、これはこれで、今後、彼が戦地ガイドとして、あちこち回る時に、この数珠を持って、手を合わせて頂ければ嬉しいなと思いました。この数珠には私の思いを込めています。今回、私共と会うことが叶わなかった兵隊方に、この数珠を通して、メッセージが届くことがあればなという思いがあった。肉体を失った方たちの世界は念の世界だから。
ディマプール空港でアランバム氏ともう一人のドライバーに別れを告げ、空港内へ移動しました。ここでも厳しい検査がありました。案の定、F氏のバッテリーが検査で引っかかる。そして、妻も使い捨てカイロ・ウェットティッシュで再検査を受けていました。
無事、ディマプール空港からカルカッタ空港へ移動すると、カルカッタ空港内で、日本の兵隊方が話しかけてきました。日本への帰国の喜びと感謝を伝えたかったようだ。ここで、私としては、彼らがきちんと私と同行し、帰国に向かっていることを確認できました。
カルカッタ空港に到着して、また因縁のプリペイドタクシー。今回もバウチャーは発行されず。前回より安かったとF氏からお聞きし、いろいろ理由を考えました。無事、昼過ぎにはホテルに到着し、深夜の飛行機まで時間があるので、各々、部屋で帰り支度と休憩を取りました。が、部屋に電話が何度もかかってきたり、部屋の掃除のノックなど、やたらと落ち着かなかった。インドってこういう感じなのかと思いながらも、ちょっと疲れました。
部屋で、アランバム氏の戦争博物館で持ち帰った靴底の砂をどうするか気になりました。福井県敦賀のことが頭の中で離れなかった。すると、部屋の椅子に立てかけたリュックが、不自然に横に倒れ、リュックの中から靴底の砂を入れていたジップロックが目の前でスルスルと滑り出し、目の前に止まりました。その瞬間、鳥肌が立ちました。目の前にピタッと・・・。まるで、私の目の前に置くがごとく、スルスルと差し出されたとしか思えない動きでした。何でもなくみえる出来事のはずなのに。息を呑み、胸の鼓動が耳に聞こえてきそうでした。
インド・カルカッタからタイ王国バンコクまでの飛行機は12月31日0:20の便でしたので、21:00過ぎにホテルを出発し、予約しておいてタクシーが来るが、超小型。荷物がトランクに入らず、助手席に乗せることになりました。我々3名は後部座席に座ることにしました。ホテルスタッフは、我々の人数と荷物を見て、タクシーの大きさを考慮して配車しないのかと頭を傾げました。
カルカッタ空港へ到着。相変わらず、空港内へ入るのに、荷物の検査が厳しい。特に軍人が銃を持って警備しているのが気になりました。結局、空港内へ入るのに50分費やしました。搭乗時間までまだ少し時間がありましたので、食事を取りたいと思い始めましたが、なかなか簡単に済ませられるようなレストランが見つけられなかった。結局、最終的にダラダラと空港内を歩いてしまい、食べそびれてしまいました。
23:新たなる依頼 タイ王国北部で動き出す日本の兵隊の気配
空腹の中、飛行機に搭乗し、身体を休めていると、タイ王国北部から、呼び寄せるいくつかの思念を感じ始めていました。驚きながらも、『次の訪問地はタイ王国の北部になるか。少し広範囲に広がる気がするな』と思いました。しかしながら、タイ王国北部は既にいくつか回っていましたので、今更ながら、どこにいくのだろうかという疑問を抱いていました。
すると、今まで記憶の彼方に消えていた一人の日本人男性の名前が何度も頭の中で浮かんできた。『なんで、彼の名前が・・・』不思議に思いながら、きっと、我々を次の依頼地に導く大事なキーワードになるんだろうなと感じました。記憶しておくと同時にまた気が引き締まる自分がいました。
妻に『次、どこに行くと思う?』に聞くと、『タイだと思います』と答えました。『やっぱり、そうだよね』妻も日本の兵隊方の動きと気配を感じ取っていたようでした。
