第12回目 タイ王国北部から集まる日本の兵隊たち

『そちらに向かっております』隊列を組み、草原から山の中へ消えていく兵隊たち


タイ産の松茸ご飯を炊きこむ



1:インドの上空で新たな日本の兵隊の気配が動き出す


    2017年12月31日、インドのサンジャーク他インパール周辺において日本の兵隊方と合流を果たし、インド カルカッタ空港から日本に向けての帰りの機中、タイ王国北部全体に動き出す日本の兵隊の気配を感じ始めていた。そして、その気配から、連絡をしてくるいくつかの思念を感じていました。『どういう感じで、タイ王国北部に行くんだろうか?合流の仕方は?いつ?』など、あれこれ考え始めていた。『なんでこんな急に帰還依頼が来始めたんだろう。我々がインパールに行ったことで、死後の世界にいる新たな日本の兵隊方が、日本へ帰ることが現実的に可能だということが立証され、彼らの中で帰国への想いが叶う現実味を帯びてきたことで動き出したのかな』とも思い始めていました。 


     すると、今まで記憶の彼方に消えていた一人の日本人男性の名前が何度も頭の中で浮かんできた。 


     「木田」 


     木田という御名前は、インパール作戦から日本へ生還を果たされた方(福井出身)で、平成25年、天寿を全うされた後、戦没者慰霊祭が催行されているタイ王国チェンマイのムーンサーン寺に、木田氏本人の希望により遺灰の一部を納骨された方であった。 


     この「木田」氏という方の存在を知ったのは、英霊からの帰還依頼が始まるずっと前に訪れたタイ王国クンユアムの戦争博物館が初めだったような気がしていた。何かの資料を拝見した時に見たのかもしれない。その時は、それほど意識に留まらず、後の2013年8月15日、チェンマイ ムーンサーン寺慰霊祭を訪れた時に、慰霊祭実行委員会の友岡氏から、改めて、帰還兵としての木田氏の存在について語られ、明確に記憶に残る存在となった。が、何故、木田氏の名前が何度も頭に浮かんできたのかがわからなかった。そして、その場では謎が解けず、それ以上深く追求することは無かった。


2:正式な帰還依頼


    2018年6月某日、日本の兵隊からの正式な帰還依頼が来ました。そして、今回は、彼らとの合流場所は『妻の実家の近くです』と答えたことから、それを元に推察して場所決めをする形になりました。実は、インドから帰国後、北海道のF氏より、『花と兵隊』というDVDが送られてきた。内容はドキュメンタリー映画になっていて、戦後帰国せず、ビルマやタイ王国に未帰還兵として生涯過ごした方たちの生活の様子や戻らなかった理由にスポットライトを当てたものでした。


     その中で、タイ王国チェンマイから近いランプーン市に、1人の未帰還兵がいました。彼の名前は藤田松吉。長崎出身で、菊兵団に所属。ミャンマー北部では、フーコンというジャングルで古今孤軍奮闘された兵隊であった。ランプーンの自宅敷地に慰霊塔を建立し、生涯、インパール作戦で亡くなった戦友の為に供養を続けた方でした。どこかで日本の兵隊らしき人骨があると聞きつけると、その場所へ行き、土を掘り起こし、人骨を手厚く回収し、彼の建立した慰霊塔に納骨、仲間の魂を弔っていた。そんな彼も2009年に他界。その年にちょうど、日本に住む妻のところに、英霊:日本の兵隊の幽霊がコンタクトを取り始めました。それから、『我々を日本に連れて帰ってほしい』という依頼を受ける形で奇妙な旅に繋がっていきました。 


     私は、そのドキュメンタリー映画を見ましたが、正直、心身に重くのしかかるものがあり、大変申し訳なかったのですが、そのDVDを北海道のF氏に送り返してしまいました。そんな流れからか、私は、日本の兵隊からの帰還依頼があった後、ランプーン戦没者慰霊塔に意識を向けてしまいました。当然、裏づけは、妻の実家の近くということからでしたので、完全に慰霊塔に行くのかなと思い込んでしまいました。浅はかな判断であったと今は反省している。 


 3:英霊の依頼2人旅へ 


     過去4回、北海道のF氏と共に、英霊の帰還依頼に従事してきたのですが、ここで、妻が今回の旅は夫婦二人のみで向かいたいと言い始めた。訪れる場所はチェンマイやランプーンを基点としたタイ王国北部。妻の実家の近くでもあり、里帰りを含めたいので、実家でゆっくり両親と過ごしたいという希望が理由でした。その話を聞いた時こそ、不満を感じたが、妻の立場を自分自身に置き換え考えてみると、理解できる部分が大半で、少し意識が日本の兵隊の帰還依頼にばかり、偏り過ぎているように感じました。実際、妻の実家に戻った時は、色々細かい用事があり、親族への挨拶回り、友人との会食、事務手続きなどなど本当に忙しく、私の自由は無く、意見を言う状況でないことが現地で再確認出来ました。


     私は納得できるが、果たして過去4回同道して下さった北海道のF氏が納得して頂けるか。私は、理不尽なお願いをどのようにお伝えしたらいいか苦悩しました。F氏の英霊に対する慰霊の心は、純粋かつ誠実であることは、共に行動することによって、理解していました。ですので、私は、妻の発言に理解は示しても、他に何か方法は無いかと時間をかけ、熟考に熟考を重ねました。が、最終的に、出口の糸路は見つからず、誠実かつ正直に今回の同道をお断りすることにしました。 


     F氏からのメールはとても清々しい心境をもって書かれた内容でした。我々の状況を理解して頂き、受け入れてくれました。F氏も、今回の英霊の依頼に向けて、目に見えないところで準備されていたことは、容易に想像が出来ました。非情かつ残酷なお願いに、申し訳ない気持ちで、お伝えさせて頂いた後も、何か良い方法はないかなと独り考え続けました。しかし、悩み続けて行きついた答えは、すべての状況は偶然ではなく必然であるということでした。きっと、時間が経過していくにつれ、これでよかったのだと思うような流れになっているに違いないという思いに導かれました。そして、北海道のF氏もそれを必ず実感して下さるものと信じることにしました。


 4: 日付


     6月に入り、8月15日という日付が頭の中に浮かんできました。おそらく、この日が合流の日になるのではないかと推測しました。が、その日は、チェンマイ ムーンサーン寺にて戦没者慰霊祭が執り行われる日。ゆっくりと慰霊祭に参列したいという思いがありましたので、ラーンプーン戦没者慰霊塔を待ち合わせ場所として、その日のうちに2箇所、行く事が可能なのかと不安に感じました。と同時に、何か違和感を持ち始めていました。とにかく、私は、出来ることを全うし、流れに身を任せることにしました。この英霊の依頼は、未浄化な霊魂と彼らの向かうべき世界の存在が織り成す不思議な事象である。私の役目は、媒体としてお役に立てることなのだから、私が私情・推測でコントロールすることが出来ない領域だと思うように心がけました。  


    そんな心境・状況の中、チェンマイ ムーンサーン寺の戦没者慰霊祭に参列することを慰霊祭実行委員会の友岡氏にお伝えしました。私も妻も、この慰霊祭に参列し、他の日本人の方々、タイ人の方々と共に慰霊の念を持って、日本の兵隊方の魂の安寧を祈念したいという思いがありました。それに、慰霊祭実行委員会の友岡氏とも再会したいとの思いも強かった。 


 5:ムーンサーン寺 戦没者慰霊祭を知った経緯


     簡単ではあるが、チェンマイにあるムーンサーン寺について書きたいと思う。インパール作戦侵攻時、駐屯地にされていたこのお寺は、戦況が悪化し、敗戦が決定的になった後、退却してきた多くの日本の兵隊方が、戦傷病院として利用していました。そんなお寺に、戦後1970年 奇跡的に帰国出来た戦友たちがタイ王国チェンマイのムーンサーン寺に再び訪問。集った仲間で慰霊碑を建立しました。 1980年には再び慰霊団が訪問しましたが、その後の記録も無く、慰霊碑は無縁仏のような状態に陥っていきました。が、そんな中、三重大学のウメバヤシ氏が御1人で毎年8月15日に慰霊祭を十数年間されていたようでした。そして、後、今の慰霊祭実行委員会に引き継がれることになりました。そんな慰霊祭の存在を知ったのは、2013年8月でした。英霊からの帰還依頼4回目、ターク県ゲンソーイ寺院にて無事合流を果たしたまでは良かったが、妻の実家でお留守番をしていた子供がデング熱を発症し、チェンマイ市内の病院で入院を余儀なくされました。病院で、絶対安静の状態になった子供と共に、私は病院で数日間過ごすことになりました。そんな時、ムーンサーン寺の慰霊祭について、妻が私に話をしてくれました。妻は、以前から幾度か個人的に、ムーンサーン寺の清掃を1人することがあったようでした。私は、慰霊祭になんとなく興味を示し、当時、インパール作戦という言葉を知らなかった状態で、戦没者の名簿がお寺にあるかもしれないと興味を持ったことから、慰霊祭の存在に興味を持ち始めていました。そして、その時にムーンサーン寺の慰霊祭で、戦没者の名簿の有無を聞いたのが、慰霊祭実行委員会の友岡氏でした。それからは、友岡氏と忘れた頃にメールのやり取りをする程度の関係になっていきました。


 6:間違いの指摘 


     タイ王国 チェンマイ行きが間近に迫ってきた頃、兵隊の幽霊から再び連絡がありました。『我々の待つ場所は、奥様の実家の近くです』と再び、同じ内容を知らせてきた。つまり、ランプーン戦没者慰霊塔ではないと言いたいことがすぐにわかりました。私は『はっ』と気付かされました。その次の瞬間、彼らの合流場所として指定してきた場所に意識が向きました。しかしながら、私はその場所に対し、疑心暗鬼になりました。というのは、英霊の依頼が始まってから、幾度か足を運んだことのある場所だったからでした。『何故、今更、あの場所に?』そういえば、幾週間前に、兵隊さんたちが一列の隊列を組み、草原を歩き、山の中へ消えていく姿を見ていました。その時、1人の兵隊が私の方に顔を向け、『今、合流場所へ移動しています』と伝えてきました。まさか、その場所がジョムトン寺近くの建物の前なのか。私は少し興奮しながら、色々と思考を巡らしました。とにかく、納得いかないような心境でしたが、その場所を心に留めておくことにしました。


     この時点で、なんだか頭が混乱してきていた。情報をまとめると、今まで考えてきたことが疑問の固まりのようなものに変化していきました。これは一つの場所でないのだと、もっと思考を柔らかく保ち、彼らの伝えたいことを素直に受け取り、整理することに努めました。    


    ネジ曲げず素直に捉えるならば、『こうなるだろう』と以下のようなスケジュールを立ててみた。 


     8月15日 チェンマイ ムーンサーン寺慰霊祭に参席

     8月16日 ジョムトン寺近くのイメージが伝えられた場所へ行く 


     この時点では、8月15日にチェンマイにあるムーンサーン寺慰霊祭に参列することに違和感を感じた。8月15日は、妻の実家近くのジョムトン寺(ムーンサーン寺から車で40分離れた場所にある)近くで合流ではないのか? 


     そんなモヤモヤとした疑問を抱きながら、上記のようなスケジュールをたて、進めるしかアイデアが浮かばなかった。 


     この後は、妻が今回たびたび口にするメーチャームやランパーン、そして私が勘違いしていた場所ランプーン戦没者慰霊碑も時間の許す限り訪問地として伺うことに決めました。 


     慰霊祭実行営委員会の友岡様も同道の提案をメッセージのやり取りでしていたのですが、なんとも未確定な部分も多く、やはり、妻の都合もあるので、なんとも返事がしにくく、大変、恐縮してしまいました。タイ王国では、私の立ち位置は、かごの中の小鳥のような状態で、何もすることが出来ませんでした。それと、妻の親族・友人と過ごす時間などを加味するとさらにいい加減なご返事をすることが出来ず、なかなか厳しい状況にありました。 


 7:出発 


     久しぶりのタイ王国だが、子供は家に残ることになりました。クラブ活動や夏休みの宿題、夏期講習などで忙しいからとの理由があり、なんだか頼もしくもあり、寂しい気持ちにもなりました。8月13日夜、関西空港へ向かう。8月14日0:30発の深夜便のJALを利用しての移動となりました。深夜の移動は、一日の移動ロスを無くすのに都合が良かった。