しかし、タイ王国北部全体に動き出す、少しざわついた彼らの存在と気配を感じるというのは、私の感覚を惑わし始めていました。『どういう感じで、タイ王国北部に行くんだろうか?合流の仕方は?いつ?』などとあれこれと考え始めていました。そして、『なんでこんな急に帰還依頼が来始めたんだろう。インパールに行ったことで、死後の世界にいる新たな日本の兵隊方が、日本へ帰ることが可能だということが、現実味を帯びてきたのかな』とも思い始めていました。
結局、インド カルカッタ空港から、タイ王国バンコクへ到着するまでの間、次の日本の兵隊からの帰還依頼のことばかり考えていました。まだ、現在の依頼で日本に帰っていないにもかかわらず。これ以上、考えても仕方がないので、空腹を満たす為に、3人で空港内のレストランに入りました。食べ慣れたタイ料理が日本食並みに美味しくてたまらなかった。
F氏はここから成田空港へ向かうことに。我々は関西空港へ。このレストランで別れることになりました。今回もF氏にお世話になり、とても心強い旅となりました。F氏がいることで、全体的に目を向けることが出来る。特に見知らぬ土地では、目に見えない重圧が大きいので、うまく3人でプレッシャーを緩和することが出来ました。そんなことから3人で協力し、各々の出来る仕事をすることがどれほど助かるか。そういった状況の中で、インドでの日本の兵隊からの帰還依頼を受けられたことは、とても意味があると思います。 別れる時は、あっけないが、うまく自分の感謝の気持ちと、共にこの活動に従事する喜びを表現出来ない自分がもどかしい。
『F氏、ありがとうございます』
関西空港へは2017年12月31日15:30過ぎに到着。荷物を拾い、リムジンバスを1時間ほど待つ。その間、うどんをすすりました。旨かった・・・。『日本食が一番だな』
自宅に着いたのは、20:00前後だったと思われる。今回は8日間の長旅でした。何度も行ける場所ではないので、余裕を見たつもりでしたが、日にち的、時間的に丁度でした。
今回はより一層仕組まれていたかのような旅の日数配分であったように思います。帰宅したその夜は、年越しそばを無事、家族揃って頂くことが出来、幸せでした。
24:高野山 奥の院 2018年1月6日
帰国して後、インドから持ち帰ってきた戦時中の兵隊の遺品の靴底についていた砂を高野山 奥の院へ持っていくことにしました。年が明けたばかりで、雪が降り積もる中、危険を承知した上で、弘法大使御廟へ向かって車を走らせました。奥の院、本堂の中へ入り、お坊様に相談し、インドから持ち帰った日本の兵隊の靴底についていた砂をこちらでお預かり頂き、インパール作戦で命を落とした兵隊方の為に御経をあげて頂くことにしました。本堂にて、御焼香をし、1時間、目の前でお経を上げている間、ずっと手を合わせさせて頂きました。
高野山 奥の院
25:自宅リビングにて、依頼完了 2018年1月13日
高野山から帰宅して、数日後の朝から、気がかりになっていた日本に帰還された兵隊方の行先のことを考えていました。すると、彼らが私の中に声をかけてきました。
『ありがとうございました』
たった一言の御礼の中に、彼らの状況が全て、伝わってきました。どこにも送り届ける必要がなさそうでした。そして、彼らの魂が見えない光で輝き始めていて、私の魂までがその光で癒され始めました。『魂から発せられる見えない光って、そんな力もあるんだね。すごいな』 彼らの存在がすっと消えていく。
今回も力不足を感じる旅でしたが、なんとか、うまくいきました。
今回の成功も、関わる皆さまのおかげだと思います。
心より御礼申し上げます。
こうして、想像すらしていなかったインド インパールへの訪問を終えました。初めて、日本の兵隊の幽霊が現れた時は、1回きりで終わりかと思っていた英霊の依頼活動が、まさかインパール作戦などという言葉すら知らなかった我々夫婦が足を踏み入れることになるとは、想像すらしていませんでした。 さて、次回の依頼はいつ、どのようにすれば良いのか? 見えない世界からの動きと天の配剤に身を任せたいと思います。ありがとうございました。
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