     正直、今回は、少し緊張感が無かった。なんというか、北海道のF氏同道を断っての2人での英霊の依頼活動になったからだ。理由はともあれ、すべては必然であるという結論に導かれても、不満は燻っていた。頭では理解していても、内心、どこかで納得していなかったのだと思う。人間ですので、お許し願いたい。 


     不満に感じながらも、英霊の依頼は必ず全うするという思いには変わりはありませんでした。そうでなければ、恐らく、様々な感情に振り回され、自暴自棄になっていたかもしれません。 


     タイ王国チェンマイ空港に到着したのは8月14日の朝9:20過ぎ。久しぶりのチェンマイに胸が躍りました。空港には、妻の友人のR氏が迎えに来ていました。彼は、妻の元職場の先輩に当たる方で、芸術学科の教授であった。私も妻と結婚する前に紹介されていて旧知の仲であり、チェンマイでは信頼出来るタイ人の一人でした。さっそく車に荷物を乗せ、妻の友人が経営しているホテルに送ってもらいました。まだオープンしたばかりでとても綺麗で、部屋の中は広く、移動の疲れを癒してくれる良いホテルでした。部屋には友人R氏も入って頂き、一緒に寛ぎました。8月13日りくろーおじさんというチーズケーキで有名な店の新大阪駅店で買ったお土産のチーズケーキを彼に食べて頂き、日本の味を堪能して頂きました。今回、この焼きたてチーズケーキを10個ほど、お土産としてタイ王国チェンマイへ持ってきていました。


     この後、明日の慰霊祭出席の為、散髪に行くことにしました。R氏行きつけの散髪屋で日本人のお客さんもいるということでした。一回300円で、綺麗に散髪して頂きました。一日、何人捌きますか?と聞くと、大体25人くらいかなと答えてくれました。これで、慰霊祭へ向けての準備は着実に進んでいき、靴はR氏のものを借りることに致しました。私の履物を見て、R氏は苦笑していた。 何故なら、スリッパでしたので。。。


     友人R氏は仕事の関係上、夕方に外せないミーティングがあるということで、一度、大学へ戻ることとなりました。夜には再会を祝し、妻の以前の職場の友人、先生方にも声をかけ、レストランで食事をすることにしました。R氏が仕事を終え、再び、車で迎えに来るまで、ゆっくりとホテルで休憩を取り、私はシャワーを浴びた後、ベッドで横になり寝込んでしまいました。その間、妻は忙しそうに次の日の慰霊祭参列の準備をしていました。いつもこの点においては、妻に感謝しています。 


     夜になって、友人R氏が迎えに来て、チェンマイ市内北部のベトナム料理レストランへ連れて行ってくれました。レストランに着くと、総勢8人でテーブルを囲みました。全員、妻の友人であり、以前の職場の仲の良い先生方でした。いつも通り、私はわからないタイ語を聞きながら、食事を愉しむことにしました。といっても、見慣れない料理が目の前に並び、正直、箸が進まなかった。久しぶりのタイなのに、なんでベトナム料理なのと妻は少し残念がっていた。笑


8:8月15日 


     ムーンサーン寺慰霊祭への参列を予定していた私たち夫婦は、朝から黒いスーツを着用した。送迎は、今日からお世話になる妻の実家の隣に住むSさんでした。彼は、妻の親友Nさんの旦那さんで、二人のキューピット役を担ったのが、私の妻でした。Sさんの仕事はドライバーで、英霊の依頼1回目でメーホンソンまでの送迎をお願いしたこともあり、私も気心の知れた存在で信頼出来る1人であった。   


     9時過ぎに到着した我々は、慰霊祭実行委員会の友岡氏と会いました。顔合わせはこれで4年ぶり2回目となるが、幾度かのメッセージのやり取りで、随分昔から旧知の仲のような感覚で接することが出来ました。彼とはもっと親交を深めたいが、この日は実行委員会として多忙を極め、慰霊祭の催行の妨げにならないように話をするのを控えました。そして、英霊に対する魂の平穏を祈念する思いが届くように心身を整え、参列させて頂いた。 


     決して、我々は戦争肯定をしているわけでもなく、インパール作戦に従事した人々、そして、この戦争に巻き込まれ、命を落とした人々の存在を事実として受け止め、慰霊の気持ちと共に、戦争を二度と起こしてはならないという思いを胸に刻むための祭事ごとであるということを確認しておきたいと思います。 


     9:30 慰霊祭が始まりました。周囲を見渡すと、日本人の姿よりもタイ人の方々の方が若干多いように見えた。不思議な光景に映ったが、とても有り難いことだなと思いました。この日、慰霊祭実行委員会の友岡氏より、慰霊碑が建立され、慰霊祭が執り行われるようになった経緯、それに関わる人々のお話を聞く事が出来ました。私にとっては、非常に興味深い話となりました。特に慰霊碑が建立された年というのは、私が誕生した1970年でもあり、戦後35年が経過した後に建てられたという部分にも興味を持ちました。あの過酷なインパール作戦から、偶然拾った命を活かし、今一度、集った戦友たちが慰霊碑建立の為の財を出し合い、建てた慰霊碑がお披露目をされた年に誕生したことに奇縁に感じながら、英霊達に手を合わせました。 


     慰霊祭が無事終わった後、友岡氏と話す機会がありました。彼からは、車の手配や機会があれば同道といった話が再びあったのですが、妻の今後の予定がわからず、はっきりお答えすることが出来ませんでした。友岡氏の真摯なご提案に対し、失礼がないように考えた結果が、今回の対応に繋がったことを理解してもらえればと願うばかりでした。 


     その日は、何故かゆっくりと慰霊祭の後も残っていました。ムーンサーン寺の慰霊碑の後ろにある戦争博物館にも訪れ、当時の様子を伺える写真や兵隊さんの携帯品・軍服などの展示物を拝見させて頂きました。


     すると、友岡氏が1人のタイ人女性を連れてきて妙なことを話し始めました。内容は、1人のタイ人女性が日本の兵隊さんの存在を感じ、ムーンサーン寺の慰霊祭の噂を聞き、導かれるように足を運んだということでした。彼女はそのまま慰霊祭に参列し、終わった後、友岡氏にそのお話をされたようでした。それを聞いた友岡氏は、そのタイ人女性を我々夫婦の元へ連れてきてくださり、ご紹介してくれました。私はタイ語が話せないので、妻にその女性から話を伺ってもらうことにした。すると、妻に、そのタイ人女性が連れてきた日本の兵隊さんが憑依し、日本に帰りたいと言い始めました。私は、すぐに委細承知して、『それでしたら、我々と一緒に日本に帰ったらいい』と言うと、急に数日前から感じていた、首の痛みがすっと消え、その場の空気が軽くなりました。私が驚いていると、妻も同じものを感じたらしく、私は全てのことを理解することが出来ました。この兵隊さんはきっと、11回目の英霊の依頼でインドのカルカッタ空港から経由地のタイ王国バンコクへ向かう途中に思念を伝えてきた兵隊さんの1人なのかもしれないと感じさせられました。そして、『木田』という名前を頭に何度も浮かべさせ、ムーンサーン寺をイメージさせ、8月15日とメッセージを送ってきたのは慰霊祭を意識させる為だったのかもしれないと思うと今までの流れがすんなりと受け入れることが出来ました。私は、帰還が叶う兵隊さんの喜びを感じると共に、謎解きの一つが終えたことに安堵した。友岡氏との繋がりも大いに意味のあることであったように感じました。友岡氏との出会いは数年前からの布石であったのか、それとも、会った縁を利用されたのかわからないが、一人の兵隊と無事合流を成功させ、笑顔になりました。 


     慰霊祭が終わった後にお迎えに現れたドライバーSさんの奥さんであるNさんが我々夫婦を妻の実家があるジョムトン市までのドライバーをして下さることになった。時間がたっぷりあったので、途中、バーンガード慰霊碑そして、私が合流場所と勘違いしていたランプーン戦没者慰霊碑に立ち寄ることにしました。


     まずはバーンガード慰霊碑のある学校へ到着した。この学校のある場所も多くの日本の兵隊が退却時、戦傷病院としてお世話になっていた土地で、慰霊碑建立の場所となったようでした。校内には、日本側からの寄贈された建築物がありました。(例:水飲み場等) 慰霊祭は既に終わっていて、日本人の姿はなかったが、慰霊碑の設営をして下さった学生さんたちや日本語の先生がおられました。ご挨拶をして、こちらの慰霊碑でも手を合わさせて頂きました。そして、こちらで日本語の先生をされている方が、私も知っている日本語学科の先生の教え子だったことを知り、なんとも嬉しい気持ちになりました。どこでどう繋がっているかわからないなと思いました。


     次にランプーン戦没者慰霊碑へ。こちらは『花と兵隊』というDVDを北海道のF氏から送られてくることによって、意識を向けた場所でした。ここが合流場所かと誤解したことには理由があるが、感じる・見えるものの上澄みしか読み取らず、その思念の核の部分までを読み取る能力の無さが勘違いを引き起こしたと思っています。結局、限られた情報量の中では、無意識に推察が入ってしまい、判断を誤ってしまうのだろうと再確認出来ました。やはり、私はこういった見えない世界という分野では素人なんだなと再確認させられることにもなりました。とはいえ、最終的には、いつも間違いを見えない世界側から指摘を受けるので仮定を持って進むことも大事なことではあると認識しました。そういった意味でも、私は自身の思う立ち位置にいれればと思っています。所詮、あの世と未浄化な霊魂が織り成す現象の補助・お手伝いが私の役目であるから。私はそっと手を合わせ、慰霊の心を持って、魂の浄化がより一層進むよう祈念する他無かった。 


     途中、戦時中、日本軍が建設していたという線路の戦跡を訪ねました。工事を止め、放棄したかのような形跡があった。バンコクからミャンマー側モールメン、ラングーン方面へ伸びる便利な路線ルート(泰緬鉄道)が完成し、こちらで線路を作る意味を無くしたからかもしれません。あくまで素人予測ですが。 


     この後は、無事、妻の実家があるジョムトン市へ到着。この日から、妻の実家隣のドライバーSさん、奥様Nさんの御自宅でお世話になることになりました。嫁の実家の近くで合流するといった日本の兵隊のメッセージがありましたので、妻の両親と一緒に時間を過ごしたいという気持ちを汲み取るならば、この宿泊場所が一番、双方にとって便利な場所であるということになるのだろうかと納得しました。


9:ジョムトンにて合流 


     8月16日、午前中はドライバー役をしてくださるNさんは忙しく、妻の実家で待機となりました。実家の親族に挨拶へ行ったり、ライム畑の様子を見に行ったり、持ってきた荷物の整理など、現地へ行かないとわからない小さな用事がたくさんありました。お土産を配り、訪れる見知らぬ人々と挨拶をするだけでも、時間は過ぎていきました。 


     昼過ぎ、Nさんに時間が空きましたので、銀行へ行ったり、徒歩では厳しいご近所挨拶に行ったりとまた時間が過ぎていきました。用事がひと段落つく頃には、私的にはちょっと気が抜けかけていましたが、ジョムトン寺院へ訪れることになりました。駐車場へ車を止め、妻とNさんが、私が感じ始めていた場所とは逆方向へ歩いていくので、何か用事があるのかな?とついていくと、妻が突然、『どこにいるの?』と聞かれました。焦った私は、『あっちだよ』と指をさしました。そのまま、私が案内し、ある建物の前へ行くと、多くの兵隊さんが立って待っておられました。私は大きく息をついた。私は彼らの歩んできた今日までの人生に畏敬の念を持ち、ただただ尊さを感じました。そして、そんな彼らに会えたことを誇りに思い、感謝するに至った。『ありがとう。今まで生きていてくれて』ここでいう生きるとは、魂のことです。肉体は無くなっても魂は生きているという考えから出た言葉でした。 


     しかし、この英霊の依頼で改めて不思議に思うことがありました。私はこの場所に何度も訪れたことがありました。何故、今、この場所で多くの兵隊と合流を果たし、日本へ帰国することになるのか。もっと早くに合流を果たし、帰還を果たしていたことも出来たはずだ。その点について、少しの時間をかけて、考え込みました。ただ、人である知識をこの現象にあて推測すると、時・タイミングがあるのかもしれないという一言に尽きるのではないかという結論に辿り着いた。私がインド、インパールに行ったことがタイミングかもしれないし、時を動かすきっかけになったのかもしれません。 一方、人智の届かないところに本当の真実があるのではないかとも思うので、誰もわからないのかもしれません。


10:ランパーンへ 


     ラーンパーン市は妻の実家のあるジョムトン市から車で2-3時間ほど西南西へ移動した場所にある大きな街でした。インパール作戦開始前には、日本軍が駐屯地として戦争物資を置き、多くの日本の兵隊が滞在していたようでした。当時、ビルマ(ミャンマー)侵攻の為のタイ王国北部一大拠点の一つであったようで、日本の空軍も、この街の既存の空港の滑走路を延長する工事をした後、多くの戦闘機を滞在させていたようでした。そんな街へ行こうと妻が提案し、足を運ぶことになりました。元々、第二次世界大戦時にあった飛行場の場所は、当時の様子を調べるタイ人の大学の先生が調査し、見つけたようでした。今ではその面影も確認しにくく、現地に足を運び注意深く視認するほか方法はなかったようでした。タイ王国の軍組織もその場所の所在には興味があったようで、後に日本軍が使用していたとされる空港を調査していたその先生と共に場所の確認をされたことがあったようでした。私の妻も、その点に興味を示し、惹かれるように訪問することを決めたようでした。ここからは、私は流れに身を任すスタンスに切り替えました。私の今回の全てはジョムトン、妻の実家にある街での合流にあったし、後は、妻のやりたいようにしてもらいたかった。インドからどうも私に対し不満を持っていたようでした。女性としての妻に対するケアが足りないと言われ、トイレ休憩のこと、疲労困憊であった妻に対する態度で不満を持っていたようでした。男性陣のみの旅であっても、大変な悪路で体力的に消耗が酷かったので、女性がいることに、もっと配慮すべきだったと反省をしました。元々、妻が日本の兵隊さんと出会ったことから始まった活動でもあるので、それを肝に銘じておく必要もあるように感じました。そして、妻に対する感謝も少なかったように思います。 


     8月17日、運転手をして下さっている隣人女性のNさんも、朝は家事や仕事もあるので、近所のCaféで休憩を取りました。 昼前、Nさんの仕事・用事がようやく片付いたようなので、ランパーンへ向かって出発となりました。途中、寄り道をしながら、昼には、ランパーンで美味しいと評判のラーメン店に立ち寄ることになりました。特大のフィッシュボール(かまぼこのようなもので丸い)が入ったラーメンが売りで、それを食べることになりました。私的には胃にもたれるのできつかったが、出汁は美味で何度もおかわりしたくなるような美味しさでした。壁には食べに訪れた著名人と思われる写真がたくさん貼られていました。


     ラーメン屋で元気を取り戻した私たちは、ランパーンで高名なお坊様が祭られている大きなお寺を訪問した。地元ではとても有名であったようだ。


     お寺で住民が尊ぶ御坊様へのご挨拶を終えた我々は、ランパーン駅に向かいました。この駅は多くの日本の兵隊が利用していて、大きな駐屯地があった場所。そして、この駅の線路に沿って、戦時中、現地の大きな市場があり、あらゆる食材・生活必需品が売りさばかれていたそうだ。そんな場所に目をつけた日本軍は、この周辺に宿泊所を設け、インパール作戦に向けて物資を調達もしていたらしい。同盟国であったタイ王国も、様々な思惑を持ちながらも、日本と同盟を結び、日本軍の意向に沿うように協力していたそうでした。 


     ランパーン駅構内へ訪れ、駅のスタッフに聞くと、この駅のホームは第二次世界大戦前からのもので、鉄骨部分には連合軍の戦闘機による銃痕が残っているということでした。 屋根側の鉄骨を見回していると、いくつか鉄骨に穴が空いていることが確認できました。ランパーンについて、全く知識の無かった私でしたので、少しずつ興味を持ち始めました。連合軍に攻撃をされる場所ということは、それなりに重要な駐屯地として注目されていたんだなと知ることになりました。 


     線路沿いに戦時中大きな賑わいを見せていたらしい市場の横を車で走らせていました。数キロ行ったところでT字路になり、左に行けば線路をくぐり、右に行けば、街の中へ戻る道が続いていました。T字路の先は店舗や住宅街が並んでおり、ドライバーをしてくださったNさんが、一軒の店先に車を一時的に止めました。妻が外へ出ると、1人の男性が我々をじっと見ておられ、そんな彼に思わず声をかけ、戦跡というか、このあたりの戦時中の様子と現在の位置関係を聞き始めました。彼は表情を変え、『俺が案内してやるよ』とガイドを買って出てくれました。彼は、この場所で育ち、現在もこの場所で暮らしているようで、地域のことに詳しそうな感じでした。外は雨が降っていたので、我々のために傘まで用意してくださり、自身を雨にさらしながら、線路沿いに道を案内してくれました。妻と現地の彼は熱心にタイ語で会話をしていたが、その内容は全くわかりませんでした。そして、線路の鉄橋の前まで来ると、彼は自分の店に戻っていきました。妻に聞くと、この線路の先はチェンマイに続いており、この鉄橋は戦時中、空爆を受けていたようでした。鉄橋に沿って今でも地面に空爆の痕が残っているそうなのですが、現在は草むらになっており、それを視認することは出来ませんでした。 


     店先に駐車していた場所に戻ると、現地の彼と妻がまた熱の入った会話をスタートし始めた。しばらくすると、彼は、子供の頃、日本の兵隊と思われる人骨を見つけたようで、その場所へ案内してやると言い出し、先ほど歩いた線路側とは逆の方向に向かって歩き始めました。 


     途中、指をさした建物の裏庭には空爆に備えた防空壕があったらしく、そこで彼の祖父は連合軍の戦闘機からの爆弾の直撃を受け、亡くなったということでした。ここではそんな住人がたくさんおられ、日本の兵隊に向けた攻撃で多くのタイ人住民が亡くなったそうでした。しかし、そんなことを意に介さず、彼は黙々と我々を細い路地へと案内してくれました。行き止まりの場所には一軒の家が建っており、彼がその家の家長に断りを得て、家の脇のある場所へ案内してくれました。そして、彼は指をさした。『俺が子供の時、ここで日本の兵隊の人骨を見つけたんだ』と話し始めました。何故、彼は、その人骨を日本の兵隊のものだと決めつけ、話しているのかの根拠は説明してくれなかったが、私は自然と手を合わし、その場で黙祷を捧げました。すると、妻が、『兵隊さんが喜んでいる』と何かを感じさせられたようでした。私にはわからなかったが、それが事実なら、これで日本への帰還は叶うと思い、一緒に日本へ帰ることを念じた。妻の話によると、多くの兵隊が現れたようでした。私は、『ここに来たことは無駄ではなかったんだな。そして、この男性も日本の兵隊の魂に道案内をさせられていたのかもしれない』と思いました。 


     彼の店先に戻ると、道路を挟んだ真向かいの場所に案内された。この地域の祈りの場に我々を連れていってくれました。その場所は、フェンスで入れないようになっており、鍵がかけてありました。大きな仏像が立っており、住民の信仰の場となっていました。『住人の信仰の対象となっている土地神様に御礼の御挨拶が出来る』と私は、この付近の住人たちの聖域に足を踏み入れました。道案内をして下さった住民の男性が、線香を用意してくださり、我々はそれを供え、手を合わせました。しばらく黙祷を捧げると、また、案内をして下さった男性と妻は話を始めました。彼は祖父が日本軍への空爆が原因で亡くなったことに対して、何も恨んでいないと改めて話してくれました。むしろ、誇りにさえ思ってくれているような印象を彼の表情から私は受けました。彼は、この地域の副自治会長をされていました。そんな話を聞くにつれて、彼の人となりを知ることが出来ました。彼は再び、店先でお水や現地の果物ソンオー(日本のざぼんのようなもの)を剥いて、我々のしていることを労ってくれた。すると、事務仕事をしていた女性2人が店先に出てきました。顔は日本人顔をしているが、中国系タイ人だということでした。彼女たちも我々に興味を示し、笑顔で接してくれました。そんな時、道案内をしてくれた彼が、私に質問をしてきました。『俺は人骨を見つけてからというもの、夢の中でいつも印を見るんだ。もし何か意味があるのなら、教えてくれないか?』と聞いてきた。彼は指を動かし始めた。指は水平に動き出し、漢字の一を描いた後、指を下から上に向けて、カーブを描きながら、その一を突き抜けた。そして、更に反対側の下から先ほどのカーブを描きながら上に伸ばした線を支えるように新たな曲線を描いた。私は『それは大きいという意味の漢字だよ。日本の文字だよ』と説明をした。すると、私は身体に電流が走ったかのように全身の毛が逆立ってしまった。目の前の彼の表情も瞬時に変化し、私に視線を向けて、目を見開いた。彼は自分の左右の腕を上下にさすり始めた。彼は驚いたような表情で私にタイ語で話しかけた。タイ語がわからなくても、彼の言いたいことが私にはわかりました。彼も全身に電流が走ったのだ。そして、彼の後方にいた事務の女性も腕をさすっていた。皆、同じものを感じたのだ。私は誰かが何かを伝えようとしていると思いました。そして目の前のタイ人男性もそれに気付いたようでした。言葉は通じなくても、同じ何かを感じ、我々のコミュニケーションは成立していました。それを伝えることが出来た何かが、浄化して下さることを、そっと祈った。


     彼は更に戦傷病院になった建物がまだ残っている話をしてくれました。我々は彼らに十分御礼を言って、その場から戦傷病院となった建物へ向かいました。到着すると、門が閉まっており、建物の横で座り込む女性が見えました。敷地はとても広く、閉ざされた門からその女性までの距離が遠すぎて、話しかけることが出来ませんでした。Nさんが近辺の店先に戦傷病院として使われていたであろう建物について情報収集をし始めました。我々夫婦は、その女性がこちらを向かないか、しばらく見ていたが全くその気配は無く、立ちすくんでいると、Nさんが車に戻ってきました。近所の話によると、現在、持ち主はバンコクに住んでおり、敷地内にいる女性はその建物の管理を任されているようでした。大声を出して、その女性に気付いてもらおうと試みましたが、距離があり過ぎて、とても届かせることが出来ませんでした。我々は建物の裏に移動をし、散策をしてみるが、路地裏は今にも崩れそうな建物ばかりがあり、おっかない雰囲気でしたので、諦めることにしました。時間的にもそろそろ帰路に向かわないと暗くなってしまうので、今回はこれで終わりにし、この場所から車で片道2-3時間はかかりますので、妻の実家のあるジョムトンへ戻ることにした。




11:日本の香り 


     帰途の主要道路沿いにある現地のローカル市場に立ち寄ることにしました。村の人が栽培した野菜や山で採れた野菜、川魚、食用の昆虫(バッタ等)、肉類、衣類など様々なものが売られていました。車で待っていても仕方ないので、買い物をしていくという二人の後を追い、私も市場の中を散策することにしました。日本とは見慣れない食べ物が多く、興味をそそられました。中には蛙の干し物などもあり目が釘付けになりました。日本と同じように干し魚のように炙って食するようでした。歩き回っていると、なにやら松茸のような香りがどこからともなく香ってきました。私は立ち止まり、その周囲を見渡すと、妻が近くにいたので、日本の松茸の匂いがするんだけど、どれかなと聞くと、並ぶ数種類のきのこの中から一つを指差しました。『それだよ』というので、鼻を近づけて嗅いでみると、まさに松茸の香りがしていました。普通に歩いていてもわかるぐらいだから、相当、香りが強いなと思いました。私は、『これ食べてみたいな』と言うと、妻が買ってくれました。その瞬間、昨日(8月16日)、ジョムトンで日本の兵隊の魂と合流した後、Nさんがチェンマイ市内まで子供を迎えに行った際に何故か妻に電話をかけてきて、『日本のお米としょうゆを買ったから!』と連絡してきた出来事を思い出しました。その瞬間、明日、日本の松茸ご飯を作ろうというひらめきが浮かび、偶然とは言え、素晴らしい日本料理がタイ王国ジョムトンで作ることができるのかと思うと、嬉しくてたまらなくなりました。購入した松茸の香りを車内に漂わしながら、無事、ジョムトンへ帰宅することが出来ました。今日も不思議な住民との出会いとランパン市へ足を運んだ甲斐があったような気がしました。きっと、私にはわからなかったが、合流できたのかもしれません。そんな何かを感じる日帰りドライブでした。


12:松茸ごはん 


     ランパンへ行った翌日の8月18日の朝、目が覚めると、松茸の香りがどこからか匂って来た。匂いの先に行くと、調理場の土間に置いていた火鉢の網の上で、昨日買った松茸が焼かれていた。『焼き松茸!!』私が見ていると、妻が『味見してみたら?』と言うので、手を伸ばし、一本掴んでまずは匂いを嗅いだ。『おぅ~』 まさしく、松茸の香りだ。しかも、日本のそれより、香りは強いような気がしました。妻はこの焼き松茸をお米と一緒に焚くから待っているように言いました。だしの素は日本から持参していたものがあり、しょうゆは先日、Nさんがチェンマイ市内で購入してくれたものがあったので、味付けに関しても全て調味料が揃っていました。焼き松茸をジャーに入れ、スイッチを入れ、後は炊き上がるのを待つだけになりました。その間にシャワーを浴び、他の日本食も用意しました。味噌汁、魚の缶詰、やきとりの缶詰などなど。これは北海道のF氏がいつもならしているはずなのですが、今回は妻も忙しく、私自ら用意することになりました。しばらくすると、松茸ご飯が炊き上がり、それを小さな鉢に入れ、まずは、今回の滞在先Nさん宅の土地神様がおられるスピリットハウスに奉納し、お世話になっていることに対する感謝と帰途についている日本の兵隊の滞在の許しを請いました。そして、次にリビングの食卓に日本食を並べ、苦難を味わった兵隊方の為にどうぞ召し上がって下さいとお声がけをさせて頂きました。私は、用意した食事の横で、私もテーブルにつき、共に日本食を堪能することにしました。松茸ご飯を食べると、若干、薄味で京都の料理を連想させるような上品な味に仕上がり、その出来栄えに感嘆しました。思わずおかわりをして、2杯を平らげてしまいました。この日は、夕方にもカレーライスを調理して、日本食を一日2回用意することが出来、とても有意義な日を味わうことになりました。まるで73年ぶりに日本食を食べたような気持ちになり、不思議な気持ちにさせられました。そして、私にとっては貴重な休息日となりました。


     夕方、明日8月19日は日曜日ということもあり、休日なのでNさんの旦那さんのSさんがドライバーを務め、メーホンソン(タイとビルマの国境方面:タイ王国北西部)と妻の実家の中間ほどの場所にあるメーチャームという町に行くことを妻に告げられました。そこもまた、多くの日本の兵隊さんが退却路に利用したルートの一つであり、日本を発つ前に妻と話に触れていた場所でした。


13:メーチャーム 


     この町は、以前、妻から日本の兵隊さんがメーチャームを通過してチェンマイに退却していたので、多くの兵隊方がこの町で亡くなっているということを聞かされていました。私もそんな言葉に、気にはなっていましたが、何故かいまひとつ伺う機会が無く、行こうと話していた2014年12月から4年半が過ぎていました。


     場所的には妻の実家のあるジョムトン市に滞在している時に訪れるほうが、簡単にアクセス出来る位置にありました。そして、私の知らない所で友人から情報を仕入れていたようでした。友人の家の前に小・中学校があり、その学校の敷地にインパール作戦の終わりに多くの兵隊が倒れ、村人によって埋葬されたということでした。そんな情報がより一層浮かびあがり、妻ならびにお世話になっているNさん親族や知り合いが寄り合い、あれこれと話をするうちに機運が高まっていきました。その話を聞いていたNさんのご主人Sさんが日曜日つまり8月19日に連れて行ってやるよと言ってくれたようで、妻の実家から3時間弱の日帰り旅となりました。


     ルートは山越え谷越えという説明がぴったりな道路状況で、カーブが多く、登ったり下ったりと短い時間でありましたが、結構たいへんな道のりでした。メーチャームの町を山から見下ろすと、風光明媚な田舎ではあるが、綺麗な町で、緑豊かで垢抜けた都会にそれほど毒されていない空気が町全体に広がっていた。


     メーチャームに入ると、ガソリンスタンドに立ち寄り、給油。トイレ休憩・ガソリンスタンド敷地内にあるセブンイレブンで飲食補給もしました。店先には山岳民族衣装を着た女性達がベンチで座っており、観光客の為に纏っていない自然な服装で寛いでいる姿を見れ、貴重な体験をしました。セブンイレブンではアイスコーヒーをビッグサイズのカップで購入し、車に持ち込みました。こちらの氷は、日本で暮らす私には合わないと言われたが、気にせず飲んでみました。たまには冒険しないとね。この日はチャレンジ精神に満ちていました。


     道中、湧き水スポットとして有名な水池で立ち止まり、備え付けの長いひしゃくで湧き水をすくい、飲んでみました。湧き水は山の麓から湧いてきているようで、水神様が祭られていました。タイの美味しい水に感謝しました。きっと、この湧き水を、ミャンマーからチェンマイへ徒歩で後退してきた兵隊方が飲まれたのではないかと思うと、自然に手を合わせていました。水を飲んだ後、ホッと安心し、この場所で絶命された方もたくさんおられたのではないだろうか。そんなことを考えると、この場所に観光目的で立ち寄ったことは偶然ではないような気がしました。 


     そろそろ小腹がすいてきた頃でした。道路際にある小学校の前を指差し、妻が『この学校の敷地で多くの兵隊さんが埋設されたらしいよ』と説明をしてくれました。道路反対側にある食堂兼生活雑貨店でまずは腹ごしらえをしていこうと、車を止め、店内に入りました。私以外の皆さんは、見たことのないようなローカル料理を食べていましたが、私は無難にタイらーめんをお願いしました。味は美味しかったが、1杯だけ頂くことにしました。お店の主人に妻が情報収集を試みましたが、村の外の出身であり、詳しいことを知っておらず、目の前の学校の隣にあるお寺に行ってみることを薦めてくれました。なんでもその日は仏教日らしく、多くの村人が参列していて、高齢な村人達がおられるとのこと。当時の様子を知る人もおられるはずだと話してくれました。 


     食事を終え、店内で支払いをしていると、妻が学校の生徒たちにお菓子を寄付したいんだけど、どんなお菓子が喜ばれるかなと、話をしているようでした。当時、この学校の敷地で多くの兵隊方が埋設されたと思うと、この敷地で勉学に励む学生さんたちに御礼がしたいという思いに至ったようでした。すると、店主はお菓子ではなくカップラーメンを薦めて下さりました。理由までは、聞かなかったが、素直に従い、生徒と先生方の分を合わせて3ケース60個を購入した。車に積み込み、お寺の境内に車を乗り入れると、仏教式典が既に開かれており、多くの村人達が御坊様たちと共にお寺の中におられました。妻は躊躇無く、中へ入っていくと、中央前の御坊様の前で世話役を務める男性の方と話をし始め、日本の兵隊の為に法要を営んで欲しいと願いを申し出てくれました。突然の訪問者である我々を村人たちと御坊様は快く迎えてくださり、本堂にいる多くの村人達からも何も咎められることもありませんでした。ただただ、彼らの信仰心が場の空気を清らかなものにしてくださり、ここで亡くなった兵隊方の為の法要に花を添えて頂きました。私にはわからなかったが、妻の話によると、私がその場の一番前に座り、法要をして下さっている最中に多くの兵隊方が来られたようでした。私はそれを聞き、安堵し、御坊様と村人達に感謝しました。


     この後、お寺の隣にある学校へ移動し、教師と生徒たちの元へ近づき、話しかけました。我々は用意したカップラーメンを出し、彼らに寄贈致しました。突然の日本人の訪問と小さなプレゼントに子供たちは思った以上に喜んでくれていました。この後、男性教諭が日本の兵隊が埋められていたであろう場所へ連れて行ってくださりました。その場所を見たとき、私はふとある言葉を思い出しました。それは『惨めだ』という言葉でした。タイ王国に来る前に、日本の兵隊方から聞いていた言葉が今になって思い出し、その言葉の意味に合点がいきました。その場所はトイレの後ろにあり、隣には豚小屋があった。2頭飼育されていて、鼻を思わずつまんでしまうような場所でした。『あの言葉の意味はこれだったのかな』と思い、そこで線香を立て、火を灯しました。線香の香りがその場に広がり、場所の空気が整えられていくような感覚を持ちました。そして、日本から用意した日本食とお酒の蓋を開きました。手を合わせ、無言の声をかけた。『もうここにいる必要はない。迎えに来たんだから。共に母国へ帰ろう』しばらく、黙祷をした後、その日本酒をその地に撒くことに決めました。発つ鳥後を濁さず。場を清め、お世話になった場所に御礼を伝えました。 


     是にて、全て、今回の旅を締めくくることとなりました。確かに、タイ王国北部に広がる気配通りの旅になりました。次の日の8月20日夜タイ王国チェンマイ空港を発ち、無事、帰国の途につきました。NさんSさん夫妻にはドライバー代・ガソリン代・食事代・宿泊代として、10000バーツ(3万円くらい)を支払った。彼らは断ったが、また、タイ王国にて英霊の依頼活動がある時、お世話になるかもしれない。それに日本の兵隊方の労を労うための食材、日本米としょうゆを頼みもしないのに買ってきてくれたことは、松茸ご飯への料理のお供えに大いに貢献しました。日本の兵隊方はきっと帰国前の日本の料理に満足していたに違いない。今回の英霊の依頼では、妻が活躍していたように思いました。きっと現場でしか感じられない日本の兵隊方からの信頼と感謝を感じさせらる旅となりました。 


     今回は、妻がゆっくりと実家で時間を過ごしたことも大きかった。洗濯や実家の掃除、特に御両親との取りとめも無い会話の時間は、妻、ご両親に安らぎと幸せを感じることが出来たと思います。そして、妻のお母さんの言葉も気になりました。娘と一緒に寝たいという願いでした。きっと、親子離れ離れで心細く寂しいのだろう。私の妻のことを頼りにしているんだろうなと思いました。


     8月21日朝 日本へ到着。今年の日本は、タイ王国よりも暑い。ムッとする暑さを、身体が思い出した。子供とも再会し、いつも通りの平穏な我が家に戻りました。 


 14:『このご恩は一生忘れません』 


     私たち夫婦と共に、多くの兵隊方が帰国を果たされました。正確な数はわからない。しかし、多いのは感覚的にわかりました。全員が全員同じ出身地ではない。今回は、見送る必要は無い、要望があるまではと思いました。 


     次の日の夜、私はソファに座り、ゆっくりしていると、日本の兵隊方が最後の挨拶に来ました。『〇〇様、この後、我々は(各々の場所へ?)戻ります。この御恩は一生忘れません。ありがとうございました』その兵隊さんの思念が私の魂に伝わってきました。しかしながら、死んだのに一生ってどういう意味なんだろうと突っ込みを入れたくなったが、深く考えないことにした。少し苦笑しながら、冗談が言える最後に、彼らとのお別れに笑顔を添えることが出来ました。 


     今回も、無事、英霊の依頼タイ北部12回目をなんとか終えることが出来ました。これも、英霊の依頼に協力・陰ながら応援して下さる方々のおかげであると思います。全ては天の采配に導かれ、行なったこと。起きる現象は、依頼に来た多くの魂が望む結果に必要なこと。私はそう信じています。 


 15:新たな依頼 13回目 


     場所は、モールメン。現在はモーラミャインという読み方をしているらしい。深呼吸をしている自分がいます。いつものことだが、「次がどこなんて本当にわかるのだろうか。もうこれで終わりなんじゃないだろうか」と思う自分が存在しています。だが、こうやって日本の兵隊方が依頼に来ることで、やっぱり、現実に起きていることなんだと感慨深い気持ちにさせられます。


     長い文、お読み頂きありがとうございました。

英霊の依頼-インパール作戦に沿って-

「我々の処へ迎えに来てもらえませんか?日本に帰りたい」 我々家族の元に現れる日本兵とは第二次世界大戦インパール作戦で敗退し、亡くなった若い兵隊さんたちです ミャンマー、タイ王国、中国、インドと各々の呼ばれる場所へ訪問、合流し、帰国へ 2009年の秋 一人の兵隊から始まった日本への帰還依頼は、多くの帰国を願う兵隊たちに広がり 2025年12月 20回目の依頼を終えた。